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表と裏
「おい柳。お前、急にどうした?顔面が死んでんぞ」
いつもなら失礼なことを言うなって言い返せる香西の台詞にも、今は全く反応できない。早く先輩に会わなきゃって、会って何を言えるわけでもないのに、それしか考えられない。
早く、早く、早く。
誰よりも何よりも早く尋音先輩に「大丈夫ですよ」って言ってあげなきゃ。先輩が自分を捨ててしまう前に、早く。
「柳……お前、マジで大丈夫か?」
香西の俺を呼ぶ声が遠くに聞こえる。何度呼ばれても答えない俺を心配したのか、大きな手が伸びてきた。けれど俺は、それを振り払うかのように立ち上がった。
「柳?」
不思議そうに見上げてくる香西の黒い目。そこに映る俺は、必死な顔をしているんだろう。今度はしっかりと香西に捕まれた腕が、少し痛むから。
「俺、行かなきゃ」
「行くってどこに?」
「そんなの1つに決まってる!あの人のとこに行かなきゃダメだ!」
心配してくれる香西を振り解こうと引いた肘が、誰かにぶつかる。振り返って見たそれは、背後に立っていたフードを目深にかぶった男の人だった。
それが男だと断定できたのは、俺よりも10センチ以上は背が高いから。少し上の位置に見える唇が、ゆっくりと開く。
「今度は香西と揉めてるの?ミィちゃんは逞しいね」
顔のほとんどを隠していたフードを捲った先に現れたのは、尋音先輩だ。俺が知っている淡い色の髪をして、同じ色の瞳の尋音先輩だった。さっきまで会場にいた時とは全く違う姿に、驚いてしまう。
「尋音先ぱっ――」
「しー、ね。ここに居るのがバレると、困るから」
人差し指を唇に押し当てた先輩が俺の腕を引いた。香西の元にあった身体が、ぽすんと軽快な音を立てて先輩の胸の中に収まる。男っぽくはないけれど慣れ親しんだ先輩の匂いがして、不覚にも嬉しいと思ってしまった。
でも、嬉しさの中に微かな違和感を見つけた。
「先輩、なんだか……濡れてませんか?」
ぽつ、ぽつと顔に落ちてくる水滴。それは尋音先輩の毛先から伝わった雫で、見上げると先輩の髪はしっとりと濡れていた。いつもと同じ色だと思っていたけれど、近くでよく見れば少しだけ濃い色をしている。
「ああ、シャワー浴びてきたから」
「そんなの家に帰ってからで良いじゃないですか!」
「せっかく一緒にいるなら、嫌な気持ちにはさせたくないなぁ、と」
「いや、だから……って、さっきから何の話をしてるんですか?」
上手く噛み合わない会話を不思議に思ったのは、俺だけではないらしい。なぜなら、俺と同じように、香西も顔中に疑問符を浮かべていたからだ。今回も尋音語をわからない俺たちに、当人は至って真面目に答えてくれる。
「ミィちゃんは黒よりこの色の方が好きでしょ?だから戻してきた」
「なん……まさか。まさか俺の為、ですか?俺がそっちの色の方が好きだと思ったから、わざわざシャワー浴びて落としてきたんですか?」
「うん。今日はいつもよりミィちゃんの表情が暗かったから。あと、脈拍数も少なかったような気がして」
こくん、と頷いた先輩が今度は不思議顔になった。これには俺も香西も、お手上げだ。
突然の行動とその理由に呆れて手で顔を覆う俺たち2人に、尋音先輩が首を傾げる。尋音先輩に常識は通用しないのだと、改めて感じた。
「尋音。やっぱお前頭おかしいわ。判断基準が脈って……ついて行けそうにない」
尋音先輩に俺を奪われ、空いた手で香西が頭をかく。俺よりもさらに呆れ返っている香西に、先輩はやっと視線を向けた。
「香西。誰の許可があって、この子に触ってんの?」
「ポチに触るのに許可がいんのかよ……ああ、そういうことか。お前ら2人で抜け出す気か」
尋音先輩と軽く話した後、今度はにやにやとし始めた香西。その頭の中で考えているのは、きっと下世話で良くないことばかりだろう。
「なーるほど。柳、身体に巻くリボンは用意したか?」
「リボン?」
何のことだろうと考えてみるけれど、その答えを見つける前にフライングで返事がきた。
「あれやるんだろ?プレゼントは俺ってやつ」
……ほらな。色ボケゴリラの頭の中には、まともなモノなんて詰まってないんだ。
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