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第16話
ドア一枚。その隔たりがなくなったことで、香りは一気に強さが増した。
ドアの先にいる彼と、数秒間見つめ合う。
強い香に当てられて、アルはびくんと身震いした。
…苦しい。めまいがしそうだ。
普段αに反応することがない身体は、慣れない刺激にぐらりとよろめき、やがて立つことさえも困難を覚える。
いけないとわかっていながら、それ以外のものが視界に入らない。アルは縋るようにして彼の広く厚みのある胸板に右手を押し付けた。
どくり。
大きな心音は、自分のものであり、右手から伝わってきた彼のものでもある。
…ああ、心臓がうるさい。それは目の前の彼も同じようで。
おそらくウィッグの栗色の髪に、コンタクトであろう真っ黒な瞳、化粧で隠そうとして隠しきれていない美貌。
相変わらずβを装っているが、紛れもなく彼は自分の運命の番だ。
「…中へ。」
耳元で響かれた低い声は焦りの色を帯びている。
背中に彼の手が回され、アルは抱きかかえるようにして中に連れ込まれた。
自動的に彼のシャツに顔を押し付ける形になり、強すぎるフェロモンに脳が支配されていく。
こんなことで依頼が遂行できるのか、という心配は多分必要ない。
今は身体がびっくりしているだけで、ヒートも終わっているから慣れさえすれば平静でいられるだろう。問題は今だ。
少しでも距離を置かなくては。
広い室内だ。バスルームかトイレに入ればいくらかマシになる。
そう頭ではわかっていても、身体が離れることを拒んだ。
「くっ…ふぅ…ぅ… 」
本能が求めている甘い香を、たっぷりと胸いっぱいに吸い込めば、足はガクガクと震え、全身の力が抜ける。
気づけば真っ白な彼のシャツに、アルの両手が幾多ものシワを刻んでいた。
「ごめっ…ぁっ… 」
息も絶え絶えに放たれた謝罪は、言い終わることなく空気に溶ける。仕事中に、自分はなんて不謹慎なんだろう…。
しかし堪えきれない生理的な涙が溢れようとした瞬間、アルの身体は強い力で彼から離された。
一気に薄くなった香りにやっとアルは理性を取り戻す。
「…申し訳ありません。今回ルシアン様の警護に当たらせていただく、アル・ギリアムと申します。」
スーツの胸ポケットから名刺入れを取り出し、名刺を渡しながら名乗る。
いきなりかしこまったアルにアラン(ルシアン)は目をぱちぱちと瞬かせたが、名刺を受け取り、自らの名刺をアルに差し出した。
名前の欄には"ルシアン・ターナー"の文字。やはり彼は今そう名乗っているのだろう。
4年前はアランさん、と呼んでいて、ふと思い返すときも彼はいつでもアランだった。だから、アルは彼をルシアンと呼ぶのに違和感を覚えてしまう。
初めて会った人のように接すればいいのか、あの時の延長線として接すればいいのか、感覚が掴めない。
それを察したかのように、彼は落ち着いたアルの頭をよしよしと撫でた。四年前と同じ、優しい手つきで。
アルは思わず目を瞑り、可愛らしい吐息を漏らす。彼から施される刺激は少しでもとても心地よい。
「…ずっとコンタクトで疲れたんだ。ウィッグも、化粧も。今日はもう外に出る機会もない。とってもいいか?
…アル。」
彼の言葉に何と返事したらいいのかがわからず、アルはその場で固まってしまう。
「今回の件についても、詳しく話そう。ほら、そこに座って。」
「その前に少し、失礼します。」
ソファ座るよう進められたアルは、やっと我に返り、やってしまったと自分を恨んだ。
まだ室内のチェックをしていない。
万一盗聴器などが仕掛けてあったら厄介だ。流石にないとは思いたいが、あることを前提に探していく。
厄介の芽は可能な限り全て摘んでおかなければならない。
いきなり動き出したアルを見てアランは動揺の色を浮かべた。
「どうしっ… 」
自らの口元に人差し指をあて、アルは静かにするようにと求めた。何かを察したアランはすぐに口を噤み、コンタクトや化粧を取り始める。
15分かけて広い部屋を手早くかつ念入りに確認すると、アルはやっと口を開いた。
「危険物、不審物は見当たりませんでした。」
「なるほど。
…君はもう、すっかり今の世界に溶け込んでいるんだな。」
アランはそれ以上は何も言わず、いいことだ、と優しげに笑った。
そのいいことだ、が寂しげな響きを含んでいるように感じたのは、考えすぎだろうか。
「そろそろ座らないか?」
「失礼します。」
一言告げて、彼の隣に腰掛ける。甘やかな香りが心地よく、ただしもう簡単に理性を失ったりはしなかった。
しばしの間沈黙が流れる。
互いが近くにいるだけで心地よく、ただずっとこの空気に溶け込みたくなるような、穏やかな沈黙。
先に破ったのはアランだった。すうっと風と同化したかのように、静かに息を吸い込むと、彼は口を開く。
「…幼い子供の夢物語、みたいに思えるかもしれないが、笑わないで聞いてほしい。」
「…笑いませんよ。」
「俺は今回の学会で、この国の制度を変えようと思っている。」
低く穏やかな声だが、その一言だけは強く確かな芯を持って凛と響いた。
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