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【あの夏に逢いに行く】織リ子4@

 風が吹いていた  湿気を含んだ生ぬるい風が。わずかに髪を揺らす程度のものだったが、厳しい残暑の夜にはありがたかった。  多少、生ぬるくてもじっとりと汗ばむ首筋に気持ちいい。  誰もいない母校の屋外プールは、深夜とあって、当たり前だが静まり返っている。  プールサイドは、年季が入ったコンクリートのタイルの隙間から雑草が生え、手入れされず長いこと放置されてきたことが伺える。が、――にしてもと、古賀圭吾は最近張られたであろうプールの綺麗な水にやや眉を寄せながらも深く考えることなく、ぐるりと辺りを見渡した。  真横を通る国道の街灯で、わりとよく全貌を目視することができる。  圭吾が地元の高校を訪れたのは卒業以来になるから実に十年ぶりだ。久しぶりに赴いた先は、校舎ではく屋外プールだが。  ほとんど勢いで来てしまったようなものだったから、宿泊の用意などしてきていない。もとより、長居をする気もなかった。ここで夜を明かして始発で帰ればいい。  圭吾にとって、地元はあまり寄り付きたくない場所だったから。金があるなら始発を待たずしてタクシーで帰っただろう。  実家には五年前に祖母が亡くなった時に帰っただけで、地元にも実家にもその時以来戻って来ていない。  今は東京に住んでいて今日は仕事を終えると、ほとんど衝動的に土曜日の最終電車に飛び乗った。  二時間半電車に揺られて、群馬県の最寄り駅に到着した時には零時を回っていたから、細かいことを言えば、仕事を終えて終電に飛び乗ったのは既に昨日のことになる。  半袖の開襟シャツと黒のスラックスに革靴。  職場ではこの上に生成りのエプロンをしているが、それは職場のロッカーに引っ掛けてきた。いつも通りに。  いつも通りでないものは、こんな夜更けに、寄り付きたくもない地元のそれも母校のプールサイドにいることと、普段はスマホとハンカチと財布くらいしか入っていない肩掛けトートバッグに、慌てて青と白のスズランテープ(荷物などを縛るビニールテープ)と編み針を一本を突っ込んできことだ。  なんのために?  誰のために?  言わずもがな自分のためなのは明らかだ。自己満足。だって、到底あの人に手渡すことなんて叶わないのだから。  この懐かしい場所で、長い長い片想いが、プールに張られた、無言で薄暗く揺れる水面のように揺れているように思えた。  圭吾は、プールサイドをゆっくりと歩きながら、まるで感傷に浸りにきたようで、馬鹿だなと思う。  馬鹿な想いだと思う。  でも、一度でいい、やってみたかった。思いっきり自分に正直に。  あの人を存分に想いながら、あの人のために編んでみたかった。  随分と昔のことなのに、なかなか自分自身と向き合うことができなかったから。  そう、この母校が来週取り壊されると聞くまでは。 「どこで編もうか」  プールサイドを一周まわって圭吾は飛び込み台のところまでくると、四番の飛び込み台を見下ろして一つ大きく息を吐いた。  この飛び込み台の横に、プールに背を向けて圭吾が座ると、プールから上がった先輩が毎度の如く背中合わせに座ってくる。  一学年上の辻亮嗣は、体力作りの一環だったのか、陸上部を引退後、受験勉強の合間に度々プールで泳ぐことがあった。 『俺さ、「4」って数字が好きなんだよ』  へえ、と興味のないふりをしてみせて、 『なんでもいいですけど、背中濡れるんであんま近づかないでくださいよ』  と、本を片手につれなく言う。 『そこは何でですか? だろ? ったく、本ばっか読んでないで、お前も一度くらい泳いでみろよ。気持ちいいぞ』  と肩越しに言って寄越せば再び水の中へ戻っていく。  ひとしきり泳ぐとまた戻って来て背中合わせに座ると、脇から覗き込んできて、 『なあ、いつもなに読んでるんだ? お前――図形? なにそれすげぇ難しそうじゃん』  思わず恥ずかしくなって、覗き込まれた編み図の本をとっさに隠したのを今でもよく覚えている。 『化学が好きで……』  考えなしにそんな馬鹿みたいな嘘をついた。笑える。随分アホな嘘をついたものだ。  編み図はものによっては複雑な図形を成す。  