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第7話
アルの手放された意識が戻ってきたのは、深夜のことだった。
ベッドから身を起こすと、枕の横にペットボトルの水と、抑制剤が置いてあることに気づく。
おそらくそうしてくれたのはアランであるが、彼は仕事へ行ってきますとメモを残し、その香は感じられない。
今までの人生で最大の快楽を享受した身体には、それでも少しの気だるさも残っていなかった。アルの身体に負担をかけないようにと、イイところを的確に弄ってくれたのだろう。
これまで幾度も抱かれてきた中で、どれだけのローションを中に入れ込んでいても痛みが伴わなかったことなどなかった。
しかし先ほどの行為を思い返した時、脳をよぎるのは溶けるような甘やかな快楽と優しく切なげな彼の表情だけで。
抑制剤など飲まなくても、今はもう身体は落ち着いているが、一度彼の香りをかげば、きつと自分の理性は失われてしまう。
Ωの自分を罪を顧みず助け、「君が生きていることが重要で、一緒にいてほしい」、とすがるような目で頼んできた、自分のことを惹きつけてやまないα。
しかしアルに性的に求められた時、彼の瞳は切なげに揺らいだ。
ヒート特有のアルの行動に、彼が示したのは拒絶や嫌悪ではない。何も言わずにアルの身体を介抱してくれた。そのことがよりアルの罪悪感を増していく。
そんな顔をさせるくらいなら、一緒にいない方が良かった。あの時嘘でもなんらかの旅に出ると嘘をついて、自ら果てればよかったのだ。
そうすれば彼が苦しむことも、彼の味と優しさを自分が知ることもなかった。
彼は危ない。あまりにも優しく、美しく、そしてアルを惹きつけてやまない香を放つ。これ以上一緒にいれば、きっと彼から離れられなくなってしまう。
もし今自分が、「目的を見つけ旅に出る」と書き残し、アランの元から去ったら…と考える。
もちろん彼の元から去ればアルに行く宛てはなく、隣町に入って首を吊るくらいしかやることはなくなってしまうのだが、彼にそんなことはわからない。
自分が助けたアルはどこかで生きている。一緒に暮らさなくて良い分ヒートで自分に面倒がかかることもない。それが彼にとって1番幸せな選択だろう。
この4ヶ月、冥土の土産としてもったいないくらい、たっぷりと夢のような時間を過ごしてきた。
もともと処刑されたはずの罪人。罪だって消えたわけじゃない。仮に罪がなくても、Ωとして生きる未来に大きな幸せは訪れないだろう。
劣等種として使い捨ての労働力にされるか、別の娼館で抱き潰されるのがオチだ。
…一緒にいたいとこれ以上願う前に、これ以上優しい彼を苦しめる前に、消えてしまおう。
せめて彼が気付かないところ、Ωが自殺しているくらいでは騒ぎにならないようなところまでは行かなくてはならない。
最低限のお金と飲料、そして大事をとっておいてあった抑制剤をカバンに詰める。冬だから厚着をして、万一にもバレないようにコンタクトももちろん入れた。
時計が2時を指すのを横目に外に出る。
…寒い。
ドアを開けた途端に指すように吹き付けた風に、思わず身震いする。どうしてこんなに冷たいのかと外を見れば、辺り一面は真っ白な銀世界で。
そのあまりの美しい光景に、アルは息を飲んだ。
空には大きな満月。その放つ月明かりが、辺り一面に積もった白雪を惜しみなく照らしていた。
太陽など出ていない、確かな冬の深夜にもかかわらず、辺りは春の日の朝のようにぼんやりと明るい。
そして道の端から芽を出したスノードロップが、その光を浴びて温かに輝いている。
もし、カメラでも持っていたら一枚の写真に収めておいて、いつまでも眺め続けていたいような、そんな光景だ。
それはきっと、十分すぎるくらいに贈られた自分への手向けの花の、最後の1輪なのだと思った。
まだ何にも汚されていない純白な雪を、一歩一歩踏みしめていく。いつか素敵なαの奥さんが現れて、優しい彼が、孤独も癒され幸せになってくれればいい。
願いながら、自らの服にかすかに残る彼の香りを吸い込んだ。花のような甘い香りは、やはりアルの鼓動を早くする。胸が締め付けられる心地さえ、今だけは嬉しく感じられた。
何度かアランと外出する過程で、この辺りの土地勘は掴んでいる。車で運ばれてきたのだろう。アルの働いていた娼館から、ここはだいぶ遠いい位置にあった。
この都市、アトライアから少し外れればすぐに治安が悪くなる。
まだ両親が生きていた頃、アルが生まれ育った街、シャウラ 。
さそり座の毒針に位置する星の名からもわかるように、アトライアの裏の部分を担ったその街は、ともかく社会の闇の宝庫だ。
暗殺者、臓器売買人、テロリスト、強盗組織…そんな、アトライアでの暮らしからは思い浮かばない非日常の集う場所。
アトライアからシャウラに行くことは容易だが、シャウラからアトライアに入るには検閲がある。だから一度シャウラに入れば、アルはもう2度とアトライアに戻ることができない。
もちろんアトライアから好きでシャウラに入るものなどほとんどいない。護衛などをつけておかなければ、簡単に命が失われる場所だからだ。
…アルにはそれが好都合なわけであるが。
世が明けるまで約4時間半。それまでにはシャウラとの境界線にたどり着くことができるだろう。
目立たないように路地を通りながら、アルは街を縫うように進んでいく。
明るいが、夜であるためもちろん人通りは少なく、白い目で見られることもなく好都合だとアルは思った。
しかし。
「なんだ?生意気そうだけど可愛い顔してるじゃないか。」
「お、君、Ω?こんな夜更けに堂々と歩くなんて、危ないなぁー。」
シャウラまであと1時間ほどのところで、背の高いがっしりとした体系のβ4人に囲まれてしまった。
ここまで来て人を殺めるつもりも、暴行を加えるつもりもないアルは、もう好きにしてくれればいいと、小さくため息をつく。
「Ωのくせに俺たちにため息とか、さらに生意気でそそるねえ。俺こういう子をいじめるのが好みなんだけど。」
「俺も。」
大柄なうえにガラが悪い。そんな彼らは各々アルを見て舌なめずりをする。
「じゃあ4人で躾けてやろうか。」
「さんせー。」
しまった、と思った。アルはなぜかヒートで有る無しに関わらず、さらにαβ関わらず絡まれることが多かった。
それを忘れていたのは、ここ最近、外に出るとき隣には常にアランがいて、そもそもΩとしての差別を受けてこなかったからで。
幸せが日常になったとき、ひとはそれを当たり前と思うようになるらしい。要するに幸せに慣れてしまう。
1人の男が容易くアルの身体を抱きかかえ、おそらく何かの店に、裏口から入っていく。
ああ、残り僅かな人生くらい、彼の残り香で満たされていたかったのに。
自分を責めても、もう手遅れだ。
所詮何人もの人に穢された身体。今更他の人と交わろうとももうどうでもいいか。
アルは目を閉じ、くたりと彼らに身を預けた。
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