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【魚の夢は、青く白く】佐藤あらん
きらきら きらきら
真夏の太陽が反射して、小さな光の洪水を撒き散らすそこには、いつも魚が泳いでいる。
黒い頭とこんがりと焼けた肌が、水飛沫の向こう側で跳ねる。
その魚はいつも楽しそうに笑っている。
その他の多くの魚と一緒に戯れたり、一匹でひたすら水の中を自由に動き回るのだ。
真っ青な空の下で見るその魚は、まるでそこでだけ息ができるとでも言うように、その場所でだけ笑顔を見せる。
校舎の中で見かける時はいつも窓の外を恨めしそうに眺めていて、果たして彼は水の中から生まれてきたのではないだろうかと不思議に思うほどに、彼は水を求めていた。
死にかけの眼差しが、放課後に近づくにつれて生き生きとしていく様を何度か見かけ、きっと前世は人魚か何かなのだろうと本気で考えた。
******
「弥勒くん、掃除終わった?」
「うん。待ってて。バッグ取ってくるから」
東方弥勒 はそう答えると、持っていたゴミ箱を持って廊下から教室へと入った。教室の定位置に大きなゴミ箱を置くと、窓際の自分の席へと向かう。椅子の上に置いておいたリュックを手にしようとしたところで、ふと窓の外へと視線が吸い寄せられる。そこにあるいつもの光景に、弥勒はなぜだか安堵して微笑んだ。
「弥勒くーん、先行っちゃうよー?」
廊下から声をかけられ、弥勒はハッとなる。どうやら外に気を取られすぎていたようだ。
「ごめんっ、すぐ行く」
名残惜しげに窓に切り取られた青い空を見つめながら弥勒はリュックを肩へとかける。そしてふっと息をつくと、ようやく視線を廊下側へと向けた。
肩を並べ歩く友人と他愛のない話をしながら弥勒は校庭を歩く。
放課後の校庭は好きだ。元気な生徒たちの声がそこかしこから聞こえてくるから。いつもであれば校舎二階にある図書室の窓からそんな放課後の時間を楽しむのだが、今日は月に一度ある約束の日。こればかりは嫌でも行かなければならないので、弥勒は朝から少し憂鬱だった。
隣から友人が昨夜見たアニメのキャラについて熱心に話しているのを聞きながら、弥勒は背の高い植木を目隠しにしたその中を、ちらちらと見ていた。
中にはプールがあり、すぐ横を歩けば水の跳ねる音がよく聞こえる。
弥勒は小柄で日に焼ける事のない自分が嫌いだ。月に一度受けなければいけない定期検診。煩わしいことこの上ないが、そうしなければ身体の弱い自分はすぐに体調を崩して重症化してしまう。この土地へ来たのも、そんな病弱な弥勒のためだった。特に深刻な病気を持っているわけではない。ただ、人よりも免疫力が弱いだけ。喘息もあるが、それは成長するにつれて徐々に良くはなっていた。それでも過保護な両親はこの土地で家を購入し、弥勒のためだけにこの地に腰を落ち着けたのだ。大きな病院がそれほど離れていない隣の市にはあり、そこへ弥勒は月に一度出向く。父親はこのためだけにわざわざ仕事を休むほどである。それを申し訳なく思っていることなど両親は知らない。母親は弥勒のためにと家庭菜園を始めた。そして田舎にありがちではあるが近所の農家から直接無農薬有機野菜を分けてもらったなどと嬉しそうに報告してくるのだ。
両親が過保護なのは弥勒の身体が弱いからであり、それを仕方ないと受け止められるようになったのはここ最近だ。それまでは周囲と同じように運動をしたり、夜更かしをしたり、若さを武器に充実した時間を楽しむことができない自分に苛立ち、無闇矢鱈と両親に反発したりしていた。それでもそんな弥勒の気持ちを汲み取って、決して声を荒げず、そんな弥勒を受け止めるだけで同情めいた眼差しを向けてくる両親に、弥勒はある時ふと我に返ったのだ。こんな面倒な子供を育てている両親こそが可哀想なのではないのか。健康に産んでやれなかった事を痛いほどに感じ、苦しんでいるのは両親の方ではないのか。
そう考えられるようになった弥勒は、今までが嘘のように両親にとって素直な子どもになった。無駄に拘って縋り付いていた生まれ故郷の大きな街から離れることにも、素直に賛成した。誰のためでもない。自分のためという事を知っていたから。
そんな経緯で見知らぬのどかな土地へ来て、すでに二年が経っていた。
高校進学を機に訪れた土地は、今まで当たり前のようにあった喧噪がない静かな場所だった。建ち並ぶ高層ビルの代わりに少し行けば山があり、視界は緑で癒される。空気が美味しいものだと、弥勒はここへ来て初めて知った。
そんな環境の中にある学校はもちろん穏やかな時間の上にあり、都会と時間の流れが違うのではないかと驚いたものだった。
しかしここへ来て一番弥勒が気に入ったのは、運動部へ入れない代わりに入り浸るようになった、図書室の窓から見える光景だ。
街中の学校では見られないその穏やかな風景の中に、屋外プールで戯れる生徒たち。もちろん真面目に練習をしているのではあるのだが、それでも二階の窓から見る彼らは、弥勒の目にことさら楽しそうに映ったのだ。
その中に一際目立つ姿を見つけたのは半年ほど前である。
見たことのないその生徒は、誰よりも綺麗なフォームで泳ぎ、誰よりも水の中にいることを楽しんでいた。他の生徒がプールサイドで休憩している間も水の中にいて、まるでエラでもついているのではないかというほどに一番長く水の底に潜っている。そんな彼がひとつ歳下の転入生だと知ったのはたまたまだった。図書室に入り浸る弥勒は図書委員にも覚えられていて、よく話しかけられる。その中に彼と同じクラスの委員がいたのだ。軽い世間話にあがる転入生の話に、弥勒はいつもよりも真剣に耳を傾けていた。
「大島、裕也ーー」
照明を反射した白っぽい床を見ながら、弥勒はその名前をぼそりと呟く。
通路に置かれたグレイがかった水色の長椅子に、一枚ものの検査着を羽織った弥勒は両親と共に座っていた。