掛け編みの丸記号やねじり目のℓのような記号、表目裏目の縦横の線にサイドには目の数を表す数字。  パッと見小難しい図形に見えなくも無かった。  化学か生物の教科書にでもでてくるようなそんな図形に空目しないこともない。  人目をしのんで放課後に編み図の本をここで読むのが日課になっていた。  本来は水に足を付けながらプールサイドで本を読むのが気持ちよくて始めたことだったが、亮嗣が泳ぎに来るようになってからは、あの頃の圭吾はあまりにも初心だったから上半身裸で――当たり前だが――泳ぐ亮嗣を意識しすぎるあまり直視することができず、以来プールに背を向けて腰を下ろし本を読むのが日課になった。  亮嗣が好きだったナンバーの横で。 それだけで、あの頃の圭吾は舞い上がりそうなほど幸せだった。とてつもなく暑かったけれど。  夏休みに入っても、約束なんて言う約束もしなかったのに、度々ここで暑い日をこうして過ごしたのだ。 『一度くらい泳いでみろよ』  揶揄うようにそう言った亮嗣の笑顔が脳裏をよぎる。 「そうだな。水が張られてなかったら降りたのにな」  一度も泳いだことのないプールだ。  全くもって盛んではなかった高校時代のプール。  当時の水泳部員の登録人数は五十人だと言われていたが、実際に活動していたのは、信じ難いことにゼロだった。  皆こぞって内申書目当てで長いこと機能していない水泳部に入部する。言わゆる帰宅部と何も変わらない。  懐かしい、胸が締め付けられるような、甘くて酸っぱい独りよがりな青い夏だった。  十六歳だった圭吾は今年で二十八歳になる。  遠い昔に想いを馳せながら、圭吾は先ほど駅前のコンビニで買ったお茶のペットボトルをバッグから取り出すと四番の飛び込み台の上に置いた。  飛び込み台に置いたペットボトルを再び手に取り蓋を開けると一口口に含む。  ゆっくり蓋をしめながらボトルを置くと自分も飛び込み台の横にプールを背にして腰を下ろしバッグを傍らに置いた。  バッグの奥をこねくり回して細い八号のかぎ針を取り出すと、おもむろに両手の指でいじりながら来る途中の電車の中で考えてきた構図を思い出す。  いたって単純な水泳バッグなのだけれど。  バッグに数字の『4』を編み入れるか、別に編んでバッグチャームにするかで悩んでいた。  バッグは青で数字は白だと決めている。  おいおい編みながら考えればいいかと、傍らのバッグの中から青のスズランテープを取り出して、圭吾はゆっくりと編み始めた。  そうだ、青の水泳バッグにやはり白い『4』のチャームでいこう。それがいい。  薄暗い中だと青テープを編むのはなかなか至難の業だと知り、地面に置いたスマホのライトを頼りに、編み目の一つ一つに亮嗣を想いながら丁寧に編んでいった。  スクエア型の底を編み終えて、上に数段編んだ辺りで全体のバランスを確認していると、ふと、圭吾は手を止めた。  顔をあげて、正面にある、まるで黄泉へと続く穴のようにぽっかりと開いた暗い更衣室の入口を見やる。  なんだろう。  こんな深夜に気味が悪い。  不気味な黄泉への入口がではなく、近くで車が停るような音を聞いた気がしたからだ。  嫌な胸騒ぎがした。大抵は当たらないが、それでも用心するに越したことはない。  不安気に眉を寄せると、そわそわと辺りを見回し始める。  すぐ真横の田舎の国道は深夜とあってほとんど車の流れはない。  スマホの時間を確認すればそろそろ二時だった。  丑三つ時、だなんて一瞬でも思ってしまうと、急にこの暗闇と無人のプールが恐ろしく感じてきてしまう。加えるならば、無言で見つめてくる黄泉への入口も。  そう言えば、昔のホラー映画に、プールから若い女が顔面に長い黒髪を垂らして這い上がってくるようなそんな日本映画がなかっただろうか。  馬鹿馬鹿しいと思いながらも考えずにはいられない。  飛び込み台の横――しかもよりによって四番の――に座って後ろから生っ白い女の手で急に腕を掴まれ水の中に引きずりこまれでもしたら、と思ったら、身体中に鳥肌がたって途端、圭吾は編み途中のバッグとかぎ針を乱暴に地面に放ると背後のプールを勢いよく振り返った。と同時に腰を浮かせて立ち上がると、そろり、と一歩後ずさる。  水面はいたって静謐で穏やかだ。何も問題なかった。  