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表と裏

「おい尋音。こんな場所でキレるのはやめろ」  先に正気に戻ったのはゴリラ香西だった。寧ろ香西は突然のことに驚いたものの、あまり慌ててはいなかったようにも思える。  さりげなく先輩から距離を取りつつも、軽く注意した香西に対し尋音先輩が向けるのは刺々しい視線だ。 「黙れ。俺に指図するな」 「あー……ほら、可哀想に。お前が凄むから、柳が腰抜かしてるわ」  そこまでではないけれど、驚きで完全に固まっていた俺を尋音先輩が振り返る。その瞬間に先輩は、はっとした顔をして顔を押さえた。  隠れてしまったその先からは深い深い、それはもう深すぎるため息が聞こえた。 「最悪。ミィちゃんがいること忘れてた」  どうやら先輩は俺の存在を忘れ、頭のねじを飛ばしてしまっていたらしい。尋音先輩にまだねじが残っていたことにも驚きだが、この変貌ぶりは二重人格を疑ってしまうレベルで。 「先輩って二重人格だったんですね……」 「違うから。昔はちょっと口調が荒かっただけで、人格が変わったわけじゃないからね」 「いやでも、さっきのは完全に別人」 「絶対に違うから。ちゃんと理性の欠片は残ってる」  ちょっとでもなければ、欠片が残っていたかも怪しいと思う。けれど、香西が既に平然としているから害はない……のだろう。  要するに、先輩を怒らせなければ大丈夫ってだけの話だ。  元々、生活もまともにできない、1人では生きていけない人だ。この際もう1つぐらい変わった性質が見つかったとしても、今更だと思える。  そう思えなきゃ、尋音先輩とは上手くやっていけないことを俺は知っている。 「香西の所為で調子が狂った。どう責任とってくれんの?」  恨み言を吐いた先輩に、香西が微かに笑う。2人のやりとりの中に言葉にはできない馴染んだ感じを見つけた俺は、じっと黙って見守った。 「人の所為にすんな。全部お前の身から出た錆だろ」 「身から出た錆?確かに生きている限り細胞は酸化するけど、今のところ何らかの影響が出ているわけじゃない。適当なことを言ってごまかすな」 「……尋音、お前に冗談が通じないのは知ってたけど、こういうのもダメだったんだな。それより出て行くなら早くしないと、そろそろお開きになるんじゃないか?」    いつの間に時間が経ったのかはわからないけれど、主役の先輩がいなくなれば自然と帰り始める人も出てくるだろう。  俺でも思いつくぐらいだから、先輩はとっくにそう考えついていたらしい。即座に俺の手をとった尋音先輩が、香西に何も言わずに立ち去ろうとする。  ぐいぐいと引っ張られ、強引に連れ去られながら振り返って手を振ると、妙に嬉しそうな香西と目があった。その目が俺を見て先輩を見て、伏せる。  本当は、香西も先輩をここから連れ出したいんじゃないかと思った。俺とこうならなかったら、香西がするつもりっだったんじゃないか……って。 「香ざっ」 「ミィちゃん」  ちょうど先輩と声がかぶり、続きを促すように俺は先輩へと向きなおした。先輩の視線は前を向いたままだけれど、もう怒っている感じは全くない。 「ここからだと家まで30分ぐらいかかるけど歩く?それとも、外で車を拾う?」  30分もかかる道のりでも選択肢をくれるのは、車酔いが酷いという俺の嘘をまだ信じているからだ。1人だったら迷わず車を選ぶところを、俺に選ばせてくれる尋音先輩は優しい。  たくさんの人に囲まれ、きっと疲れているはずなのに。それでも気遣ってくれる優しさに、胸が痛い。  実は車酔いは嘘なんですって言っても、きっと先輩は怒らないだろう。そうだったんだねって笑ってくれるだろう。でも……。 「30分なら、このまま歩きたいです」  俺は歩くことを選んだ。もし先輩を怒らせたり呆れさせたり、嫌われたりしたら立ち直れないから。本当のことを言うのは、もう少し後にしようと決めた。 「わかった。疲れたらすぐに言ってね」  優しさを踏みにじることに目を瞑って、俺たちは外へと出る。誰かが追ってくるんじゃないかとソワソワする俺を、尋音先輩が申し訳なさそうに見ていたなんて気づかずに。  

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