検査はいつも同じで、順番や手順も慣れた弥勒は、看護士や医師にとっても素直ないい患者に違いない。顔馴染みに近い看護士や他科の医師でさえ、弥勒を見かけると挨拶してくれるのだから。
「弥勒、何か言った?」
隣に座る母親からそう訊ねられ、弥勒は顔を上げるとゆるく頭を横へ振った。
「なんでもない……」
弥勒の両親は過保護ではあるが、愚かではない。弥勒の自主性も尊重してくれるし、間違ったことをすればちゃんと助言をしてくれる。ただ弥勒の体調の変化に少しばかり過敏なだけなのだ。今回も数日前から夜中に咳が出るようになり、それをことさら心配していた。軽いものだったし、弥勒本人はそれほど気にも留めていないのだが、検査結果待ちの今、緊張しているのはやはり両親だけだった。
弥勒はいつものように、やらなければいけない検査を受け、両親と共に医師の診断を聞く。今回もそれほど注目すべき結果はそれほどなく、ただ扁桃腺が少し腫れているということで炎症抑制と念のために咳止めの薬が処方された。それに弥勒の両親はわずかばかり顔を曇らせていたが、弥勒はほっとしていた。血液中の成分表を見たが、正常値より低いものもあるが、いつもの数値と変わっていなかったからだ。
大丈夫。ちゃんと今までのように学校へ通える。
そのことだけが、弥勒が気にかけていたことだった。
******
そう思っていたのに、弥勒の両親は学校へ三日間の休みの連絡を入れた。
それを知った朝、弥勒はカッとなって久しぶりに大きな声を出した。
「なんで!? 先生もただの風邪の引き始めだって言ってたじゃんっ。薬も貰ったし、熱もないのにっ。夜ちゃんと眠れれば問題ないだろうって!」
「弥勒……」
その勢いに困惑したのは母親だけで、父親の方は溜息をついて一歩弥勒の方へ近づくと、その肩に片手を置いて言い聞かせるように話し出す。
「弥勒。お前は気づいていないようだけど、夜中何度か様子を見に行ったら小さく咳き込んでたんだ。今無理をすると悪化するかもしれない。今日から三日だけ、頼むから大人しく薬を飲んで休んでなさい。母さんを困らせるな」
「そんなのーーっ」
眠っている時に咳をしていたからといって三日も学校を休ませるなど、過保護すぎる。そう言いそうになった弥勒を止めたのは、父親の後ろで泣きそうな母親の顔。本当に心配しているだけなのだ。それがわかるから、弥勒は開いた口をぎゅっと引き結んだ。
「……わかったよ。でも、三日だけだからね。その間にまだ少しくらい咳が出たとしても、絶対に学校に行くから。それだけ、約束してよ」
声変わりを無事に迎えた弥勒は、できるだけ低い声で両親二人をじっと見つめると、そのまま身体を翻し二階の自室へと駆け上がった。部屋に入るなりバタンとドアを乱暴に締めると、弥勒はそのままベッドへとうつ伏せに倒れる。
くやしい、くやしい。ままならない自分の身体が忌々しい。同年代の学生と同じように運動をして、遊んで、はしゃぐこともできない。小さな咳ひとつで学校へ行くことさえできない。
弥勒はぎゅっと拳を握りシーツへ押しつけた。
泣いても仕方ないことなのに、ほろりと涙が肌を濡らす。
今だけ。今日だけ。悔しさを涙で流してしまおう。ままならないことなど、世界には山ほどあるのだ。その中のほんの小さな弥勒のジレンマ。弥勒は馬鹿ではない。同じような思いをしている人々もいるし、もっと大きな困難を抱えている人がいることもわかっている。それでも、今だけは、自分のために泣きたい。誰にも見られていないのだから、それくらいは許してよ。
弥勒はどんよりと重い気持ちを胸に、ベッドのシーツを睨み続けていた。
******
三日ぶりの学校は、ひどく懐かしい気がして、少し緊張した面持ちで弥勒はいつものように登校した。だがその緊張も、クラスの友達のおかげですぐに解ける。運動はできないものの、落ち着いた雰囲気の弥勒は、クラスメイトからそれなりに受け入れられていた。その要因の一つが、ムードメーカーでもある学級委員長と仲がいいというもの。激しい運動を制限される弥勒の身体のことをよく知る相手でもあった。もちろん担任から任せられたということもあるだろうが、弥勒は単純に委員長と話すのが一番気が楽だったのだ。
「弥勒くん、これ休んでる間のノート。テスト終わってからで良かったね。そんなに進んでないし、キミならすぐ追いつくだろう」
丸眼鏡がチャームポイントの委員長は、そういってくいっと眼鏡を押し上げ微笑む。それに弥勒はほっと緊張が緩んだ。
「ありがとう。今日は一緒に帰れる?」
二人は時間が合えば方向が同じということもあり、一緒に帰ることが多いのだ。
「あ、ごめん。ーーその、ちょっと、ほら……付き合い出した相手がいて……」
いつもはハキハキと話す委員長には珍しく、後半はごにょごにょと声が小さくなる。だが近くにいた弥勒にはちゃんと伝わった。驚いて目を丸くしたあと、嬉しそうに笑って委員長の方に顔を近づける。
「彼女ができたの? すごい。良かったね。でもそんな話まったくしてなかったのにーー」
もちろん相手にだけ聞こえるように声を潜めた弥勒に、立ったまま眼鏡の下の頰を少しばかり赤くした委員長がやはり小さな声で答えた。
「や、その、告白されて……まずは友達みたいな感じでいいって言うからーー。えーと、一緒に帰れなくてごめんね?」
照れ笑いをしながらも謝る委員長に、弥勒は首をぶんぶんと横へ振った。
「そんなの気にしなくていいよ。一人でも大丈夫。でも、良かったじゃん。うまくいくといいね」
弥勒の心からの言葉に、委員長はこくりと小さく頷いてみせる。
そんな話をしているうちに担任が教室へ入ってきたので、その場はそこで話が終わった。
弥勒はその日授業を聞きながらも、ふと思い出したように窓の外をちらりと見ては、休んでいた間にあの魚は元気にしていたのだろうか、と考えていた。もしかしたら委員長に恋人ができたように、彼にも何か変化が訪れているかもしれない。ずっとあのまま水の中の彼を見ていたかった弥勒にとって、それはちょっとした不安となって心に小さな染みを作ったのだった。
