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表と裏

 進行方向の先に俺を見つけたゴリラ……じゃなくて香西が、こちらに向かって軽く手を振る。そのまま歩き進み、俺の目の前に立った香西は、片方の口角だけを釣り上げた。 「ポチ。お前、このまま何もせずに帰る気か?尋音を見なくていいのか?」 「いや、それなんだけど……」  見るも何も、さっきまで2人で話していた。何もしていないどころか、揉め事を起こし、主役の尋音先輩に庇われ、怪我までさせてしまった。だなんて、当然言えるわけがない。だから言葉を濁す俺に、香西は首を傾げる。 「それともアレか?差を見せつけられて、もうあいつが嫌になったとか?」 「あー……いやあ、まあ……差は感じたけど」  きっと俺は、煮え切らないやつだと思われているのだろう。それとも、土壇場で怖気づいた腰抜けだと思われているかもしれない。とにかく、香西の凛々しい眉がさらに険しくなり、詰め寄られた。  俺の隣に腰をおろした香西が怖すぎる顔で睨みつけてくる……が、何かを思い出したかのように「あ」と口を開いた。 「そう言えば、さっきお前のこと聞かれた。秦君のお友達に会ったって言われたんだけど、いつから俺とお前が友達になったんだ?」 「ゴリラとなんて友達になってねぇよ。それは、向こうが勝手に思い込んだだけで……って、それを言ったのって、もしかして」  俺が香西と一緒に来たことを知っているのは、尋音先輩とそのお母さんだけだ。尋音先輩がそんなことを言うはずはないから、自ずと誰の台詞かわかってしまう。頭に浮かんだのは、女優と間違ってしまうほど綺麗だったお姉さんの顔だ。 「尋音先輩のお母さん、すげぇ美人だった」  ありふれたことしか言えない俺に、香西は頷いた。 「そりゃあな。あの人、まだ30代の前半だから。あの見た目なら、年上もアリだろ」  仮にも幼馴染のお母さんをアリだと言ってしまうのは、かなりの問題発言だと思う。けれど確かにあの見た目なら、体格の良い香西なら隣に立っていても違和感はないだろう。  曖昧に笑うと香西の大きな手が俺の頭を掴む。その力強さは、まるで俺を励まそうとするかのよう。 「前に言った通り、あれは尋音の叔母さん。今は継母になったけどな」 「先輩とお母さんって仲は良いのか?」 「さあ?良くも悪くもないんじゃねぇか。あの2人が顔を合わすのは、こういった時と家の用事の時だけだから。つっても、もうそれも減るか……」  少しだけ言い辛そうにした香西が口元を押さえる。その意味がわからなくて首を傾げると、香西の眉間に皺が寄った。 「お前、聞いてなかったのか?尋音の挨拶の後、しばらくして愛知社長が言ってただろ」 「ベランダに出てたから聞いてない。どんな話?」 「ベランダ……だから探しても見つからなかったのか。まあいい。夫人の方、妊娠してるらしいぞ。あの人がパーティーに参加するのは、今日限りだって報告があった。付き合いも大事とはいえ、さすがに妊婦を連れ出すわけにはいかないだろ」  香西から聞かされた内容に、俺の心臓がドクン、と鳴った。  唯一だった尋音先輩の場所を奪うかもしれない存在。異母兄弟が生まれるという事実に、自分のことでもないのに動揺する。    尋音先輩には異母兄弟が何人かいると分かっていても、それとは次元が違う。次に生まれる子は、愛知家の正統な子供だからだ。その子が跡継ぎのトップになってもおかしくない。  そうなったら尋音先輩はどうなるのだろう。周りから第一候補として扱われ、指示された通りに生きてきた先輩は……今まで尋音先輩が家の為にしてきたことは、無駄になるのだろうか。  立場とか評判を気にして、自分を押し殺して、どんな時だって自分がどうあるべきかを優先してきた。そんな尋音先輩の毎日が無かったことになってしまう。  それを考えると、俺が苦しくなる。  必要なことだけを覚えて、不必要なことは全て捨ててきた先輩が、今度は捨てられる方になるんじゃないかって。そうなったとしても、尋音先輩なら笑うだろうって想像がついて、心臓がぎゅっと痛む。  このことを先輩は……もちろん知っているはずだ。だって家族だから。どんな経緯があったとしても、今は家族だから。だから、あの作られた顔と声で「おめでとう」と言ったに違いない。それは尋音先輩にとって『必要なこと』だ。  先輩はまた、自分の気持ちを捨てちゃうんだろう。尋音先輩にとって最も要らないものは、自分自身だから。

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