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第9話

「悪いけど、次に寄る所があるんだ」  睦月はそう言うと、足早に会議室を出た。だが、長い廊下ですぐに自分の後を追う足音に気づいて、ぎょっとする。  翼が真剣な表情で、こちらに近付こうとしていた。睦月は小走りでエレベーターへと向かうが、その前に追いつかれてしまった。後ろから二の腕を掴まれ、たたらを踏む。 「なんだよ?」  腕を掴まれた力の強さに顔をしかめて、睦月は不機嫌を隠さずに問いかける。それでも、翼は悪びれた様子も見せず、無表情で話しかけてきた。 「お前に話がある」 「仕事以外の話なら、聞かないから」 「いや、どうしても聞いてほしい」 「腕、離せよ」 「話を聞いてくれるまでは、ダメだ」 「な……っ! 翼?!」  相変わらずの強引さに腹が立って、睦月は自分より高い位置にある翼の顔を睨みつけた。  腕を掴まれて痛いのはこっちなのに、翼の方が痛みを堪えるような表情で見下ろしている。 「いまさら、何の話があるんだよ。僕たちの間で」  心の中に留めていた言葉を、睦月は吐き捨てる。 「ずっと前から連絡したかったんだが、お前は俺のケータイの番号を着信拒否してるじゃないか」 「…………」 「メアドも、変えているし、メッセージアプリもブロックしてるじゃないか」 「……当たり前だろ」  睦月の冷やかな反応に翼が黙り込んでしまい、二人の間に気まずい空気が漂う。  いくら終わった関係とはいえ、元恋人の結婚報告を黙って聞いてやるほど、睦月の心は寛大には出来ていない。ましてや、その結婚が原因で別れたとあっては。  掴まれた腕を無理やり振り切って、睦月は再びエレベーターへと歩き出す。当然、翼もその後を追う。 「今、ゆっくり話ができないなら、ケータイの着信拒否だけでも解除しといてくれないか?」 「ムリ」 「話があるって、言ってるじゃないか」 「僕にはない」 「睦月っ!」  今度は両肩を掴まれ、振り返らされた。見上げる翼の顔には、どこか必死な表情が見え隠れしている。  ただでさえ、自分の精神状態がベストではないのに、めんどくさい話は聞きたくない。 「睦月……」  切なげな音をにじませて、翼が名前を呼ぶ。  こんな風に呼ばれるのは、ずいぶんひさしぶりだった。  睦月の肩がぴくりと反応したのを見逃さず、翼がそれを自分の方へ引き寄せようとした時、目の前のドアがいきなり開いた。 「お、薗部くん」 「中村さん……」  ドアの向こうから出てきたのは、顔見知りのゲームクリエイターである中村だった。  中村が姿を現したと同時に、翼は気まずそうに睦月の方から手を離す。それを「ふーん」と言いながら、中村が意味ありげに見ていた。  いたたまれなくなって、睦月は下を向く。 「おい、中村。なんで、入口で突っ立ったまんまでいるんだよ!」  中村の背後から、少し高めだが怒りを含んだ男性の声が聞こえてきた。そして、ひょっこりと顔を出したのは、少しつり目の大きな瞳の美形といっていい男。 「楢崎(ならざき)主任……」  翼が、その男性を見て呟くように名を呼ぶ。楢崎と呼ばれた男は、翼を見るとにかっと笑った。 「あ。加藤くん、みーっけ!」  子供っぽい口ぶりでそう言うと、楢崎が翼を指差した。 「俺に何か用ですか? 楢崎主任」  翼が怪訝そうに楢崎に訊ねる 「田崎が探してたぞ。席にいないって。打ち合わせのこと、言ってなかったのか?」  楢崎の言葉に、はっと顔を上げた。途端に翼はバツの悪そうな表情になって、顔を背ける。  それを見て、睦月は眉間にしわを寄せた。 (どういうことだ?)  翼は、田崎は会議中で代わりに打ち合わせをしに来たと、たしかに言っていたはずなのに。  頭の中に浮かんだ疑問を口にしようと、睦月が軽く息を吸い込むのと同じタイミングだった。 「わかりました。ありがとうございます」 と、素早く楢崎に礼を言うと、翼はさっさとその場を立ち去ってしまった。 「翼!」  思わず睦月が呼び止めると、翼は振り向いて苦笑いを浮かべながら手にしていたブックファイルを持ち上げてみせた。 「これ、ちゃんと主任に目を通してもらうから。何かあったら、連絡するようにも伝えておく」  そう言って、まるで逃げるようにして去っていく。睦月の胸の中は、なんとも言い難い感情がもやもやと渦巻いていた。 「薗部くん」  ポンと肩を叩かれて振り返ると、そこには睦月の肩に手を置いてニコニコと不気味な笑顔を見せる中村と、そんな二人を不思議そうに見つめている楢崎がいた。 「な、なんでしょう?」  顔がひきつりながらも、睦月はなんとか笑顔で問いかける。  前門の虎が去ったかと思ったら、後門の狼が待ち構えていたというような気分になる。  というのも、かなり昔のことではあるが、睦月は中村から何回か口説かれそうになったことがあったのだ。どうやらゲイであるらしい彼が、睦月はどちらかというと苦手なのである。 「ひさしぶりだからさ、下でお茶でも飲まない?」 「いや、僕は……」 「楢崎、うちの副主任にうまく言っといてくれるか?」  中村が振り返って楢崎にそう言うと、楢崎はムッとした顔になり「田崎にチクるぞ」とぼそっと呟いた。

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