******
待ちに待った放課後、弥勒はバッグを肩にかけると足早に図書室へと向かった。着いた頃には肩が上下し少しばかり息が上がっていたが、弥勒は気にせずに特等席の窓際へと歩く。そして大きく深呼吸をすると、おそるおそる窓の下に目をやった。
そこにはいつもと変わらない光景があり、弥勒は胸を撫で下ろす。そして目当ての人物を探そうと目を凝らした。
「ーー」
しかしあの魚のような部員は見当たらず、弥勒は何度も何度も確認する。だんだん萎んでいく気持ちと、何かあったのだろうかと心配する気持ちが湧き上がり、弥勒は落ち着かなくなってしまった。そして彼のことを教えてくれた図書委員がいないだろうかと、図書室内をキョロキョロと見渡す。何か知っているかもしれないと思ったのだ。
「え……?」
すると思いもしなかった姿を本棚の間に見つけてしまい、弥勒の口から思わず声が零れる。情報を知る人物を探していたのに、知りたかったその本人がそこにいたからだ。
彼は本棚に並ぶ背表紙を熱心に見ている。そこは絵画や写真集が並べてある棚で、意外な趣味を知り、弥勒は心が浮き足だった。パラパラとページをめくっては戻し、また気になる本を手に取り中をその場で眺めている。弥勒がいる窓際からは、彼の少し俯いた日に焼けた横顔が見えた。彼、大島裕也は弥勒の一つ歳下で、水泳部。そして浅黒い健康的な肌で身長もひょろりと高い。弥勒が知っているのはそのくらいだ。声も聞いたことはない。
半袖のシャツからのぞく腕はほどよいハリがあり、運動ができない弥勒のものよりふた回りは大きいだろうか。その逞しさをいつもよりも近い距離でまじまじと見たことで、弥勒の心臓がドキリと跳ねた。
そのことに動揺しながらも、弥勒は大島から目を逸らすことができない。
すると、ふと顔を上げた大島の視線が泳ぎ、それがゆっくりと弥勒の方へと向けられる。
あ、と思った時には、弥勒のそれと大島の視線とが重なっていた。
「っ」
思わずパッと顔ごと大島から逸らすという、不自然極まりない態度をした弥勒に、大島はつ、と眉間に皺を寄せた。だがすぐにハッと何かに気づいたかのようにじっと弥勒を見つめる。そして手に持っていた写真集を棚へ戻すと、迷うことなく窓際にいる弥勒の方へと近づいた。
それに驚いたのは弥勒だった。顔を逸らしたとはいえ、人の少ない図書室では誰がどこにいてどこへ歩いているなどすぐに気配でわかる。明らかに自分の方へ近づいている大島に、弥勒は内心動揺していた。
「ねえ、アンタ」
大島の声は思っていたよりも低く、少し掠れている。それが地声なのか風邪でも引いているのかわからなかったが、弥勒は初めて聞く大島の声になぜか恥ずかしくなっていた。
「ーーあのさ、この距離で聞こえないわけないと思うんだけど。無視してんの?」
そう言われて初めて弥勒は自分が話しかけられているのだと間抜けにも気づき、慌てる。
「あっ、違う。無視とかじゃ……その、びっくりしてーー」
「いつもここからプール見てたの、アンタ?」
「ええっ!? なんでーー」
驚いて大きな声を上げた弥勒を、カウンターにいた図書委員が「静かに」と諌める。それに慌てて口を閉じた弥勒に、大島は呆れたような顔をした。
「やっぱりアンタなんだ……」
「なんで……」
知っているのだろう、と弥勒はバツが悪くなる。悪いことをしていたつもりはなかったが、いつもいつも見られているとわかれば気持ち悪いに違いない。そう思った弥勒は頭を下げた。
「ご、ごめん。その、悪気はないんだ……ただ、楽しそうだなってーー」
ぼそぼそと謝りながら俯く弥勒に、大島は瞬きを数度してから首を傾げる。
「なんで謝るんだよ? 別に見るくらいいいんじゃねぇ?」
淡々とした声がそう言うと、弥勒はそっと顔を上げ、目の前に立つ大島を見つめた。
初めて正面から対峙した大島は、やはり弥勒よりも健康的で大きく、そしてその瞳は思っていたよりも澄んでいた。いつも廊下で見かける彼は恨めしそうに外を眺めていたので、プールにいない大島はきっとここでも昏い瞳をしているのだと思っていたのだ。
じっと顔を見つめられた大島は、その分だけ弥勒をじろじろと観察する。
図書室の一角で不自然に相対する二人は異様だったが、幸いにも人は少なく、誰が何をしてても騒がなければ気にしないという生徒しかいなかった。
「あのさ、しばらくここ来てなかった?」
大島は少し言いづらそうに、そう訊ねる。弥勒はなぜそれを知っているのだろうと不思議に思いながらも、こくりと頷いた。だが健康的な大島を前にして身体が弱いと伝えるのは憚れる。馬鹿にされたりすることはないだろうが、無闇に同情もして欲しくないのだ。弥勒がそれっきり黙ったことをどう思ったのか、大島が頭の後ろを掻いて思い切ったように口を開いた。
「あのさ、ここの窓、プールからもよく見えるんだよ。んで、いつもこっち見てる奴がいるなって気になってたから……」
どうやら弥勒がいつもそこにいたのを知っていたらしい。それとわかると、弥勒は途端に恥ずかしくなって頰を赤らめた。女生徒ならまだしも、男が図書室の窓から水泳部を見ているなど、きっと気持ち悪かったに違いない。そう思った弥勒は、消沈する気持ちのままに暗い声を出してしまった。
「ごめんーー。気持ち悪かったよね。もうしないから……。その、変な目で見てたとかじゃないんだ。ただ、……すごく、気持ち良さそうに泳いでたからーー。羨ましかったのかもしれない……」
落ち込み顔を暗くした弥勒が苦笑すると、大島は眉間に皺を寄せて不満そうな顔をする。そして小さく溜め息をつくと、片手で少し長めの黒髪を掻き上げた。
「だからー、気になったってのは、誰だか知りたかったってだけで、気持ち悪いとかそういうのないから。勝手に勘違いして落ち込むなよ」
そうなのか、と弥勒はおずおずと大島の目を見上げる。口は悪いが、その低い声はさっぱりとしていて耳に心地良かった。
「ごめんね」