知らず、蒸し暑いだけじゃない汗が首筋をつたる。 「お、落ち着け。……平気だって」  一人黒い天を仰いで今がそんなシーズンであることを嘆いた。  衝動的にここまで来たものの、こうして編み物しているうちに冷静さを取り戻してくると、ここがいかにそんな雰囲気の場所であるかに気付かされる。  取り壊し寸前の廃校なのだから。  思えば、と言うかもっと早くに気がつくべきだった。  ホラーは大嫌いなのに。どれくらかって、ホラー映画のCMすら見られない。テレビで流れだしたりしたら、目をつぶってリモコンを探すほどに。慌てず騒がずテレビを消す。  参ったなと、頭を掻きながら放ったかぎ針を拾おうと屈みかけたところで、はたと動きが止まった。  これは、まずい。  今、まさに圭吾の真後ろ。  素足が、あった。  屈んだ瞬間にわずかな視界に紛れ込んで、圭吾の足のすぐ後ろに、靴の履いていない素足があったのだ。 「ぎゃぁぁあああああああああああああ!!」  駆け出していた。  盛大な水しぶきと共にプールへ落ちる。  慌てるあまり方向を見誤ってしまった圭吾は、プールに落ちたことも泳げないことにもパニックになる。泳がなかったのではない、泳げなかったのだ昔から。  今はそれよりも素足が怖かった。あれはいったい誰の足なのか。  あるはずのない素足。見えるはずのない素足。  あんなにもハッキリと見えてしまったことに頭が真っ白になる。  慌てるあまり水底をうまくけれない。身長が平均以下の圭吾は顎ラインが水面ぎりぎりで溺れているのか逃げ惑っているのか自分でもよく分からなくなっていた。  とにかく、アレから逃げなければ。  どうなって、どうして?! 動きが制限される水の中で狂気が増していく。  はやく、とにかくはやくここから出なければ。  むやみやたらに水を掻いで、何度となく水を飲んでしまいながらも陸を目指しかけたその時、強い力で腕を掴まれた。 「きゃぁぁあああああああああ!!」  目の前に水中から飛び出してきたのは、顔面に黒髪を張り付けたお化けだった。  圭吾よりも遥かに高い、暗闇で見ると大きなのっぺらぼうのように見えて、圭吾は女のかなぎり声のような悲鳴をあげながら失禁寸前だ。  事実、少しチビったかもしれない。チビっただけなら幸いか、あわよくば全てを放尿してしまうところだった。  のっぺらぼうが人間の声を発するまでは。 「お前なー!」 「ひぃっ!」 「なにが、ひぃっだ! 馬鹿か! ……って暴れんなって、溺れるぞっ、お、おいっ、落ち着けっ、落ち着けって……おま、おい! しっかり足をつけないか!」 「あ、あ、足、つくーっ!」 「つくー! じゃねえよ馬鹿か! 俺まで落ちただろうがっ。だいたいキャーってなんだよキャーって。てめぇは女かよっ!」  えー?!  と言う言葉すら声に出来ないほど状況が飲み込めない。  喋りかけてくる素足に――素足は語弊があるが――お化けではなかったのかと、圭吾の顔がまさに鳩が豆食ってポー状態だ。  腕を掴んだままの不機嫌な男が、顔に張り付いた前髪を掻き上げる。 「え……」  圭吾がその正体に気がづいた瞬間、頭を勢い良くはたかれた。 「ど、どど、どうしてここに?!」 「裏返りすぎだから、声っ」 「だ、だって、え!」 「え! じゃねぇだろっ、女みたいな悲鳴あげやがって。プールに向かって走るとか馬鹿かっ」 「女みたいな悲鳴っ……だ、だいたい先輩だってあんなっ」 「あんな、なんだ、お化けか?! んなもういねぇーよ! ガキか、馬鹿かっ。俺だよ俺っ! 確認してから走れ!」 「そ、そんな余裕あるわけないでしょっ」 「どちら様ですか? くらい訊けたろうがよ! 馬鹿っ!」 「ば、ば?! ば……って、す、す……素足に向かってどちら様ですか、とか訊きます? 普通っ?!」 「素足に訊けって誰が言ったよっ。素足に訊いてどうすんだよ、馬鹿か! お前はっ」 「先輩こそ黙って立ってないで一言声掛けてくれたら良かったじゃないですか! 音も立てずに忍び寄るからこんなっ」 「素足なんだから音でねえよっ。ってか声掛けようとしたら急に屈んだのはお前だからっ、この馬鹿!」 「ば……ば、バカバカって……ね!」  