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表と裏

「お前!先輩にそんなこと聞かせてんじゃねぇよ!!先輩が汚れる!」  ヘラヘラと笑う香西に怒ると、今度は鼻を鳴らしてバカにされる。しっかりと俺を見下ろし、呆れた色の瞳にこちらを映した香西は、俺から尋音先輩へと視線を移した。けれど、先輩は香西と目も合わせようとしない。  蝶々に相手をされなかったゴリラが寄って来るのは、俺だ。 「柳。あんな一言で尋音が汚れるって、お前の中での尋音は天使か妖精か?お前がこいつに何を求めてんのかは知らねぇけどな、尋音の下半身は緩々なんだよ」 「アァ?バカ言うな!先輩は蝶々の王子様なんだよ!!ゴリラのくせに調子のんな!」 「ここでゴリラは関係ないだろうが。だいたいなぁ、お前の例えは毎回大外れなんだよ。こいつのどこが蝶々だ?どう見ても毒グモだろ」 「はあ?!先輩に毒なんかあるわけないだろ!!」  一体何がどうなって、こんな無駄な言い合いになったのかはわからない。香西との会話はいつだって喧嘩口調で、だいたいが目的を忘れてしまう。気づけば声を抑えるのも忘れて、2人で顔を突き合わせて罵り合ってしまう。  だから例に漏れず、今回も同じように意味のない台詞の応酬が続く。すると、言い合う隙間を縫って「チッ」という音が聞こえた。  まるで舌打ちをしたような、そんな音が。ちょうど俺と香西の間から。 「香西!お前舌打ちしやがったな?!」 「ああ?してねぇよ。お前の空耳じゃねぇの」  今、俺の近くにいるのは尋音先輩と香西だけだ。もちろん俺は舌打ちなんてしていないし、そうなれば残る候補は1人しかいない。 「ほーん。なるほど、変な因縁つけて言い負かされるのから逃げようとしやがったな?こざかしいぞ、ポチ」  偉そうに睨みつけてきやがるゴリラ。こいつほど舌打ちが似合うやつはいないと言い切れる。 「いーや、確かに聞こえた!行儀悪い上に嘘つくなんて最低だぞ、香西秦!」 「だから俺はしてねぇって言ってんだろ。そうやって諭す前に、ちゃんと人の話を」  香西に最後まで言わせることなく、ドス、と鈍い音がした。その刹那、目の前を何かが横切る。というか、遮る。邪魔をする。  俺と香西の間にある空気をぶった切るように、無遠慮に突きつけられた何かが。  いつの間にか俺と香西の間に移動し、今までずっと黙っていた先輩が。  着ていたパーカーのポケットに両手を突っ込み、やっぱりフードを被ったままの先輩が。  さっきまで俺が座っていたソファの背凭れに、それはそれは長い脚をついていた。  お高いホテルのお高いソファを蹴っちゃうなんて、尋音先輩ってばさすが王子様……だなんて言ってる場合じゃない。  これはいわゆる壁ドン……ではなくソファドンだろうか。その割にちっとも胸がときめかないのは、どうしてだろうか。本来ならハートが飛び交うはずのシチュエーションで、俺も香西も揃って口を噤んだ。そうするしかなかった。  その答えは、先輩の顔がすごく怖くて、さっきの舌打ちが先輩のものだから……だと思う、多分。うん、多分。 「……」 「…………」  さっきとは真逆に黙り込む俺とゴリラの間、舌打ちとは無縁のはずだった『良い家柄』で『穏やかな性格』で『のんびり屋』な蝶々の王子が口を開く。 「避けてんじゃねぇよ、クズが」  地を這うような低い声。  あー、やだやだ。香西ってば口元をひくひくさせながら喋るなんて、すごく器用だ……と、いうのは俺の現実逃避でしかない。だって今のは、音程こそ低かったけれど明らかに尋音先輩の声だったから。聞き慣れたあの声だったからだ。 「なあ香西。腹を1発殴られるか、それとも蹴られるか選べ」  舌打ちも荒々しい言葉も、香西から出たものではなく香西に向けられたものだった。もちろん俺の心の声じゃなく、俺はそこまで思ってはいない。正真正銘、尋音先輩が犯人だ。 「ひろ、ね先輩?」  伸ばそうとしたはずの手が、びくとも動かず声も掠れてしまう。  だって、俺が知っているのはふわふわとしていて、季節で例えるなら春のように優しい尋音先輩だ。先輩が話す言葉はいつも柔らかくて、先輩の雰囲気と声にすごく合っていた。  けれど目前にいるのは、それとは真逆の低音ボイスで香西を追い込んでいる。先輩が実は双子で、一瞬にして入れ替わったのかと思ったけれど、そんな非現実的な話は……。 「あ?まさか香西が俺を無視すんの?なにそれ、笑えるんだけど」  悲しいことに、全くなかった。香西が答えなくて怒っていらっしゃるくせに、先輩は俺の言葉を拾ってくれない。  俺の想い焦がれてやまない蝶々の正体は、今日も上手く掴めない。

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