勝手に思い違いをした事を謝れば、大島は不機嫌そうに口を尖らせる。
「だから、謝る必要ねぇって」
その表情がまるで子どもが拗ねているように見えて、弥勒は思わずくすりと笑みを零した。すると大島の表情も穏やかになり、ふっと笑ってみせる。
「アンタ、笑ってる方がいいよ」
その言葉は弥勒を喜ばせたが、年上としてはさっきから大島の物言いが気になって、もしかして自分が先輩ということに気づいてないのかもと、指摘した。
「あんた、って……一応俺、先輩なんだけど」
そうは言ってみたもの、弥勒はそれほど大島のぞんざいにも思える口調を気にしていなかった。何よりそれは大島の見た目にも合ってる気がしたのだ。
「え、そんなひょろっこいのに、年上?」
気にしていることをすぱっと言い切られ、内心複雑になりながらも弥勒は頷く。しかしそれに悪意はないとわかったので落ち込むことはなかった。
「うわ、それは、スミマセンデシタ……」
バツが悪いのか棒読みで謝る大島に、弥勒は今度こそ声を出して笑ってしまう。もちろんすぐに図書委員から睨まれてしまったので慌てて口を押さえた。それでも小さく漏れる笑みを噛み殺しながら、弥勒は水の中から現れた、一つ年下の男を眩しそうに見つめる。
「俺には敬語使わなくてもいいよ。なんかキミから使われるとくすぐったいし。他の先輩にちゃんとすればいいんじゃない?」
遠くから見つめていた人魚と陸上で話してるだなんて、それだけでレアな気分なのだ。敬語だのなんだのと、些細なことに煩わされたくはなかった。
「いいの?」
不思議そうに首を傾げる大島に、弥勒は「うん」と答える。すると大島はほっとしたように年相応の笑顔を見せた。
「良かった。なんか今さら変えるのもなんだかなあって思ったし。まあでも、先輩、くらいは使うよ。ーーあ、俺、大島裕也。先輩は?」
「ーー弥勒。東方弥勒。よろしくね」
******
弥勒は大島とは廊下ですれ違うと挨拶をするような仲になった。弥勒が先に気づくことが多いが、大島が後ろからわざわざ声をかけてくることもある。大島は多弁というほどではなかったが、水の中にいなくても弥勒と話しているときは明るい普通の後輩だった。弥勒はそれが嬉しくて、いつも外を眺めて恨めしげな顔をしている大島に、横から控え目にその名を呼んだ。すると大島は一瞬不思議そうな表情を浮かべたあと、少し意地悪そうに口の端を上げて笑うのだ。
「足の調子はどう?」
あの日大島が図書室にいたのは、不注意で足を挫きプールへ入れなかったからだった。大島はどうやら部活以外のことには頓着していないようで、顧問からそれならば図書室で勉強でもしてろと言い渡されたらしい。授業中も寝ていることが多いようで、水泳部の顧問は教科担当の教師からいつも渋い顔をされているらしい。赤点を取ると補講を受けなければならないのだが、そうなると部活に出れなくなるので、大島はいつもギリギリの点数でそれから逃れている。授業中は寝る、テストはいつも赤点ギリギリ。そんな大島を心配した顧問の計らいのようだったが、本人にはあまりやる気がない。だから話を聞いた弥勒が、勉強を見てやろうかと申し出てみたのだ。すると意外にも大島は喜んだ。勉強が嫌いというよりは、一人でコツコツやることが退屈らしい。ならば授業も起きてさえいればそれなりの点数が取れるのではないかとは思ったが、弥勒はそこには言及せずにいた。
図書室ではプールの見える窓際ではなく、奥のテーブルに二人並んで座る。
弥勒は去年使っていたノートと問題集を持ち込んで大島に勉強を教えていた。場所が場所だけに会話は少なかったが、それでも弥勒は楽しんでいた。例えるなら、いつも遠目に見ていたアイドルが目の前にいるという感じだろうか。うきうきもするし、話さなくてもそこにいるだけでドキドキするのだ。ちょっとした仕草や表情を間近で見ることができるのが、弥勒にはとてつもなく貴重なものに思えた。
プールの中では気持ち良さそうに水と戯れる大島が、今はノートに向かって難しい顔をしている。だが問題が解けると得意げに微笑んだり、ときおり弥勒に質問するときには拗ねたような顔をしていた。弥勒がわかりやすいようにと丁寧に教えているときは真剣で、片手に持ったペンシルを無意識に指で回したりしている。そんなひとつひとつのことが新鮮で、そして遠くからでは見えなかった大島を知る度に、弥勒は胸があたたかくなるのを感じていた。
だからだろうか。いきなり大島が変なことを言い出したのは。
「先輩、俺のこと好きだよなー」
ノートに解を書き込みながら独り言のようにそう口にした大島に、弥勒は一瞬どきりとした。だがすぐに苦笑して「そうだね」と答える。何も疚しいことはないのだ。なのになぜ一瞬自分が動揺したのか、弥勒はわからなかった。
「大島は、気持ち良さそうに泳ぐから……フォームも綺麗だし」
取ってつけたような理由ではあったが、それは嘘ではない。大島は水泳部の誰よりも綺麗に泳ぐ。そして誰よりも水の中で生き生きとしているのだ。身体が弱く、運動もろくにできない弥勒にとって、それは羨ましくもあり、憧れでもあるのだ。だから弥勒はそう伝えた。
しかしその返事に、大島はふーんとつまらなさそうに返しただけで、再び目の前の問題に集中してしまった。
どうやら、特に意味のないものだったらしい。それこそ、思わず出た独り言に弥勒が律儀に返事をしてしまっただけとでもいうように。
なのに弥勒は、胸の中に何かが引っかかって取れないもどかしさを感じていた。
別れてからも。家に辿り着いてからも。そして、ひとりベッドに横になったあともーー。
それは小さなトゲとなって次の日も、そしてその次の日も弥勒の心を波立たせた。
それがなんなのか、弥勒には見当もつかず、自分に戸惑ったままに日常となった大島との勉強会を繰り返していた。そしてそのトゲは日に日に大きくなり、もどかしさが胸の痛みとなって表れるのに、そう時間はかからなかった。