なんだかよく分からない展開に、再会を喜ぶよりも、人の事をことある事に馬鹿馬鹿言う亮嗣に腹が立ってきて、さっきまでの恐怖にも突然の亮嗣にもイライラが込み上げてくると、訳もなく負けまいと鼻息が荒くなり挑発的になる。半顔を引き攣らせながら鼻で笑ってやる。 「じゃぁあ、なんで素足なんですかぁ?!」 「ああ?! プールは素足だって決まってるんですぅっ!」  圭吾の苛立ちが亮嗣にも伝染し、亮嗣も開き直るような鼻息の荒い小馬鹿にするような苦笑を撒き散らしながらドヤ顔で言いのける。 「ってかぁ、そもそも靴! 履いてきてませんからっ! 俺」  靴を履いてきていない。更衣室で脱いだのではなく、そもそもが履いてきていない? 「なんでですか!! 紛らわしいことしてんじゃないですよ!」 「あんだと?! てめぇ俺が靴履くのも忘れるくらい慌ててたっての汲めねぇのかよっ状況!」 「履くの忘れるって」  有り得ないと、あ~あ何言ってるんだか、内心で笑ったつもりが顔にまざまざと出てしまう  圭吾が鼻を鳴らして苦笑を放つと、亮嗣が掴んでいた圭吾の腕を乱暴に放り投げた。 「だったら言うけどな!」  亮嗣が啖呵を切るなりプールサイドに向かって泳ぎ出す。  ひょいっと陸に上がるとらこちらを向いて仁王立ちに。己を両人差し指で指して「見ろっ」と叫んだ。 「なんなら、パジャマだかんな。俺!」  え――!!  びしょ濡れでボクサーパンツのラインまでくっきり透けて見えていたが、薄明かりの中でもはっきりと分かった。  白と水色のストライプ。  確かに、あれは、紛れもない。  思い出すだけで笑えてくる。  今は笑わなかったが、堪えるのがなかなか難しい。仁王立ちになって何を偉そうに言うかと思えば、堂々のバシャマ宣言だ。  今バッグを編むのに集中していなかったら、きっとまた爆笑している。 「パンツ一丁で編み物とか、なかなかセクシーだよな。しかも屋外とか」  隣でフェンスにもたれながら足を投げ出して亮嗣が疲れたような声でボソッと言う。 「どうだか。変態の何者でもないように思いますよ、俺は」  編む手を止めることなく素っ気なく返す。  あのひと騒動のあと、プールから上がると、亮嗣が車に置いてあったジム用のタオルを取ってきて、二人はびしょ濡れの服を脱ぐとフェンスに掛け、タオルで体を拭いた。 「どうして編み物なんてしてんだ? お前」 「先輩こそ、なんでパジャマなんですか」 「質問を質問で返すなよ」  おい、とフェンスから体を起こす。  とは言え、どう答えるべきなのか。  圭吾は隣で亮嗣の視線を感じながらも、編み目から目を離さなかった。  編む手も止めない。  進むと決めたから。  一目一目想いを込めて。  どうする、その想いを口にしながら編んだとしても、想いはこのバッグに込められるだろうか。  高校時代は初心で直視出来なかった亮嗣の裸が今は隣に、一緒にプールに落ちて、真夜中に三十路手前の男二人が真っ裸で――厳密にはパンツ一丁だが――母校のプールサイドに座っているのだ。  もうなんだか何も怖くなかった。  今更何がおころうと、亮嗣にどのような反応を返されようと、もう何も怖くないだろう。 「忘れられない人がいて」 ぽつりぽつりと編みながら答え始めると、亮嗣も乗り出した体をゆっくりとフェンスに戻した。 「どんな奴」 「俺の好きだった人で」 「もう好きじゃねえの?」 「……どうなんだろう。もう随分前のことで、正直よく分からないんです俺も」 「…………」 「ただ、叶わない恋だった……って言ったらいいのかな。なかなか普通とは違って」 「訳ありか?」 「弊害が」 「弊害?」 「そう弊害が」  圭吾は編む手を止めて隣でフェンスにふんぞり返っている亮嗣に顔を向けた。 「ゲイなんですよ。俺がね?」  とうとう告げた。己の性癖を。  親にバレて家を出ることになった原因だ。  バレる前から悩んでいた圭吾に、祖母だけがいち早く気がついて、『心が晴れない時は編み物が一番だよ、圭吾。編んでいる時は色んなことを忘れられる。黙々と糸を編んで目を数えるだけの作業は思いのほか心地いいものだ』と。  祖母は訳を訊かなかった。圭吾が思い悩んでいる訳を。ただ、両親に内緒で毎晩編み物を教えてくれた。  編み物はいい。嫌な事を忘れさせてくれる。それになにより、完成した時の達成感は圭吾の心を期待以上に潤した。  だから、今でも編み物が好きだ。  