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第2話

長い長い夢を見た。 平凡なβの家庭に生まれ、自分も弟もβ。義務教育を受け、それなりに遊んだりして。 毎朝母親に起こされて、まだ眠いとぼやきながら起きて、弟と朝食を食べ、学校へ行く。 もう一度人生を歩み直すのか、というくらいに現実味を帯びた夢。それは、かつての少年の理想だった。 目を開けるとそこは、娼館のものとは違う、柔らかなベッドの上だった。 自分は死んだはずではないのかと、少年はそこはかとなくだるい身体を無理に起こして辺りを見回す。 薪のストーブの上にティーポットが置かれ、カンカンに沸いている。それ以外何もない、温かな木の囲まれた簡素な空間。 その中に甘く心地の良い、しかし仄かに媚薬のような、花の香りが混じっている。 こんこん、と部屋の入り口がノックされると、その香が強くなる。 「起きたか。」 ドアが開くとともに、低く美しい声がすっと耳に入ってきた。少年はドアに目線を移す。 「あなたは…?」 そして入ってきた人の姿に、少年は理解したのだった。ここはやはり死後の世界なのだろうと。 なぜならその男性の形貌がこの世のものとは思えないほど美しかったから。 陽光を浴びた蜂蜜のような、きらびやかな肩までの金の髪、陶器のようにきめ細かな真っ白な肌。 聡明な瞳は海の底を映したような深い青を宿しており、その奥に覗く陰りもまた、魅力的だ。 中性的な顔立ちをしているが、その長身と声から、男性であることがわかる。 驚くほどに形の整った薄い唇はかすかに歪み、彫刻で掘られたかのような美しい微笑を浮かべた。 その落ち着いた色香に、不覚にもどきりとしてしまう。 「俺はアランという。君は?」 君は?と聞かれ、少年はなんと答えればいいのかわからなかった。 死人に名前などないし、もともとこの10年間弟以外に名で呼ばれることはなかったからだ。 「…死人に名乗る必要などありません。」 ぶっきらぼうな少年の回答に、アランと名乗った男性は目を丸くした。数秒の沈黙の後、彼はああ、と目を伏せる。 長い睫毛が影を落とし、深い青を隠した。 「生きている。俺が助けた。」 一瞬、言っている意味がわからずそうですかと頷きかけた。まあ死んでいる自分には関係ないかと。 しかし、よくよくその言葉を思い返してみると、何かおかしいことを聞いた気がして、少年はアランに向き直る。 「いま、なんて… 」 「君を、治療した。」 はっきりと、2度も言われれば理解できないはずがない。少年は絶望の色をその2色の瞳に宿した。 疑問符が止まらない。一目でわかるαの彼が自分のようなΩを、規則に抗ってまで救う意味がわからない。 それに、家族を全て失い、大罪を犯し、復讐に敗れた自分にもはや、生きる意味もないのだ。 もし今自分がそのまま命を失えば、目の前の彼の罪もなくなるだろう。 少年は自分の手を首にかけ、弟を殺した男にしたように、二本の親指で気道を塞ごうとした。 しかしすぐにその手は押さえつけられてしまう。 そのままどこからか取り出された柔らかな素材の布で、少年の両腕は目にも留まらぬ速さで拘束されてしまった。 彼が近づくことでさらに強くなった甘い香りに、少年の身体が熱を帯びる。 「せっかく助けたのに、そんなことをしないで欲しい。本当はこんなことしたくはない。」 アランは苦しそうに、少年に言い聞かせた。その瞳には、深い悲しみの色が浮かんでいる。 「なぜ、助けたんです? 俺のような、生きる価値のない人間を。」 拘束され、自ら果てることも叶わなくなった少年は、アランをじっと見つめる。 憎しみがあるわけではない。 明らかに大罪を犯して罰を受けたとわかる、自分のような見ず知らずのΩを、どうして助けたのか、それが知りたくて。 「助けられれば、誰でもよかった。 だが、もしも君に生きる価値がないと言うのなら、俺と生きてほしい。」 助けられれば誰でもよかった、という言葉は吐き捨てるように発せられ、まるで彼自身を戒めているかのように響いた。 瞳の奥の翳りは、孤独を映している。 少年は言葉に詰まる。 臓器売買に出したいだとかの残虐な理由や、困ってる人を見たら放って置けなくて、などと綺麗事を並べられたりした方が、よっぽどましだった。 アランは続ける。 「俺が助けた、命を救った、君が生きていることが重要なんだ。だから、一緒に生きて欲しい。」 それは母親に手を伸ばす赤子にも似た、すがるような声音で。 誰でもいい、というのに、ここまで執着するなんて、矛盾している。 しかし、彼の声は真剣で、演技をしているようには感じない。 どうせ長くは続かない。初対面のΩとαが共同生活でうまく行くだなんて、考えられない。 なのに。 この美しいαが自分を必要とするのなら、必要とされる間だけでも一緒にいたいと思ってしまった。 理由は自分でもよくわからない。ただ、どうしてか自分の身体が彼から離れたくないと言っている。こんなことは初めてで。 そして、もしも彼の瞳の奥に宿る孤独にいつか寄り添えたなら。 自分のしたことは消えなくても、こんな家畜同様に扱われてきた生き物でも、 生きる価値くらいはあるのかもしれない。 「わかりました、では、名を与えてください。」 「…名前?」 「必要とされる限り、そばにいます。その印として、俺のこれからに名前をつけて欲しい。」 救われたことは受け入れても、今までの人生を受け入れるのだけは御免だった。 だから、娼館で与えられた番号も、両親に与えられた名も、捨ててしまいたい。 アランはそうだな、と暫く考えながら、少年の拘束を解いていった。 「アルビレオ…アル、というのはどうだ?」 「アル…?」 「二重星の名前。美しい君の瞳と同じ、金色と水色の綺麗な色をした。」 少年は目を見開く。 形を褒められることはあっても、いつでも少年のばらばらの目の色は、汚いと形容される対象でしかなかった。 だから素直に、瞳の色を褒められたことが嬉しくて。 「…どうとでも、呼んでください。」 可愛げがないのは、いつものことだった。演技でもしない限り、少年は感情表現に乏しい。 しかし、その頰が赤くなっているのに気づいたアランは満足げに、 「アル、今日からよろしく。」 とにこやかに微笑んだ。その瞳の奥、やはり何かの陰りを残しながら。

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