弥勒は鈍感ではない。だからそれが何を示すのか、おぼろげながらもだんだんと自分の気持ちを理解した。そしてそれがどう考えても実ることのない気持ちだということも、受け入れざるを得なかった。それは未熟な果実のように苦く、舌触りの悪い感覚となって弥勒の心の奥底にしこりを残す。理解をしたからと消えるはずもなく、それは弥勒の心を静かに消耗させていき、楽しかったはずの大島との図書室での時間が、嬉しい反面、それは苦行のようにも感じられたのだ。
「……先輩……先輩?」
ふと胸の重さに耐えられずに弥勒が意識を逸らし俯いていると、大島の控え目な声が聞こえてくる。その声は平坦に聞こえても、そこにわずかに心配そうな気配を含んでいることに弥勒は気がついた。だから弥勒は顔がひきつらないよう全神経を集中させ、微笑んで顔を上げる。
「なに? どこかわからない?」
そう訊くと、大島は困ったように眉を少しひそめ、首を横へ振った。
「そうじゃなくて、ーーなんか先輩、最近元気なくない?」
「そうかな? いつもと変わらないよ」
弥勒は微笑みを張り付けたまま、大島の心配を一蹴する。すると大島は怪訝な表情をしながらも、そのあと、それについて何か言うことはなかった。
だがその日から大島は何か言いかけてはやめる、といった事を何度か繰り返し、逆に弥勒は後輩に悩みがあるのではと心配する羽目になった。自分の気持ちに気づく前なら、それを聞き出すことになんの躊躇もなかったはずなのに、今の弥勒は今以上の関係を作ることを怖がっている。親密になればなるほど、叶わない想いは大きな荷物となって弥勒にのしかかるのだ。それに耐えきれなくなったら、この関係が終わってしまう。弥勒はそうなることを心配して、萎縮していた。そしてそんな自分が矮小にも思えて、ひとりになると弥勒は大島のことを考えながら自嘲してしまうのだ。それが表面的な関係にも影響しないはずはなく、何かを感じ取った大島は、弥勒の前でも以前のように昏い表情をすることが多くなった。
そうこうするうちに大島はとうとう部活に復帰できるまでに回復し、結果、弥勒との放課後のふたりでの時間は終了してしまった。
気まずいままに離れた二人の距離は、修復することなく平行線を辿る。廊下で見かければ軽く頭を下げはするものの、以前のような明るい表情を大島がすることはなくなった。弥勒は自分が悪かったのだろうと反省したものの、あのまま関係を続けようとしていた事がそもそもの間違いだったのだと思い込もうとした。それでも、あの自分の前で見せる大島の意地悪げな笑みを思い出すと、弥勒は胸がきりきりと引き絞られるように痛んだ。
そしてそれは弥勒に息苦しさを呼び込む。
授業中もぼんやりとすることが多くなり、ふと気づくと大島とのことを考えていた弥勒は、そのあとに必ず軽い過呼吸のような症状が出るようになってしまっていた。原因が心因性だということは弥勒自身にもわかっていたので、できるだけ周囲に悟られないように気を遣い、家の中でも一人になれる部屋以外では気を張り詰めさせた。
そしておそらく、それがいけなかったのだ。
その日、いつものように図書室でひとり本を読んでいた弥勒は、仲の良い図書委員に手伝いを請われて避けていた窓際にうっかり近づいてしまった。そして弥勒は自然とその視線を外のプールにやってしまった。
きっと偶然だった。
水から上がったばかりの大島の視線が、二階にいる自分の方へ向けられたのだ。そしてそこに弥勒がいることに驚いたように一瞬固まり、次の瞬間、その顔があからさまに背けられる。
「ーーっ」
そのことが弥勒はショックだった。
ずっと避けていたのは自分だ。水の中をいつものように堪能する大島の姿を見れば、また気持ちが膨れ上がる。それがわかっていたから窓際に寄りつかなかった。もしかしたら、その間にも大島はその窓に弥勒の姿を探したことがあるかもしれない。それは弥勒のただの願望なのかもしれないが。それでもあれだけ懐いてくれた大島が、きっかけがなくなったからとすぐに自分を忘れてしまえるような冷たい人間でないことを、弥勒は知ってしまっていた。
だからこそ、大島が自分から目を背けたことに、弥勒は余計にショックを受けたのだ。
頭が真っ白になり、心臓が力の限り握り潰されたような強い痛みを、弥勒は感じた。
嫌われたのだ。きっと。
顔も見たくなかったのだろう。
それを理解することは、弥勒には容易ではなかった。
痛みは持続し、周囲の何もかもが消えたぼんやりとした視界の中で、弥勒は現実から逃げるように、その場で意識を手放した。
******
ゆらゆらと揺れているのは空だろうか。
暗い空間の底から見上げるそれは、光を分散させるようにきらめいている。
それをもっと近くで見たいと願うのに、それは徐々に遠くなっていく。
ぶくぶくと小さな泡が視界に広がり、光の方へ吸い込まれてゆく。
それを見ていた弥勒は気がついた。
ああ。自分はきっと闇の底へと沈んでいっているのだ、と。
映像でしか知らない水の中の世界は、きっとこういう場所なのだ。
選ばれた者だけが、光のある方へと近づける。
年下の、それも同性に気持ちを寄せた自分は、きっと遠くから見ることしかできない。
憧れ、焦がれ、身の内からそれを熱望したとしても、それは、叶わない。
弥勒は、もう諦めることしかできないのだと、たゆたう光を見ながら、そう悟っていた。
「ーー弥勒……弥勒……?」
耳に馴染むその柔らかな声に、弥勒はゆっくりと目を開く。
朝だろうかと思い、声のする方へ顔を動かせば、やはりそこにいたのは母親だった。だが朝だと思ったのは勘違いだったようで、カーテンの隙間から洩れる光はそこにはない。
「……?」
見知らぬ部屋に不思議に思いながら起き上がろうとすると、母親が慌てて弥勒の肩を手で押さえた。
「まだ横になってなさい。お腹空いたなら、何か買ってくるから」
その母親の言葉とはっきりしてきた意識で、弥勒はここが病院だということを理解する。だがなぜ、と弥勒は首を傾げた。
「ーー俺、図書室にいたよね……」
