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【君と水を縫う】咲房
水を縫って進む──
水泳部のエースが綺麗なフォームで悠々と泳いでいく。水の抵抗を感じさせずに泳ぐ様子は魚のようで楽しげだ。
俺 北沢智史 は二階の図書館からその姿を見てそんな事をぼんやりと思っていた。
泳いでいるのは白濱康友 、今年入学してきた一年生だ。奴は中学の時に全国大会に出場した実力があり、既に主力メンバーとして活躍を期待されている。
(昔はそこまで速くもなかったけどな)
実は奴は小さい時の顔見知りだ。
図書館に入り浸っているような俺とどこに接点があったかって? 小学生の時に通っていたスイミングスクールだ。そこに一つ年下のアイツもいた。俺は中学に入ったのを期にそこをやめたが、アイツはずっと泳ぎ続けメキメキと上達していったようだ。
もっとも、小さい時に少しだけ同じ場所にいた奴の事なんか向こうは覚えてないだろうがな。
(あ、っとコッチを見た?)
アイツが泳ぎ終わり、水から上がってきて頭を振って水を飛ばした。それから視線に気付いた様子でふとこちらに顔を向けた。
(んなわけないか)
俺が今いるこの校舎は窓が南西を向いているため、放課後は夕陽が反射して鏡のようになり教室の中は見えない。プールの横を通って帰っているからよく知っている。だから毎日ジロジロと見れるんだ。おおかた窓の開いている教室の友達でも見ているのだろう。
(もし見てたのバレたら恥ずかしいな)
放課後この位置からアイツの姿がよく見えると気付いてからは、窓側のこの席が俺の指定席になった。本を読み、ふと現実に戻った時に悠々と泳いでいるアイツを眺めるのが俺の日課だ。
俺は習い事としてスイミングスクールに通っていたが、泳ぐのは大して好きではない。しかし奴が楽しそうに泳ぐ姿は見ていてとても気持ちが良いものだった。
ある日の放課後。
いつもならばこの時間は運動部の掛け声がうるさいのだが、今日はテスト期間のため部活が禁止で、あたりは静まりかえっている。教師が早く帰るようにと指導しているので居残る生徒も少ない。
まだ陽も高いのに静かな校舎は別世界のようで不思議な気分になる。
俺はというと図書館に本を返しに行ったら司書の先生に捕まって、さっきまで本棚整理の手伝いをさせられていたところだ。やっと解放された。
下校しようとプールの横を通りながら、図書館で新しく借りた本をバッグに仕舞っていた瞬間
ビュウウゥ
「わっ」
横殴りに強い風が吹いた。
「あーっ!」
しまった。本がめくれ、挟んでいた栞 が飛ばされた。
栞はヒラヒラと舞い、フェンスを超えプールサイドに落ちた。幸い水には浸かっていないので俺は急いで入口に向かった。
扉はいつもなら施錠してあるのだが、ラッキーなことに今日は開いていた。イケナイことをしてる気分だが栞を拾ったらすぐに出ようと思い、靴を脱ぎ更衣室を抜けプールへと向かった。
扉を開けると独特な塩素の匂い。ゆらゆら揺れる水面。
(懐かしい……)
小さい頃の記憶が蘇る。
「北沢先輩?」
「わっ!」
誰もいないと思っていたら突然声を掛けられた。驚いて勢いよく振り返るとそこには例の一年生がいた。
「白濱……」
「もしかして、コレですか?」
奴の手は飛んで行った栞のリボンの部分をつまんでいた。
今まで泳いでいたのだろう全身から水が滴っていた。小麦色に日焼けした肌にがっしりと付いた肩回りの筋肉が大人の男のような色気を醸し出している。
リボンが濡れたので首に掛けたタオルで栞を挟み、水分を取ってから俺に渡してくれた。
「サンキュ」
「……ねえ、何で水泳止めちゃったの?」
あれ、コイツ俺の事覚えてたのか。そういえばさっき俺の名前を呼んだな。
「中学にも水泳部はありましたよね」
「何でって、泳ぐのそんなに好きじゃないから?」
「!」
「スイミングスクールは習い事だったからな。中学では塾に行き始めたし、部活は種類が沢山あるから選択の幅が広がったし」
といっても帰宅部だったがな。
「嘘だよ、泳ぐの好きじゃん!」
「どこ見てそんな事言ってんだよ。俺は中学も高校も水泳の授業は殆ど出てないぞ」
「プールいつも見てるだろ!図書室から!ニコニコ楽しそうにしてるじゃん」
えっ……
もしかして、見てるのバレてた?
うわっ恥ずかしい!
