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表と裏

「最良の手段……って何ですか?」  後ろから聞こえる賑やかな声。伝わってくる楽しそうな雰囲気。それとは正反対に、俺と尋音先輩の間にはひっそりとした闇が存在する。普段とは全く違う空気を、俺も先輩も醸し出していた。  俺は先輩を真正面から非難して、先輩は俺を分かりづらく拒絶する。尋音先輩の行動を咎めた俺を笑いながらも受け入れない。  俺たちはお互いに荒々しい言葉は使わないし、目に見えて態度には出さない。でも、どちらも譲る気はない。  先輩のことを理解できない俺と、初めから理解してもらおうだなんて思っていない尋音先輩。想いが交わることのないまま、問いかけた俺に尋音先輩が口を開く。 「あの時。もし俺が現れなかったら、ミィちゃんはどうした?」  その意味は、さっき逃げて行った男をどうやって対処していたかってことだ。 「尋音先輩が止めなければ、自分で何とかしてました。あの時は咄嗟のことで出遅れたけど、素人相手なら絶対に負けないし」  俺は合気道の経験者だ。それにあの男はあまり体格が良い方ではなかったし、先輩に助けてもらわなくても平気だったと思う。それを尋音先輩に告げると、吐息だけで笑われた。咄嗟にバカにされたと思った俺は、食い気味に言葉を重ねる。 「こう見えても俺、武道の経験あるんですよ!そりゃあ背は高くないし小柄な方だと思うけど……でも、あの人には負けないのは確実です。それぐらいは分かります」  早口で捲し立てた俺に、尋音先輩が緩く首を振った。 「違うよ。俺はミィちゃんがあの男に勝てるとか負けるとか、そんなことを気にしてるわけじゃない」 「じゃあ尋音先輩は、何を思ってあんな行動を?わざわざ尋音先輩が痛い思いをしなくても、俺が何とでもできたのに」  また、先輩が首を振る。 「もし振り払った拍子にあの男を殴ってしまったら?怪我をさせたら?それとも、ふらついた拍子に、あいつがどこかに身体をぶつけたら?そして、その場を誰かに見られたとしたら?」  いつもと同じ表情で俺を見ながら、いつも以上に冷静な声で先輩が訊ねてくる。 「あの男が全てミィちゃんが悪いように言って、周りもそれを信じたら?誰も庇ってくれない、誰も分かってくれない、誰も自分の言ったことを信じてくれない状況になったら?その時、ミィちゃんはどうやって自分を守るの?」  傷ついた左手を、反対の右手で撫でながら尋音先輩はさらに続ける。 「正しい事をしたからって、それが通じない時もある。卑怯な方法が勝つ時も、理不尽を受け入れなきゃいけない時もある。考えられる全ての手段の中で、1番効率の良い道を選ぶことが大事なんだよ」 「……それが、その怪我の理由ですか?先輩が怪我をすることが、良い方法だったんですか?」 「そうだね。俺が怪我をすれば、どんな経緯があったとしても非難されるのは相手だから。1番手っ取り早くて、1番に楽な方法で、誰にも迷惑をかけない。使えるものがあるのに、それを利用しないのは愚かでしかない」  自分の身体を道具のように扱う先輩に上手く返事ができなくて、何を言っていいのかわからなかった。だから黙った。俺は、先輩の世界に口出しはできない。  今まで誰かを殴った経験はある。喧嘩だってしたし、言いたい事を言って言い負かしたことだってある。逆もある。腹が立つから喧嘩して、吹っかけられて。それが当然だと思っていた。けれど、俺と先輩の『当然』は違う。  俺には、自分が痛い思いをしてでも我慢するなんて絶対に無理だ。それが最良だと教えられても、咄嗟に頭で考えて行動に移すのは難しい。  また今度、今日と同じ状況になったなら、俺は迷わず向かって行くだろう。頭で考える前に行動してしまうと言い切れる。  きっと、尋音先輩は何も考えていないように見えて、すごく考えて動いてる。いつも呆けているように見えて、俺の知らないところで知らない生き方をしている。  住む世界に育った環境。考え方や物事の捉え方。周りからの重圧も、負うべき責任も、求められることも。俺と尋音先輩は何もかもが違う。 「ミィちゃんが間違ってるわけじゃない。でも正しいとも言えない。上手く説明できなくて申し訳ないけれど……今は頷いてもらえると嬉しい」    俺が2人の間にある違和感を埋めようとしたら、きっと尋音先輩は逃げる。今はまだ近づけないと悟った俺は、頷くしかなかった。  

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