自分でそう言いながら、ようやく弥勒は自分に起こったことを知る。
「……倒れちゃった……?」
申し訳なさそうに弥勒が視線を上げれば、母親が少しばかり怒っているような、泣き出しそうな複雑な表情をしていた。それを見た弥勒は、自分の身体の弱さにほとほと呆れながら、「ごめん」と小さな声で謝る。
「睡眠取れてなかったの? いろいろ検査してもらったのよ? 貧血だろうって……だからちゃんと食べなさいって言ったのに……」
母親の声が今にも泣き出しそうに震えていた。それでも気丈に滲んだ涙をすぐに拭った母親が、「今日はここに泊まって、明日家に帰りましょう。ちょっと何か軽く食べられる物持ってくるわね」と、部屋を出て行く。
弥勒は音もなく閉まるドアを見ながら、ふう、と溜め息をついた。
大島を避けるようになってから、確かに弥勒の食欲は落ちていた。それに夜眠ってからも何度も起きることがあり、体調は万全からは程遠いものになっていたのだ。そこへきて大島に無視されたことが自分で思っていたよりもショックだったらしく、身体に影響したのだろう。
「未練たらたらだなあ……」
弥勒は清潔な病院のベッドの中で、情けなく横たわる自分に自嘲する。
大島のことを想うあまり、両親にも心配をかける羽目になってしまった。いくら想っていたとしても、どうしようもないことなのに。それでも、と、弥勒は両腕で顔を覆い目蓋の裏に大島の姿を反芻する。
恋をしているのだと、今なら素直に伝えられる気がした。
叶わないとわかっていても、伝えなければ、この気持ちはきっと尾を引くだろう。
そうやって苦しむことは、弥勒の体調をますます不安定にさせてしまう。それは両親にも心労をかけることに他ならない。自分ひとりで抱え込めるほどに弥勒の身体は強くないのだ。それならば想いを伝え、大島にはっきりとフッてもらった方が最良のように思えた。
明日か明後日か。学校へ行けたなら、大島と話をしよう。たとえすでに嫌われているのだとしても、ちゃんと想いを伝えよう。そうすればきっと、この気持ちを忘れるきっかけになるはず。
弥勒はそう意志を固め、両腕を天井の方へと伸ばした。
広げた両手は白く細いが、骨ばっていて女子のものには見えない。
ふと、女だったら何も考えずに想いを伝えられたのだろうかと弥勒はぼんやりと考えた。だがきっと大島は、弥勒が女だったならあんな風に懐いてはくれなかっただろう。そう思うと、うまくいかないもんだなあ、と弥勒は苦笑する。
たかが恋患いで倒れた自分は、この先どんな人生を送るのか。ずっと両親の庇護を受けねばならないのだろうか。それは考えるだけで弥勒の不安を掻き立てた。
もっと強くなりたい。身体も、心も。
ひとりでも生きていけるように、強くなりたい。
誰にも迷惑をかけることがないように。
そう、思いはするものの、それには何をどうすればいいのか、今の弥勒には、何ひとつわからなかった。
父親を家に残してきた母親は、一度家に帰り、朝再び弥勒の元を訪れた。
「よく眠れた?」
「うん」
嘘ではなかった。処方された睡眠導入剤のおかげもあるが、心を決めた弥勒は久しぶりに夜中に眼を覚ますことなく深く眠った。
気になることはあっても、それは今すぐにどうにかなる問題でもなく、そんなことを気にし出してはキリがない。遅すぎるということはないはず。弥勒はまだ若い。この先どんな風にでも、変わろうと思えば変われるはずなのだ。
そのためにはまず、やることがある。
「ねえ、今日は大人しくしてるからさ。明日は学校へ行っていい?」
もちろん渋い顔をする母親に、弥勒は苦笑した。
「ゆっくり眠れたし、薬もちゃんと飲むよ。きつくなったらすぐ保健室に行くし」
実際に昨夜よりは調子が良いのだ。弥勒は無理をしてるわけではないと母親を説得する。どうしても、と弥勒が頼み込むと母親は荷物をまとめながら溜め息をつくと、ようやく頷いてくれた。
「ーーわかったわ。その代わりちゃんとご飯は食べてちょうだい。いいわね?」
「もちろん」
渋い顔に苦笑を乗せた母親に、弥勒はほっとして力強く返事をする。
開けられた窓から入る風は爽やかで、弥勒はベッドの傍らから外を眺めた。
青い空と、白い雲。
どこにでもあるその真夏の光景が、弥勒の気持ちを後押しする。
大島へ気持ちを伝えるのは、傷つくためじゃない。いや、傷つくことから逃れることはできないだろうけれど、それでも自分の心に決着がつくのだ。それはきっと、悪いことではないはず。
弥勒は、少しばかり胸に湧いた不安を見て見ぬふりをして、そう自分に言い聞かせたのだった。
******
しかしそんな弥勒の決意を揺るがすように、思ってもみなかったことが起こった。
病院から戻ったその日、弥勒は母親の手前、ずっとベッドの中で借りていた本を読んでいた。昼食は一階まで降りて母親と摂り、少しだけ母親の話し相手になったあと、追い立てられるように自室に戻り、またベッドの主となったのだ。
しばらくして母親が買い物に行ってくると顔を出し、少し心配そうに一人でも大丈夫かと顔を曇らせるから、弥勒はさすがに心配しすぎだと笑ってみせた。
ひとり、静まり返る家の中で読書に集中していると、ふと弥勒は顔を上げた。インターフォンが鳴った気がしたのだ。本に夢中になっていたせいでよく聞こえなかったため、空耳だろうかと本のページを捲ろうと指をかけた時、今度こそはっきりとその音が耳へ届く。
「なんだろう?」
特に母親から荷物が届くなどとは聞いていなかったが、もしかしたら近所の人が野菜でも持ってきたのだろうかと、弥勒はベッドから急いで降りた。
病院でもぐっすり眠れて体調もそこそこ良くなっていた弥勒は、軽快に階段を降りて玄関へと向かう。都会に住んでいるときはドアを開ける前にインターフォンを確認していたものだが、この町へ引っ越してきてからは直接ドアを開けることも多い。
この時も弥勒はろくに確認もせずに玄関のドアを押し開けた。
「あ……」