「いや、違、泳ぐのが好きじゃなくて」
お前の泳ぐのを見るのが好きで、ってイヤイヤそれはソレでヤバいだろ、そんなんストーカーだ恋する乙女だアワワアワワ……
「いや、そうじゃなくて、見てるのは何ていうか」
シドロモドロ
すると奴がぼそりと言った。
「……俺はあんたがいると思って……中学も高校も……いつか一緒にって」
「へっ?」
「なんで!あーっ、もう」
白濱は栞 を俺から分捕り、タオルに挟みプールサイドに放り投げた。
何だ?と訝しむ俺をいきなり トン、と横に押した。
え?
よろけた俺の足は宙を掻きプールの中に落下した。
ザッパーン!
「うわっぷ、いきなり何するんだコノヤロー!」
「だってこれが手っ取り早いでしょ」
奴もザブンと水に入り、俺にバシャバシャと水を掛けてきた。
「うわっ、やめろ冷た!バカ、こらっ」
「あはは。ここまでおいでー」
奴はいつもの綺麗なフォームでスイスイと泳いで行った。
(ああぁ、全部濡れちまった……何でこんな事に。くっそ、捕まえてぶん殴ってやる!)
水を掻き分け泳ごうとしたら制服が絡みついてモダモダする。
(ええい邪魔だ)
水中でズボンと靴下を脱ぎ、制服とタンクトップも脱ぎボクサーパンツ一丁となった。クラゲよろしく水中で漂う中身のないシャツを置き去りに、水を掻き分け泳ぎ始めた。
久しぶりの水は重く、奴みたいにスイスイは泳げない。でも絡みつく冷たい水は気持ちよくて、光の加減で青く見える水中にくっきりと見えるコースの線にも心が踊る。浮力で浮く体で水と空気の境目を感じながら進む。背中に当たる太陽は熱く、それを冷たい水が冷ましてくれる。
遠くの水を捕まえれば捕まえるだけ速く進む事を知っている。体が憶えている。腕を大きく振り、遠く、遠くと指先を伸ばす──捕まえた!
奴は50mプールを泳ぎ切り、向こう側で待っていた。
「全然ブランクないじゃん。何で泳がないの、もったいないよ」
「ハァハァ、息が、上がってる、っつーの」
途中で体が鉛のように重くなった。腕も上がらなくなり、あまり水を掴めていない。息継ぎに至っては顔を横に向けすぎて体の芯が振れ、速く進むための美しいフォームとは程遠かった。俺がアレコレと反省していると、
バシャッ
「うわっぷ、グホッゲホッゲホッ」
俺がまだ肩で息をしているというのに奴はまた水を掛けやがった!
「ゲホゲホッ。やりやがったな……」
バシャバシャッ!俺も負けじとやり返した。
バシャッ、バシャッ
バシャバシャッ
「アハハッ」
「アッハッハ。ばか、やめろコラ」
そこからは子供みたいに水を掛け合い馬鹿騒ぎして大声で笑った。
後ろ向きで器用に泳いで逃げる奴を追いかけた。浮力で軽くなった体をつま先でポップさせながら進む。途中で平泳ぎや犬かきも混ぜながら、追い抜き潜って足を握ってひっくり返して。
見上げれば澄んだ青空と入道雲。
更に上には太陽。
太陽、久し振りに肌で感じた明るくて眩しい熱。
忘れていた。
お前は俺の敵じゃなかった。火照った体に冷たい水が気持ちいい。
世界はこんなに眩しかったのか。
ゼイゼイと息が上がってきて背中だけでなく全身が熱くなってきた。でも忘れていた感覚が楽しくて陸に上がる気になれなかった。
「アハハ……あれ?」
ふと白濱が何かに気付いた。
「先輩、赤くない?あれ?え、待って」
ああ……
「え……何それ、え!ちょっと、ちょっと待って!」
体が燃えるように熱い……
きっと全身が真っ赤だ。顔も体も腫れ上がってきたかな。
「真っ赤じゃん!腫れてる?うわ、何?水膨れ?うわ、うわぁああ!」
「白濱、俺、やっぱ泳ぐの好きだわ……」
「知ってる、そんなの最初から知ってるから!今はそんなのいいから!」
へんな話だ。俺が今気付いたことを何でお前は知ってたんだよ。
コポリと沈みかけたひ弱な肩を褐色で筋肉質な腕が引き上げた。
「ちょ、智史 さん!智史 さん!しっかりして」
「だい、じょうぶ……」
俺はそのまま意識を失った。
次に目覚めたのは硬いベッドの上だった。
見覚えのある天井と仕切りのカーテン、そして消毒液の匂い……ああ、保健室か。
身じろぎして横を見ると、白濱が俺が目を覚ましたことに気付いて俯いていた顔を上げた。
