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第12話
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駅から自宅マンションまで、15分。けっして短くはない距離を、睦月は力ない足取りで歩いていた。
昼間に聞いた中村の言葉が、耳について離れない。
『加藤、結婚辞めちゃったんだよ』
すぐには、それを信じることができなかった。
中村の話によれば、結婚を取りやめた翼は、副主任という立場さえ危ういという。普通では考えられないミスをしかも連発して、中村の恋人で翼の上司でもある田崎がそのフォローに回って、いつも以上のハードスケジュールになっているのだそうだ。
そこへ、翼と睦月のただならぬ雰囲気を察して、勘のいい中村は睦月が何か知っているのではと詳しく話を聞いてみたかったらしい。
だけど、すでに翼と別れて音信不通になった睦月に、何があったのかわかるわけもなく、結局はあまり思い出したくない過去を苦手意識のある男に披露するしかできなかった。
『式の直前で結婚をやめたってことは、加藤は薗部くんとよりを戻したいんじゃないのか?』
中村の言葉に、睦月は内心で苦笑した。
よりを戻す?
そんなこと、ありえない。
翼の結婚は、あくまでも彼と別れるきっかけにすぎなかった。それがなくても、いずれはダメになっていたんじゃないかと思う。
どうして別れた男のことをこんなに考えなければならないのかと、憤慨するが、翼のことが睦月の頭の中から離れないのは、まぎれもない事実だった。
だから、マンションの前で所在なげに立っている青年の存在に、すぐに気付けなかった。
「……睦月さん」
久しぶりに聞く声音は、いつもと違って明るさと快活さがない。かわりに、ひどく気弱で切なげに響く。
否応なく心拍数が上がるのを、睦月は自覚していた。それと、頬に熱が集まるのも。
考え事で俯けていた顔を、ゆっくりと声のする方へと上げた。
「祐太くん……」
愛しい人の名前を唇にのせるだけで、声が震えて言葉が出なくなった。
なんて脆弱な精神なんだろう。
彼との関係は、友情で紡いでいこうと決心したはずなのに。
彼の姿を見ただけで、胸の底から愛しさがあふれて抱えきれなくて飽和状態になりそうだ。
一歩、一歩。睦月は祐太に近づいた。自分で拡げた彼との距離を、取り戻すかのように。
とん、と睦月が祐太の広い胸に額をくっつけるようにしてもたれる。
すると、はっと息をつめて祐太が固まってしまった。それでもかまわずに、睦月はきゅっと祐太のシャツに縋りついて息を吐いた。
──あたたかい。
ただ、額が胸に触れているだけなのに、こんなにもあたたかい。
「……いいんですか?」
硬い声に、睦月の身体がすくむ。
やはり、だめなのだろうか。こうして触れて、安堵することは許されないのだろうか。
「こんなことして、いいんですか?」
同じような口調で、また言葉が下りてくる。
睦月がそっと顔を上げると、祐太は今まで見たことのない厳しい表情をしていた。
「ごめ……っ?!」
謝罪の言葉を口にして、睦月が離れようとするのを長い腕が遮った。身体ごとしっかりと、祐太の腕の中に捕えられる。
額にしか感じなかった彼の体温が、頬に、肩に、胸にじわじわと伝わってきた。
どうして、抱きしめてくれるの?
睦月は惑乱する。
耳に響く鼓動が、自分のものなのか祐太のそれなのか、睦月にはわからなくなっていた。
「いいんですか?」
祐太が、三度 問いかけてくる。
最初に聞いた怒っているような口調には、どこか切なさとある種の怯えのようなものが含まれているように聞こえた。
「祐太くん?」
「今すぐ、引っ掻くなり、突き飛ばすなりしないと俺……期待しちゃいますよ?」
──期待?
彼は、僕に何を期待しているんだろう。
もしやという期待をしているのは、自分の方なのに。
「祐太くんこそ……いいのか?」
おそるおそる、睦月は問いかけた。
「睦月さん?」
「今すぐ、寒かったからだとか、冗談だとか言ってくれないと……僕は、期待しちゃうよ?」
睦月のセリフに応えるように、祐太はさらに強く睦月を抱きしめる。
──いいの? これって、期待していいってことなんだよな。
睦月の眦に涙が浮かぶ。そろそろと両腕を祐太の背中にまわして、同じようにして抱きしめ返した。
すると、睦月の背中にあった大きな掌がそこをたどって、項や髪を撫でてくれる。とても優しく、とても愛しげに。それと同時に、抱きしめてくる腕の力も比例して強くなった。
ここが、自宅のマンションの前だとか、人通りがまだ絶えない時間帯だとか、いつもなら殊更気になるはずの世間体というものが、今は睦月の中から綺麗に消え去っていた。
それよりも、望んでも手に入らないだろうと思っていた祐太のぬくもりに、歓喜する気持ちが増していく。そしてそれは、露となって睦月の瞳から零れ落ちていった。
鼻をすすった睦月に気がついて、祐太がいったん抱擁を解く。しかし、両手はしっかりと睦月の肩にあって、そのまま顔をのぞきこんできた。
「……ごめんね」
心配そうな視線に、自然と謝罪の言葉が出てくる。すると、祐太は困ったような、怒っているような風に眉間にしわを寄せた。
「それ、もう言わないでよ」
「祐太くん?」
「ここんとこ、電話でもメールでもそればっか言われたり見たりして、かなりヘコんだよ、俺。睦月さん、何も悪いことしてないくせに、あやまってばかりだから」
「…………」
ごめん、とまた口にしそうになって、睦月は口を噤んで俯いた。そんな睦月を、祐太は再び自分の腕の中に閉じ込める。
触れている胸から聞こえるのは、祐太の心臓の音。それが少し早いように聞こえるのは、気のせいだろうか。
そうじゃないといい、と睦月は願った。
だって、僕の胸の音も壊れるんじゃないかってくらいに高鳴っているから。
「睦月さん」
静かな声で、祐太が呼びかける。
「俺こそ、ごめんなさい」
祐太の謝罪の意味がわからず、睦月は顔を上げた。そこには、見ているこちらが苦しくなるくらい切なげな眼差しを向ける祐太がいた。
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