と、戸惑い気味に声を出したのは、来訪者の方だった。だが弥勒も予想外の顔を見て、声もなく驚いていた。
「えっとーーその、休んでるって聞いたから……」
普段とは違った様子で口ごもる大島に、弥勒はようやく「あ、うん……」とだけ返事をする。玄関のドアを押さえたまま固まる弥勒と、玄関のアプローチに立ち尽くしてどこか迷っているように視線を泳がせる大島。はたから見ればきっと不思議な光景に違いない。
黙りこくったまま向き合っている異様さにようやく気づけた弥勒が、反射的に口を開いた。
「あ、上がる?」
すると大島は意外そうな顔をしたものの、迷った末に「すぐ帰るから」と首を横へ振る。それを見た弥勒は落胆した自分を覆い隠し、すぐに笑みを作った。
「どうしたの? うち、よくわかったね」
「あー、先輩がいつも一緒にいる奴に聞いてきたーー」
それが委員長のことだと弥勒はすぐにわかった。放課後に大島といたことを知っているのは教師以外では彼くらいなのだ。だがそう安易に人の家を教える人間でもないから、きっと大島がよほど真剣に頼みこんだか、委員長にも何か考えがあったのかもしれない。
「なるほどね。えーと、それでーー」
なかなか用事を言い出さない大島に、弥勒の不安がだんだんと大きくなっていく。何を言われるのだろう。自分は大島に嫌われていたのではなかったのか。目の前に好きな男が自ら現れて、期待しないはずもなく、弥勒の心は今、かつてないほどに混乱していた。
好きな相手が自分に会いに来てくれて嬉しいのに、もう諦めると決意していた心が葛藤を生む。今この場で気持ちを伝えるべきなのか。今が最後のチャンスなのかもしれない。そう思いはしても、向こうから来てくれた喜びをすぐに消してしまうのは勿体ない気がして、自分からはそれをなかなか切り出せない。もういっそ最後通牒を言い渡してくれるのなら、それできれいさっぱり縁が切れるのに。
弥勒はそんな自分に都合のいいことを思いながら、目の前のひとつ年下の男を眺めていた。
焼けた肌はやはり昼間の青空の下がよく似合う。
水の中で鍛えられた筋肉が乗った身体は、やはり弥勒のそれとは違い健康的だ。プールにいる時の心から楽しげな表情も、少し前まで自分の前で見せていた意地悪そうな笑みも、弥勒は好きだった。今はどこか頼りなげな表情をしているもの、やはり大島は大島だ。弥勒にはない魅力があり、それに弥勒は惹かれている。
憧れが好意になり、好意はいつしか恋となっていた。
それは自分には止められない感情で、後悔したくてもできないもどかしさがある。
目の前に大島を見た弥勒は、それをありありと自覚してしまった。
そんな風にお互いの気持ちがわからないまま無言でいると、ようやく大島が口を開く。
「図書室で倒れたって聞いて、さ。その、もしかして俺のせいかもって……」
それを聞いて弥勒はようやく大島の来訪理由を悟った。
彼も気にしていたのだ。弥勒と目が合ってすぐに、顔を逸らしてしまったことを。そして悪いことをしてしまったと思ったのだろう。少なくともどうでもいい存在になってはいない。そのことがわかっただけで、弥勒の表情はみるみるうちに緩んでいく。
「大島のせいじゃない。俺が自分の体調をわかってなかっただけだよ。自己管理はしてたんだけど、ちょっと……最近うまくいってなかったから……」
苦笑しながら弥勒がそう伝えると、大島は安心するどころか、ますます表情を昏くしてしまった。
「ーーそれって、先輩が俺を無視してたのと、関係ある?」
そして少し低い声で呟くようにそう口にする。弥勒は痛いところをつかれ、思わず顔を背けてしまった。それでも何か言い訳しなければ、大島の意見を肯定することになってしまう。そう思って慌てて弥勒は首をぶんぶんと横へ振ってみせた。
「違うっ。というか、無視してたわけじゃ、ない。いや、そうなんだけど……それにはちゃんと理由があってーー」
なのに口から出る言葉はボロが出てしまうようなものばかりで、弥勒はますます焦ってしまう。
「いや、だから、その、ごめんね。無視するようなことして……。本当に、ごめん」
気持ちを伝えるどころか、謝罪だけが連なり、弥勒の声はしだいに沈んでいく。すると大島はなんとなく安堵したように小さく息を吐き、以前のような意地悪そうな笑みを口元に浮かべた。
「俺も、ごめんなさい。あの時、その、驚いたんだ。いつも見てた時はいなかったのに、突然先輩がこっち見てたからさ……。本当は、ずっとまた前みたいに俺を見ててくれるかなって期待してたから。その前から、なんか先輩よそよそしくなってたし……それにも理由があるってことだよね? 俺が何かしでかして嫌われたとかじゃ、ない?」
うかがい見るように俯き加減で上目遣いをする大島に、弥勒はもう降参する。だって可愛いのだ。後輩としても可愛いし、好きな相手にそんな風に甘えるようにされれば、誰だって嬉しいに違いない。そしてそれは弥勒の気持ちを知らないからこそできる態度のはず。そんな風に純粋に慕ってくれる大島を、いつまでも騙すようなことはできないと、弥勒は気持ちを奮い立たせる。
大きく息を吸った弥勒は真正面から大島を見つめ、しっかりした声で自分の気持ちを伝えた。
「嫌ってなんかいないよ。その逆。俺、大島のこと、好きなんだ。後輩としてとかじゃなくて、恋愛って意味で。だから、ごめん。そんな気持ち知られたら嫌われるだろうって、キモチ悪がられるって思って、傷つけるような態度になった。だから、大島が悪いことなんて、ひとつもないよ」
はっきりとそう伝えたことで、弥勒はようやく開き直ることができた。
もうあとはどんな事を言われても、それを受け止めよう。それが大島からのものであれば、どんな言葉でも。それが弥勒が大島に対してできる、精一杯の誠意だ。
大島は弥勒の予想通りに目を丸くして、言葉をなくしている。本気で言っているのかと疑うように弥勒の顔をまじまじと見つめる大島の表情からは、嫌悪のようなものは一切なく、それだけは弥勒を安心させていた。