「びっくりしただろう、ごめんな」
奴の顔がクシャっと泣きそうに歪んだ。
「俺、皮膚が極端に弱くて、裸で日光を浴びると腫れて熱が篭るんだ。で、最後はぶっ倒れる、と」
「そうだったんだ……」
「すぐ上がれば良かったんだがな」
「俺が無理やり泳がせたから」
「お前のせいじゃないよ。こうなるの分かってて泳いだんだから。水があまりにも気持ちよくてつい遊び過ぎちまった。しかし何年ぶりだろ、楽しかったなあ。俺、やっぱ泳ぐの好きだわ」
「知ってる。そうか、智史 さんは泳ぐのが嫌になったんじゃなくて、太陽の下で泳げなかったんだ……」
「なあ、なんでお前は俺が泳ぐの好きって疑わなかったんだ?俺だってさっき分かったばっかなのに」
「何でって……小学生の頃、同じスイミングに通ってたでしょ?」
「お前、憶えてたのか」
「もちろん。忘れるわけがない、俺が泳げるようになったのは智史 さんのおかげだもん」
俺?何もした覚えはないぞ。
「俺はあそこに行くまで水が怖くて洗面器にさえ顔を付けられなかったんだ。楽しそうに泳ぐ智史 さんを見て水が平気になったんだ。そしてあなたが地区の予選で一等賞を取ってからはその姿に憧れてたくさん練習した。グイグイ水をかき分けていくあの姿がカッコよくてお手本にしてた。いつか智史 さんと競争出来るくらいになりたいと思って頑張ったんだよ」
「マジか。そんなことが……」
そっか、昔の俺は頑張ってたもんな……
「あのな、中学のプールは屋外にあったんだ」
中学で水泳部に入部したのでスイミングスクールをやめたが、練習を始めたらすぐに同じ症状になり高熱が出た。
「だから退部をしなきゃならなかった。スイミングスクールも小学校も室内プールだったからそれまで気が付かなかったんだよ。スイミングに戻ることも考えたけど、中学になってまでする習い事じゃないからって諦めた。悔しかったんだな、泳ぐのなんて好きじゃないから平気だって思っちまった。ホントは未練たらたらだったくせに」
「悔しい……智史 さんは僕が憧れるほど綺麗なフォームで泳ぐんだ、センスがいいし努力する才能もある。絶対僕なんかより速く泳げる筈なんだ。なのに……どうして……」
「大げさだな。やめろよ尻の穴がもぞもぞするだろ」
褒め過ぎだ。だが、うちの高校の期待の星にそこまで言われて悪い気はしない。
「あのな、泳ぎを禁止されてるわけじゃないんだ。まあ俺もショックでいじけてた部分もあったし、やっぱ泳ぐの好きって分かったし……室内プールにまた通ってもいいかな、なんて……」
「ほんと!?じゃあ僕もそこに行く」
何でそうなる。
「お前はここで練習しろよ、水泳部のエースだろ」
俺の放課後の楽しみを取るな。
「えー!一緒に泳げないの?じゃあ意味ないじゃん」
「俺は休みの日に自分のペースで泳ぐよ。もし俺と泳ぐならその時に来い。タイムが良ければ高校の大会に参加させてもらうのも考えるから、同じ舞台で競争する可能性もあるぞ」
「行く!絶対行く!うわぁ夢みたいだ」
「大袈裟だなあ。そういえば何で俺が見てた事知ってたんだ?」
「ああ、それは……プールの先に校旗を掲げるポールがあるでしょ?あの影と窓が重なった部分は、陽が反射しないから中が見えるんだ。影が図書館を横切るのは毎日一瞬だけど、智史 さんはその間いつもこっちを見てた。だから多分反射で見えない時も見てたと思うんだ」
なんと!そんなところに落とし穴が!安心しきってアホ面晒していた自分が恥ずかしい……
完敗だ。
こいつの観察眼と推理力に負けた。
「お前凄いな。俺自身ですらいろいろ気付かなかった事に気付いて。おかげで諦めてたのにまた戻ってきちまった」
「智史 さんと泳ぎたくて練習してきたんだ。諦めきれる訳ないじゃん」
知らないところで目標にされていた。でも頑張ってた頃の俺が評価されていたのは嬉しい。
今、白濱とは天と地ほどの実力差が出ているだろう。
まずはこいつに追いつけるように特訓して、そして再び目標になるような泳ぎをしたい。
コイツが俺を追っ掛けてきたなら、今度は俺が追いかけよう。
俺も再び、水を縫おう──
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