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表と裏

「ところで。ミィちゃんをここに連れて来たのは、あの眼鏡君じゃないよね?」 「あ、はい。今日は香西に連れて来てもらいました」  相変わらず人の名前を覚えない尋音先輩が言った『眼鏡君』とは、由比のことだ。ここに由比本人がいれば「眼鏡だけが俺の個性じゃない」って言いそうだけれど、眼鏡表現も間違っていないから軽く流した。  今日の俺は香西と一緒だ。それは別に隠すことでもなくて、素直に白状した。するとなぜか、尋音先輩の眉がピクリと動く。基本は何を考えているか分かりづらいくせに、こういう時だけ分かりやすい先輩は、少し可愛い。言ってることは物騒でも、可愛い。 「また香西。連れて来たはいいけど自分のことに必死で、ミィちゃんを放置するなんて考えられないな……」  顎に指の背を宛がった先輩が思案する素振りを見せ、俺の手をとった。その様子はまさに『王子様!』って感じで、庶民の俺は王子の邪魔をすることはできず黙る。手をとられながら黙り込む俺に、先輩が微笑んだ。 「決めた。このまま抜け出しちゃおう」  それはまるで学校帰りに寄り道する時のように、とてもラフな一言だった。内容は全く軽い言葉ではないくせに、あまりにも軽い口調。尋音先輩の緩い雰囲気そのままだ。 「はぁ……?!」 「ほら。今日は誕生日なんだから、多少の我儘は許されると思う。準備してくるから、下のロビーで待っていて」  いやいや駄目だろうって注意する隙すら与えられず、先輩はを残してベランダを出て行った。何食わぬ顔で会場へと戻れば、またあの『俺の知らない先輩』に早変わる。  怪我した手を上手く隠し、揉めたことなんて微塵も感じさせない。  先輩を見つけた人たちがその周りを囲うのに、数分もかからなかった。前に兄ちゃんから聞いた通り、先輩の傍には自然と人が集まり、日本語だけじゃない言葉が行き交う。尋音先輩を中心として、小さな世界が出来上がっていくみたいだ。  それをぼんやりと眺めながら、俺はやっと心を落ち着かせることができた。緊張がほぐれて、身体から力が抜けていく。そんな俺を振り返った先輩が誰にも見えない角度で密やかに笑い、出口を指さす。俺が首を振って拒否すると、笑っていた口元が「駄目」と動く。  そしてわざと部屋の奥へ向かった。きっと俺が歩きやすいよう、人を引き連れてくれたのだろう。先輩のその目論見は成功したようで、尋音先輩を追いかける人が自然と出口への道を作ってくれた。先輩の作ってくれた道が、俺を出口へと向かわせようとする。 「マジか……。尋音先輩って、実は人の扱い方上手いんだな……」  零れた独り言は誰も拾ってはくれない。  そもそも、初めから俺に拒否権なんてないんだ。先輩に内緒で会場へ潜り込み、その上で揉め事を起こして助けてもらったんだから。  居心地の悪い空間、知り合いのいない場所、帰れるように用意された道。  揃いすぎた条件に抵抗を諦めた俺は、足早にその部屋を出た。廊下を進みエレベーターの前に来たところで、香西に電話をかける為にスマホを取り出す。  電話に出なければ留守電を残そうかと思っていると、意外にもそいつは2コール目で出やがった。 「あ、香西?俺もう帰るから」 「ア?車もないのにどうやって帰るつもりだ?」 「どうって、あー……っと。電車か、歩いてか……まあ、その時の気分で」  まさか主役である尋音先輩と抜け出すんです、なんて言えるわけもなく。言葉を濁して逃げようとする俺を、香西の鋭い声が問いただす。 「柳。お前、今どこ?さっきから探してんのに見つかんねぇ」 「部屋の外。もうロビー向かってる。今はエレベーター待ちで……あ、来た」 「下で待ってろ。俺も向かうから」  香西を待ちたくなんてないけど、どちらにしろ俺は尋音先輩を待たなきゃいけない。だからロビーのソファに座っていると、数分して黒い大男がやって来た。  廊下のど真ん中を堂々と歩く姿は、本物のゴリラかと見間違ってしまうほどだ。

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