「れんあい……」
大島が思わずといったようにそう呟くのを、弥勒は複雑な思いで聞く。どうやったって男同士であることは変わらない。きっと大島も寝耳に水の告白だったに違いないのだ。それでも、この告白は二人にとって必要なことなんだと弥勒は思っていた。
適度な距離を保つために。間違っても弥勒の想いがこれ以上膨らんでしまわないために。
だから弥勒は、大島から視線を逸らさなかった。
その確固たる気持ちが表情に出ていたのだろう。大島の弥勒を見つめる目にあった戸惑いは、数秒のうちに消えた。そして大島も真面目な顔つきになって、一度深呼吸をする。
そして、
「あのさ、もしかして俺が先輩の気持ち受け取るの無理とか思ってる? んで、先輩は俺からこのまま離れた方がいいとか思ってんだろ」
そう弥勒に詰め寄るように言い出したのだ。
これにはさすがに弥勒も困惑してしまった。弥勒は大島に「無理だ」と言われるのを待っていたのだ。望んでいたわけではないが、答えはそれ以外にはないと確信していた。
なのに大島はまるで弥勒の考えていることを見透かすようなことを口にする。まるでそれを責めるかのように。
「……違うっていうの?」
ついさっきまで開き直っていられたというのに、弥勒の声はすでに小さくなっている。そして大島がどんな魂胆があってそんな事を言い出したのかを、必死に頭の中で考えた。
「ーー言っとくけど、気持ちには応えられないけど、それでも今まで通りの関係を続けたいだなんて、無理だからね。俺は……俺は、そんなの、堪えられないよーー」
そして大島が考えていそうなことを先に伝えることで、それを牽制する。
気持ちに蓋をして、そばにいるだなんて、自分には無理だ。弥勒はそれを考えるだけで苦しくなって胸元を片手で押さえる。そして大島がそう考えているのだろうという思い込みだけで、弥勒の顔は徐々に俯き、もう前を見ていられなくなっていた。
それでも大島が真剣に頼めば、許してしまうのかもしれない。心を抑えつけ、気持ちに蓋をして、健気にも大島の横で自分は作り笑いをしているかもしれない。嫌だと思っても、好きな相手に請われれば、そうする自分がリアルに想像できて、それが自己憐憫だとわかってはいても、弥勒の胸に悲しみが溢れてきた。
「そんなこと、……言わないでよ……」
すでに弥勒の声は震え、それはまるで囁きのようで、大島の耳へ届いているのかどうかさえわからない。すると、じっと足元に焦点を合わせた弥勒の頭の上で、盛大な溜め息がつかれた。それにびくりと肩を震わせた弥勒は、大島がきっと怒ったのだろうと思った。独りよがりな弥勒に、愛想を尽かしたのだと。
だが、次の瞬間、その弥勒の頭を大島の大きな手が乱暴に掻き回した。そして呆れたように、だが、どこか優しげな声で大島が話し出す。
「あのさ、先輩って思い込み激しいの? 俺、そんなことひとっことも言ってないし、思ってもないから。先輩に好かれてるのは知ってたし、まあそれがそういう意味だったなんて予想してなかったけどーー。なかったんだけどさ、俺、それ聞いて内心喜んでたわけ。それがどういうことかなんて俺もまだハッキリとはわかんないけど、でもそれって先輩と同じ気持ちの可能性あるんじゃん。気持ち悪いとも思わないし、嬉しいし。それってさ、もう両想いってことにならない? だって俺、たぶん先輩とそういう事してもいいって思ってるもん」
弥勒は呆気に取られていた。自分は今、何を言われているのだろう、と。
それに弥勒は大島の話の後半部分がよく理解できていなかった。
だから思わず顔を上げて、それを聞き返していたのだ。
「そういう事って……?」
すると大島は一瞬きょとんとした表情をしたあと、いつもの意地悪げな笑みを浮かべる。そして「こういうこと」と言いながら、上半身を動かした。
「ーーっ」
弥勒はその瞬間、パキっと音が聞こえてきそうなほど瞬時に固まる。そして離れていく大島の顔を見て、ようやく自分がされたことを認識した。
「なっ……なっ、にーーっ」
身体が燃え上がるように熱くなり、弥勒の首から上が真っ赤に染まる。
驚愕とショックとで言葉を失った弥勒が、水の中から空気を求めるように口をぱくぱくさせていると、当の大島は、ぺろりと口元を舌で舐め上げ、事もなげに言い放った。
「ん、案外いける。俺、やっぱ先輩とならこういう事できるわ。もちろんこれ以上も、ね」
片目を細めて弥勒に笑いかける大島は、まるでイタズラが成功した子どものように嬉しそうだ。
だがやられた弥勒はそれを喜ぶ余裕はなく、場所も考えない大島の行動を、平手をもって諭したのだった。
******
水面に反射する太陽の光がキラキラと目に眩しい。
水がゆらゆらと揺れているのは、中で泳いでいる人間がいるからだった。
だが今日はそこにいるのは二人だけ。
顧問に気に入られているのか、プール依存症を理解されているだけなのか、大島は顧問が用事で学校へ来ている時に限り、部活のない日でもこうやってプールを使わせてもらっているらしい。弥勒はそこに招待されたというわけだ。
だが泳ぐわけではないので、日陰に入り本を広げている。
大島はそれこそ水を得た魚で、水の中を満喫していた。ただ、ひとりの時とは違い、今は弥勒がそばにいる。だから大島は顔を出せば弥勒の方に手をふり、ひとしきり泳いだあとはそばまで来ては他愛ない話をしていく。
「ねえ、先輩。今日このあと、うちに来ない?」
そろそろ顧問との約束の時間になろうとしていた。弥勒がそれを伝えると、プールサイドに腰かけた大島が突然そう言い出す。
そして本から顔を上げた弥勒の耳元へ顔を寄せて、囁いた。
「このあいだの続き、しようよ」
弥勒は真っ赤になった顔を本で隠し、それでも小さく頷いたのだった。
空はどこまでも青く、白い雲はそれに勢いづき、その存在を示している。
夏は、まだ、終わらない。
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