現在は、都内の手芸用品店で店長をしながら編み物教室もやらせてもらっている。  今の仕事につけたのも祖母のお陰といってもいい。 「思春期真っ只中の俺は結構思い悩んでました。誰にも打ち明けられないし。ばあちゃんが、それで編み物を教えてくれた。編んでると気持ちが不思議と落ち着くんですよ。他のことが頭から抜ける」 「昔ここでお前が読んでた本って、もしかしてあれって編み図か」  科学にしちゃちょっと可愛かったんだよな、と今更ならが腑に落ちたようだ。 「気づいた時は漠然としたものだったんですが、あの日、あの夏に、このプールで俺は核心したんですよ」 「自分がゲイだって?」 「先輩が好きだって」 「…………」 「俺は、先輩が好きでした」  目を見開いたのは一瞬で、亮嗣は驚くとも嫌悪とも違う微妙な反応を示した。無表情にも見えるけれど、どこか打ちひしがれたような――軽蔑のように圭吾には見えた。  薄暗い中とは言え、こうして改めて見る亮嗣は、昔と変わらずカッコよかった。飄々とした釣り目は相変わらずで、それを少し削げた頬骨が亮嗣を大人の男に見せた。雰囲気が少しだけ丸くなったようにも感じる。  あの夏から十一年。  圭吾も家を出てから、当てもなく仕事もなく、それなりの場数を踏んできた。  あの頃のようなあどけなさは欠片も無い。  歳をとった。どちらもまだ若いが、どちらももう子供じゃない。  昔を懐かしんで軽く口角を上げると、圭吾はそのまま編み作業に戻った。  ビニールは毛糸と違って素材が硬い。  けれど、どんな素材であれ、編んでると平常心を保てた。 「その好きだった人のことを思いながら、一度でいい、俺は編んでみたかったんです。渡すことはできなくても、先輩のために編んで見たかった。心行くまで存分に。それが、どうしてか今の今まで出来なくて。……怖かったんだろうな」 「何が」 「……過去と決別するのが、だと思います」 「…………」 「初恋だったから」  と、自分でも気づかない程度に恥ずかしそうに笑ったら、亮嗣がわずかに悲しそうな目をした気がして気になった。けれど、 「と、言うわけです」  強引に切りあげた。  亮嗣はフェンスに寄りかって真っ暗闇の空を見上げたまま何も言わなかった。  それからしばらく、無言の時が流れる。気まずい感じは全くなかった。  ビニールテープのシャカシャカ音だけがその場を占めていた。  バッグの完成が見えてきて、取っ手部分にとりかかろうとした頃、亮嗣が立ちあがって飛び込み台へと歩いていく。  圭吾は編む手を止めて亮嗣の背中をじっと眺めていた。  四番の飛び込み台から亮嗣が綺麗な曲線を描いてプールに飛び込む。  ほとんど水しぶきも上げずに入水すると、コースの半ばあたりでようやく浮上し、ゆっくりとクロールをし始めた。  圭吾はそれを眺めながら再び取っ手部分に取り掛かる。  十一年前は、この泳ぎを直視することができなかったから、こうしてまた亮嗣の泳ぎを目の当たりにすることができて嬉しい。  どんな運命の巡り合わせなのか、衝動的に終電に飛び乗った時は、まさか亮嗣に出くわすなど思ってもいなかった。期待すらしてなかった。  好きな人が泳いでいる横で、好きな人を思いながら好きな人の為に編む。  最高だ。  自分は、まだきっと亮嗣が好きだ。紛れもなく、こんなにも焦がれている。  夏になると思い出さずにはいられなかった。本当はずっと会いたかった。  このプールに来るのを突然やめたあの日から、胸が、心が、苦しかった。  溢れ出る気持ちに無理やり蓋をして、目を背けてきてしまったけれど、心残りはいつになっても消えない。  母校が壊されると知って、良かったと思う。  こうしてここに来て、心残りを清算する機会を得られて良かったと思う。  偶然だとしても、亮嗣に再会できて、気持ちを告げることができて良かったと思う。  神様にありがとうを言いたい。  圭吾は、甘い結末などないと分かっていながらも微笑まずにはいられなかった。  亮嗣はまだ泳いでいる。ゆっくりと何往復しただろうか。  取っ手部分が終わりバッグが一応の完成をみると、圭吾は次に白のテープを出して『4』のチャームに取りかかった。  最初の目を数え終わったところで、圭吾は凝り固まった首を回しながら顔を上げる。  