7 / 10
【溶けたアイスは甘すぎる】那月紗良
彼の褐色の肌の上で溶けるバニラアイスは、17年間の人生の中で最も食欲をそそられるものだった。
アイスを胸元と腹の間に落とした瞬間、「冷たっ」と彼は小さく身を捩った。
プールサイドの長椅子に横たわった彼に合わせて、僕は緑の床に膝をつく。
制服のスラックス越しでも、太陽をたっぷりと吸い込んだ地面の熱を感じる。
水泳部の一員として日々練習に励む肌はよく焼けていて、なんだかチョコレートを思わせた。
チョコレートに、バニラが滲む。
わき腹を伝って、白い筋が一滴零れ落ち、地面に小さなシミを作った。
ごくり。
と嫌に大きな音が聞こえて。
それが自分の生唾を飲み込む音だと、はじめ気が付かなかった。
僕は彼の逞しい太ももと肩に手をついて、ゆっくりと顔を近づけていく。
浅黒い肌の上に、更に濃い影が、落ちる。
息がかかるほど傍に顔を寄せたとき、髪の毛をやんわりと掴まれた。
「せ、先輩本当にするんすか……?」
整った凛とした顔に、困惑の色が浮かんでいる。
「君が、何でもするって言ったんでしょ」
視界の端に、びしょ濡れのハードカバーが目に入る。
僕は自分よりも太い腕を握り、ゆっくりと外した。
目の前の白い塊は、さっきまで固形だったのにも関わらず、暑さにやられてもう半分は溶けだしていた。
広がるオフホワイトの液体に舌を伸ばし、舐める。
びくん、と彼の身体が跳ねた。
「っ、くすぐった……」
舌の上に、べたつくような甘さが広がる。
これはアイスの味だ。
肌はチョコレートのように見えるだけで、実際そうではない。
でも、普段のバニラより、喉の奥に甘さが絡んで、消えない。
「美味しい」
「先輩、変態っぽ……んん」
わき腹に垂れたものを掬い、胸元に向かってなぞり上げる。
彼はまた小さく身を震わせた。
随分と敏感だな、と思う。
「誰が変態だって?」
わずかな固形に歯をたてると、すっかりと柔らかくてぐにゃりと口の中で溶けた。
残りの塊はツツツとチョコレートの丘を滑り、ヘソの中に溜まった。
彼の腹は、大きな上下を繰り返している。
小さな窪みの中に、舌を捩じ込む。
一段と大きく彼の肩が揺れる。
「先輩……」
「ん」
掠れた声で呼ばれ、舌を這わせたまま目線だけでそちらを向くと、耳朶は朱に染まっていた。
両手で覆い隠した指の隙間から、彼の目だけが僕を見ている。
「いやそこ……ダメです」
くぐもった呟きが聞こえるが、ダメと言われて止めるわけもない。
僕は先を尖らせて、ぐりぐりと隙間を押した。
小さな水溜は、ぴちゃり、と音を立てる。
彼の肌に差す赤みが、より一層濃くなった。
そもそも彼がなぜこのような状態になっているかと言えば、僕のお気に入りの本をプールに沈めてしまったからである。
『何でもしますから!』
と灼熱に焦がされた地面にめり込ませる勢いで頭を下げた彼への要望が、これ、と言う訳だ。
全く迂闊だ、と思う。
何でもしますからだなんて、簡単に言ってはいけないんだよ。
彼の身体に広がった白い液体を全て舐めとると、僕はすっかりと汗をかいていた。
「……喉、乾いた?」
「はい」
顔を手で覆ったままの、くぐもった返事が聞こえる。
カップには半分のバニラアイスが残されていた筈だが、もはやそれは白い海だった。
「冷えたアイスと、ぬるいアイス、どっちがいい?」
本来なら、『ぬるいアイスってなんすかー』と彼は笑うはずだった。
「……ぬるい方で」
その答えにふっと自分の口角があがったのを感じた。
僕はカップの中の残りを流し込み、口に含む。
顎から滴った汗が、彼の腕に落ちた。
熱い手をゆっくりと剥がしていくと、彼の瞳はじんわりと潤っていた。
人差し指で唇に触れる。押すとふにふにと柔らかい。
赤くぽってりとした輪郭の端から端までをなぞりあげる。
すると、力強く手首を掴まれた。
驚く間もなく、勢いよく彼の方に引かれ、前のめりになる。
「っ……ん」
片頬を大きな手で包み込まれ、頭の後ろを支えられると――彼の唇で、唇を塞がれた。
僕の口内にあったバニラアイスは、あっという間に奪われてしまった。
彼の喉がごくり、と音をたてて上下する。
「美味しい、です」
濡れた目は、太陽を反射して鋭い光を放っていた。
「君、変態っぽ……ふぅ、ん」
僕の口の中に、もうアイスクリームはないのに。
その残りの甘さを余すところなく舐めとるように、彼の舌が僕の内側をくすぐった。
彼の唾液と、僕の唾液が混ざり合って、喉の奥に落ちて行く。
僕はバニラアイスよりも、彼のそれの方が甘いと感じた。
毒のように広がる、蜜みたいな甘さ。
それを解毒する方法はなく、一度知ったら最後、また、欲しくなってしまう。
顔を離した二人の間に、透明な橋が渡っている。
忙しなく上下する彼の胸と、荒い呼吸音がプールサイドに響く。
「先輩……俺はもう、許してもらえますか?」
彼の端正な男らしいかんばせに、微笑が浮かんでいる。
「ダメだよ、なんでもするって……言ったでしょう」
彼が起き上がり、椅子に腰かけると、膝立ちの僕は見上げる形になった。
指先が伸びてきて、耳朶をくすぐる。
きっと、僕の瞳にも潤いの膜が張っている。
「じゃあどうして欲しいか、教えて先輩」
僕は内心でほくそ笑みながら、静かに目を瞑った。
彼が自主練習をしている間、僕はプールサイドで読書をするのが日課だった。
最近読んでいたのはハードカバーの古本で、もう中々手に入らない貴重なものなんだと話をした。
薄く目をあけると、びしょ濡れのそれの下には水溜ができている。
彼は、ぶつかった衝撃で僕がそれを落としてしまったと思っているようだ。
だがそれは違う。
プールに沈んでいく本は、僕が手放したものだったのだ。
乾いていった本の隙間から、皺の寄ったページが少し見える。
そこに文字の羅列はない。
あるのは白紙のみだ。
僕はずっと、本を読んでなどいなかった。
水の中を自分のものにして泳ぐ彼しか、目に入ってはいなかった。
掬いきれなかったアイスの残りが、緑の床を白線となり滑り、プールへと消える。
「先輩っ……」
僕はやっとこちらを向いた彼に、随分と前から溺れていたことを教えていく。
<了>
ご高覧ありがとうございました。
感想などはよろしければこちらにお寄せくださいませTwitter@sara0sara01
ともだちにシェアしよう!