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追いかけっこをしよう

「尋音にとっては全て決められたことだからな。100点も金賞も、1番も決められていたこと。あいつはただ、それを守っただけ。だから結果に喜ぶこともなければ、褒められなくて悲しいと思うこともない」 「未知の世界だな。平凡な俺には全く理解できない」 「誰にも無理だろ。もしお前が尋音の気持ちを分かるなんて言ったら、鼻で笑った後にそこから吊るしてやる」  屋上の縁に設けられたフェンスを香西が顎で指す。こいつなら本気でやりかねないと思った俺は、聞いていないことにして視線をそらした。 「それで。わざわざそれを俺に言う理由は?人のうわさ話をするなんて、香西は好きそうに見えないんだけど」 「お前、自分に嫌がらせする人間にえらく器が広いな」 「俺は香西のことは嫌いだけど、お前がただのゲスでクズじゃないことは知ってる。お前が俺を追いかける時も、絶対に危ないことはしないって知ってる。ちゃんと節度を持って追いかけっこを楽しんでるってな」  香西が俺を追いこむ時、こいつは自分では動かないけどしっかりと状況の把握はしている。あまり無理をしないよう、ゲームの範囲で楽しめるよう気も遣っている。  じゃなきゃ、あんな大勢に追いかけられて、俺が今ここに無傷でいられるわけがない。  追いかけられる俺をクラスメイトが敬遠しないことも、香西が見ていないところで苛められることもないのが良い証拠だ。  香西と俺にとって、あれは『遊び』に過ぎない。 「柳は平凡でチビのくせに妙に男らしい。あれだ、お前の犬種は柴犬だな」 「だから犬扱いすんなって」 「忠犬の柴犬。お前なら餌代が安く済みそうだ」 「1日3食、黒毛和牛のステーキを所望する。焼き方はミディアムレアで」  ははっと声を上げて笑った香西の顔が、次の瞬間に凍る。みるみる内に青褪めて、重たく苦しい息を吐いた。魂まで出ていきそうなほど、深く。 「……柳。見つかった」  視線をそらさない、そらせない香西の見つめる先は渡り廊下だ。俺たちのいる屋上からさほど遠くなく、高低差をもってしても見渡せるそこ。  その場所に立っている人物が首を傾げたのを、俺はしっかりと目に映した。  首の動きに合わせて揺れる髪も、こっちを一直線に見つめる瞳も。近くで見る時と変わらない不思議な色で、けれど綺麗な色で。特に今は太陽の光を直接浴びているからか、余計にキラキラしている。  本当に蝶々の鱗粉が舞っているみたいだ。花の匂いさえ漂ってくるんじゃないかとすら思ってしまうほど綺麗だ。 「なあ香西……あれって、どう見てもこっちに気づいてるよな?」 「当然だろ。だってあいつ、さっきから一瞬たりとも視線外さないし」 「ちなみに尋音先輩って視力悪かったりする?」 「いや。死ぬほど勉強させられてきたくせに、尋音の視力は両目とも2.0ある」  俺と香西は、先輩から目を離さずに会話を続ける。先輩の視力が悪くて、見えていないんじゃないかって最後の望みまで崩され、考えなきゃいけないのは、この後どうやって逃げるか、だ。 「もう少し休憩したかったのに。2段飛ばしで駆け下りたら逃げられるかな」  ぽつんと廊下に立っている尋音先輩が俺に手を振る。ふんわりと柔らかく笑って、長い指を緩く曲げて手を振る。やっぱり先輩の手って離れた場所から見ても綺麗だな、なんて悠長に考えていたら、その動きが止まった。蝶々が羽を休めるみたいに、ぴたりと。  上げた高さはそのまま、手の形が変わる。見えていたのは先輩の手のひらのはずなのに、それが手の甲になった……と、思ったら指がスッと伸びた。  俺の隣にいる香西を尋音先輩が指さす。 香西が息を飲んだ。

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