見れば、フェンスを越えた向こうの空がうっすらと明るくなってきていた。このまま行けば、空に縹色が帯びるのはもう時間の問題だ。  あと小一時間もすれば始発が出る。  気づくと、亮嗣も泳ぐのをやめて、同じ方向の空を眺めていた。  圭吾より頭二つ分は大きい亮嗣は、プールの真ん中でも綺麗な筋肉質の肩を覗かせる。  手を伸ばしたら届くところにいるのに、伸ばしても決して届かないものだった。  見つめていると、亮嗣がくるっとこちらを振り返った。自然と目と目が合う。  昔の自分ならとっさに逸らしていただろうが、今は逸らしたくなかった。  何を言われても、全て受け止めたい。 「古賀」  十一年ぶりに名前を呼ばれて、無言で応える。 「俺が、『4』好きだって言ったの、覚えてたんだな。お前」  当たり前だと、圭吾は笑った。 「なんで好きなのかって、聞けばよかったって今さら思いますよ」 「どうして、あのころ急にプールに来るのやめたんだ」 「俺は……、舞い上がってました。あのころ。毎日のように先輩に会えて。なんか色々錯覚しかけてたんですよ。一方的な想いを」  亮嗣が圭吾の声を聞こうと近くの縁まで泳いでくる。  縁に両腕を出して続きを促した。 「夏休みの終わりに、祭りがあったでしょ? あの祭りに、俺はばあちゃんを連れて行っていて、その時、先輩を見かけたんです。何人かのグループでいました。数人女子もいたりして、その、その女の子たちと楽しそうに屋台を回る先輩を見た時、俺、思ったんです」 「何を」 「いや、目が覚めたんですよ」 「だから、どんな」 「住む世界が違うんだって」  そう言うと亮嗣は急に水の中へ潜って今度は物凄い勢いで泳ぎ出した。  圭吾は驚いて、何事かとかぎ針と白テープを置いて立ちあがると四番の飛び込み台の辺りまで小走りで行きプールを覗き込む。  速いクロールでコースを行ったり来たり。  戻ってきた亮嗣がどこか怒った表情で飛び込み台横の圭吾を見上げる。  さすがに息を切らして。 「古賀! 今度はお前が俺に質問しろっ」 「えっ、急に……」 「早くしろよ。朝がきちまうだろうがっ」  と言うか、もうほとんど朝のようなものだけれども。  圭吾は言われるままに、飛び込み台に腰を下ろして直近の疑問を問いかけた。 「どうしてパジャマだったんですか?」 「それなっ。お前、ここ来る前にコンビニ寄ったろう」  お茶を買うために寄った駅前のコンビニのことだろうか。 「あそこでバイトしてる奴、いや、今は店長なんだが、俺の高校からのマブダチなんだよ。そいつが、お前が来たぞって電話してきたんだ」 「え、なんで俺のこと?」 「まあ聞けよ。その連絡が来たのが夜中の一時で、お前がコンビニ寄ってから一時間後だったわけ。だもんだから慌てて家飛び出してこのざまだ」  友達の電話で飛び起きて、慌てて寝ぼけ眼で財布だけ掴み靴を履いて玄関を出たら車のキーを忘れたことに気がついて、再び家に戻ってキーを掴んだら今度は靴を履くのを忘れた、と言うなんともお粗末な話だった。  けれど、そこで幾つかの疑問が沸く。 「今どこに住んでるんですか」 「神奈川だ。お前は?」 「俺は、ってか近いですよ。俺、東京です」 「まじかよっ」 「わざわざ神奈川から車で? 深夜に? しかもパジャマで素足で……。友達から電話って」 「ここが取り壊されるってもし知ったら、お前が来るんじゃねえかって。この夏、お前を見かけたら連絡くれってあちこちに情報網を張り巡らせておいたんだよ」  どうしてそんなことを。 「十一年前の、ここでの夏が、お前にとってわずかでも特別なものだったとしたら、取り壊しを聞いてもう一度ここへ戻ってくるかもしれねえって」 「……思ったんですか」 「ああ、思った。だって、戻ってきたら、そしたら、きっとそれは――絶対にお前にとってここでの夏が特別だったってことになるんじゃねえかって」 「それは……」 「違うのかっ」 「ち、違いません!」 「俺との夏が、あの時の夏がお前にとって特別だったってことだろ?!」 「そうですっ」 「だから、くそっ……俺が言いたいのは、つまり……」 「…………」  つまり? 「もう一度、会いたかったってことだ。俺はずっとお前が急に来なくなった訳をちゃんと訊きたかった」 「どうして」  そんなに一生懸命になってくれるの?  