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第3話

「……もうちょい、よく見せてくださいね」  そう言って、祐太は捕えていた睦月の顎を少し上向かせる。セリフが言い訳じみていなかったかと、祐太は冷や汗をかいていた。  祐太の顔がさらに近づいてくるのに比例して早くなる鼓動に苦しくなって、睦月は呼吸がうまくできない。思わずぎゅっと両目をきつくつぶった。祐太の顔に、ふっと苦い笑みが浮かぶ。  二人の鼻先の距離は、約5cm。 (まいったな……。マジでキスしちゃおうかな……) とは、祐太の心の声。 (……どうせなら、キスしてくれたら嬉しいのに……) とは、睦月の心の声。  こんなに、気持ちがぴったり同じなのだから、とっととキスすればいいのに。  傍から二人を見たら、10人が10人ともそう言うだろう。  さんざん逡巡した祐太が、意を決したようにさらに身を乗り出した。  まさに、そのとき。  ギャハハハハ──!  突然、リビングにけたたましい笑い声が響き渡った。しかも、その笑い声はだんだんと大きくなっていくのだ。 「え……? あれ?」 「あ、祐太くん。手! テーブル!」  睦月の指摘に、祐太が視線をテーブルに向けると、テレビのリモコンが祐太の大きな掌の下敷きになっていた。 「あ、ああ……そっか」  祐太は慌ててリモコンを手にして、音量のボタンをカタカタ押した。雑音と化したバラエティー番組の笑い声が小さくなっていった。ふと、互いに目が合って、どちらからともなく噴き出して笑いだしていた。 「ハハハ……」 「フフッ……アハハ」  二人して涙目になりながら、大笑いした。重なる視線が、あったかい。  まるで示し合わせたかのように、焦らずにゆっくりとこの気持ちを進めていこうと、それぞれの心の中で決めていた。  しかし、芽生えた恋は発芽の段階から、次は新しい葉を広げ始めようとしている。  それでも、祐太も睦月もなんとなく今の状態が居心地良くて、それを壊したくなくて、なかなか先に進めなかった。気持ちは、加速していくばかりだというのに。  まだ二人は知らなかった。  この恋が、彼らが望もうと望まざるとも、この先さまざまな変化をしていくのを。  穏やかに笑い合いながら、睦月と祐太の暖かい時間がゆっくりゆっくりと過ぎていった。 ■□■  毎週金曜日。睦月は夕方になると、祐太の働く便利屋「トクラサービスカンパニー」へと向かう。  最初は、たまたま近くの出版社で打ち合わせがあって、その帰りに寄ったのがきっかけだった。  1年半が過ぎた現在では「トクラサービスカンパニー」へ行くために、わざわざその出版社の仕事を受けたりしている。  こまごまとした仕事を次々と引き受けているうちに、このあいだみたいにせっかく祐太が遊びに来てくれても、仕事をしなければならない羽目になってしまっていることには閉口した。 「こんにちは……」  挨拶をしながら、睦月は事務所のドアを開けようとする。  だが、途中でその手が止まった。  いつもなら、睦月がやってくる時間には外回りから戻っていないことが多い祐太が、珍しく事務所にいた。  だが、睦月は彼に声をかけなかった。  いや、かけられなかったのだ。   祐太が、見知らぬ女性と話をしていたからだ。それも、楽しそうに。  人目を引くような美しさではなかったが、整った容貌の女性だった。見た目から判断して、睦月よりも2、3歳くらい年下だろうか。薄い水色のブラウスがよく似合っていた。  祐太が何かを彼女に言うと、笑いながら彼の腕を軽く叩く。  祐太も、まんざらではなさそうだ。彼女が何かを言い返すと、彼は明らかに頬を染めて笑顔で言葉を返している。  その光景に、睦月は雷に打たれたような衝撃を受けた。それと同時に、黒く激しい感情に心が飲み込まれる。  それが、どんな感情であるかわかっていた。  汚いともいえるこの気持ちは、つい数か月まで散々味わったもの。  がんじがらめになって、苦しくなって逃げ出してしまったもの。  認めたくはなかったが、祐太と仲良く話している美しい女性に嫉妬しているのだと自覚して、目の前が真っ暗になりそうになった。  改めて気づかされる。  自分の祐太に向けているこの想いは、『普通』ではないことに。  ともすれば、激しく否定されかねないものだということに、いまさらながらだが睦月は思い知る。  目の前の祐太たちのやりとりから目を逸らしたかったが、釘付けになってしまって逸らせない。まるで、現実を受け入れろと、自分の中の良心が頭の中で命令しているようでもあった。 「睦月さん?」  呼びかけられても、睦月はすぐに反応できなかった。目の前に影が出来て、ようやく声の主が自分のそばまで近づいていたことに気づく。 「あ……」 「今日は、少し遅かったんですね。俺、もう仕事終わったんすよ」  いつもの明るい優しげな声。見上げれば、声と同じように優しい眼差しで睦月を見下ろしている。  こんな人だから。彼がこんな人だから、どこかで期待してしまった。  どうしよう。  もう自分は、祐太という磁石に引き寄せられた金属みたいになっている。  惹きつけられて、離れられない。  離すことができない。

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