心の問が、どこか、懐かしい匂いを孕んだ生暖かい風にのってゆったりとプールサイドを通り過ぎていく。  空が縹色を帯びて、急速に世が明けると、真っ直ぐに見つめてくる亮嗣の目が、さきほどよりも鮮明に見えた。  まさか、そんな。  圭吾は首を振って思わず息を呑んだ。 「俺は」 「……嘘だ」 「俺はっ」 「嘘!」 「嘘じゃねえ! 俺はっ、お前が好きだった!」  なんてことだ。そんな偶然があるはずがない。  にわかには信じがたくて、前のめりになっていた体を圭吾は無意識に後ろに引いた。 「揶揄ってねえよ。冗談もねえ」 「…………」 「嫌われたと思って。夏祭りの後、来なくなった理由を俺はとうとうお前に訊けなかった」  学年も違ったのと、教室の階も違ったから。亮嗣はそれから受験勉強が佳境に入り、卒業して進学のため神奈川へ引っ越した。  お互いの連絡先など知らない。  そのまま、日常に追われて年月が過ぎた。  夏になると思い出さずにいられなかったのは、圭吾だけではない。 「住む世界が違うだなんて、俺は考えもしなかった、これっぽっちも。ただただ、お前が好きだった」 「……すみません」 「ああ、本当に。どうしてくれるんだよ、俺の青春」 「すみません」 「住む世界が違うとかっ、お前が変に気になんてしてなけりゃ、俺はこんな気持のままこんなにお前を気にすることもなかったのに!」 「すみませんっ」  圭吾は、飛び込み台の横に膝をついて、頭を下げた。 「俺が、俺のせいで」 「馬鹿か!」 「はい、馬鹿ですっ」 「違うっ」  圭吾の真下まで亮嗣が泳いできて、下げた視線の先に、亮嗣の顔が覗く。 「馬鹿野郎は俺だ。お前のせいなんてミジンコも思ってねえよ」 「だってさっき」 「本当は、怖がらずに、ちゃんとお前に訊けば良かったって。自分に腹が立ってんだ」 「先輩……」 「若かったんだよな、お互い」  そう言って、亮嗣が後悔を隠すように小さく笑った。 「お前、今日仕事は?」 「休みです……始発で帰ろうと思ってました」 「そうか、なら、送ってくよ」 「え」 「だって、あのバッグ、俺にくれるんだろ?」 「え、あ、……はい」  当初あげるつもりは無かったけれど。そもそも、亮嗣に渡せるなんて思ってもいなかったから。歯切れの悪い返事になってしまった。 「なら、あとは車の中で仕上げろよ。そろそろ、多分だけどな、明日から始まる解体工事の器具が持ち込まるてくるんじゃねえかって」 「なっ、じゃ、もう出ないと」  と、立ち上がろうとしたその時、やにわに腕を捕まれあっという間にプールの中へ引きずり降ろされた。 激しい水しぶきをあげながら落ちた圭吾は、先程みたいに溺れはしなかったが、幾分水を飲んでしまって水面で激しくむせる。  髪を掻き上げて顔を手でぬぐうと、 「ちょっと! いきなり」  何するんだと言う言葉は、亮嗣の胸に押し消された。  長い腕に抱きすくめられて、圭吾の頭が真っ白に飛ぶ。 「これくらいいいだろう」 「これくらいっ……て」 「自腹切ったから」 「自腹……?」 「お前と、一度くらい一緒に泳ぎたくて」 「まさか」 「ここの水、自腹切って張らせてもらったんだ。……ったく、何やってんだかな、我ながら。来るかも分かんねえのに」  けど、と、体から圭吾を離すと、なんとも眉根を下げた苦笑顔の亮嗣がそこにいた。 「お前、泳げないんだな」 「…………!」  急にいたたまれなくなる。 「でも、まあいい。今となってはさ。お前に会えただけで、俺、すげえ満足してる」 そう言って、圭吾を抱き寄せると、頭の上に顎をのせた。  猛暑を予感させる熱い空気を連れて、ゆったりと登ってくる太陽が眩しかった。  車に乗り込んで、母校を後にしたのはつい数十分前のこと。  出発して直ぐに、解体用の機材とおぼしき物を運ぶトラックとすれ違ったから、ギリギリだった。  フェンスに掛けておいた洋服はほとんど乾いていて、帰り間際にプールに入ってしまった圭吾と亮嗣は、ここだけの話だが、ノーパンだ。  まもなく東北自動車道へ入るところで、運転していた亮嗣が突然ファミレスの駐車場に車を入れた。  車中のラジオからは、ちょうどサザンの『いとしのエリー』が流れだしたところだった。 「どうしたんですか、先輩」  助手席で、最後のチャームの仕上げをしていた圭吾が、真っ青な顔をしながら編み針を止めて隣の亮嗣を見やる。  ステアリングに額を押し付けて、全体的に老け込んだ様子の亮嗣がけだるそうに口を開いた。 「なあ……ちょっともう、限界」 「じ、実は俺も、限界超越してます」  徹夜であれだけクロールしていれば、亮嗣の眠気もマックスだろう。  かくゆう圭吾も、仕事終わりの、徹夜明けからの、車の中での編み物で、眠気と車酔いに苦しんでいた。  正直、高速に乗る前にファミレスに停まってくれてほっとしている。  亮嗣はステアリングに突っ伏したまま半顔だけを圭吾に向けてくるものの、瞼は重たげでどこか視線が定まらない。 「なあ」 「……はい」  圭吾はと言えば、ヘッドレスに頭を預けて吐き気よ早く去れ、と必死に瞑想中だ。完全にノックアウトだった。 「俺のこと好きだったって言ったよな」 「言いましたね」  うっ、と口元を抑えながら、今更どうしたのかと目線を送る。 「もう好きじゃねえの? って訊いたら、随分前のことで、正直よく分からないって言ったよな」 「……言いましたけど」 「俺も正直分からない」 「…………」 「ただ、十年以上たっても、頭の片隅にお前がずっといて、ふと思い出す時なんてボーっと呆けちまう」  今更何を言い出すのかと、圭吾が見つめていると、重たげな瞼が上がって亮嗣と目が合った。  笑えるくらい、どちらも疲労困憊の表情だった。  実際は、笑えなかったが。 「だからさ、こんな状態で申し訳ないんですがね」  急にかしこまって亮嗣が言う。 「お互いの今までを、コーヒー飲みながら話す、ってところから始めてみませんか?」  どうでしょう、と。  これがもし、一世一代の大告白だとしたら、ここは赤面して飛んで喜ぶところだが、サザンの『いとしのエリー』をもってしても、車中のムードを盛り上げるには、ややお互いの体調不良が過ぎていた。  そもそも告白なのかも判然としない亮嗣の言葉に、ムードを壊しかねないと思いつつも、一応の確認を入れる。 「……それは、告白と受け取っていんでしょうか」 「返事っ。イエスかノー」 「イ……イエスです」 「よっしゃー」  と、エンジンを切ると、 「出ろ」  言うなり一人でとっとと車を降りてしまう。 「あ、え? ……ま、待ってくださいよ」  フラフラしながら圭吾も後に続くと、前を歩く亮嗣が振り返って、 「四番テーブルにしてもらおうぜ」  と言うのへ、 「またそんな不吉な」  と、ボソリとボヤけば、 「馬鹿野郎。超ハッピーなナンバーなんだぞ」  ファミレスの扉に手をかけて圭吾を振り返ると、 「『4』はな、幸せで喜ばしい、なんだよ」  と、ようやくその訳を知ったその時、圭吾はある重大なことに気が付いてしまった。 「先輩!」 「……あ?」 「そ、その格好っ、パ、パパ、パジャマです!」 「あ!!」  しかも素足と言う。  不幸中の幸いか。とにかくファミレスに入る前で良かった。と言うよりここに辿り着くまで気が付かなかったことが、二人の余程の疲労を如実に表していた。  慌てて車に舞い戻ると、亮嗣が財布を圭吾に手渡す。 「そこのコンビニで白T買ってこいっ」 「え、まだファミレス入る気ですか?」 「当たり前だ。それとスリッパも」 「スリッパぁ?!」  正気か?!  それでいくと、俗に下着と呼ばれる白Tに白と水色のストライプのパジャマパンツ。そしてルーム用のスリッパってことになるけれども。加えて言っていいのならば、ノーパンだ。 「このままじゃトイレにもいけねぇだろ。上下パジャマより白Tの方がマシなんだよ。考えてみろって、今の時間客なんてほとんどいねえから」  手のひらをヒラヒラさせて早く行けと促してくる。 「あ、それとパンツもな。頼む」  あ、そこは気にするのかと、もう呆れて笑うしかない圭吾は、 「……了解です」  覚悟を決めて言われたものを買いに車を降りた。  その後、無事にファミレスでコーヒーを飲みながらお互いの話をしたのは言うまでもない。  もちろん、そう、ハッピーなナンバーのテーブルで。  了 感想はこちらまで→ @halu_oriko4

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