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第14話
ぽろぽろと、涙を流す睦月。
初めて会った時も、同じように声を出さずに静かに泣いていた。
だが、あの時とちがっていたのは、彼の表情だ。
睦月は、静かに泣いていた。
泣いてはいたが、微笑んで祐太を見上げている。
その微笑みが、教えてくれた。これは、悲しみの涙ではないと。
「キスして……いいですか?」
訊ねてきたくせに、睦月の答えを待たずに、祐太は睦月の瞼に唇を寄せる。
瞼から目尻、そして頬へと唇を移動して睦月の涙を丁寧に舐め取っていった。
「……くすぐったい」
睦月はクスッと笑って首をすくめるが、拒絶はしない。おとなしく祐太の唇を受け止めている。
最初に左側に流れる涙をキスで拭った祐太は、右側も同じようにして唇で触れた。睦月の涙をそうしてすべて舐め取ると、今度は額にキスを落とす。次に形の整った鼻の頭に。
そして、念願ともいえる唇にあと少しというところで、高音で無機質な電子音が二人のすぐそばで鳴り響いた。それは、スマートフォンの着信音だった。
「ご、ごめん! 僕のだ」
目元を朱に染めて、睦月は祐太から身体を離してジーンズのポケットを探る。祐太は睦月の肩に頭をもたれかけると、大仰なため息を吐いた。
「これからが、いいところだったのに……」
祐太のセリフがうらめしげな言い方になるのは、仕方がない。腹が立つほど陽気なメロディーで、盛り上がった空気が霧散してしまったのだから。
「何言ってるんだよ。……ちょっと、離してくれよ」
「そんな電話、無視しちゃいましょう」
睦月がポケットからスマホを出そうとするのを、祐太は拗ねた表情で抱きついて阻止しようとする。困ったなと思いつつも、祐太の気持ちがわかった今は、そんな態度すら睦月は愛しくなる。
電話の着信音は、まだしつこく鳴り続けていた。
「仕事先からの電話かもしれないだろ? この電話ひとつ取らないことで、明日からの仕事がなくなるかもしれないんだから」
やんわりと言い含められて、祐太はしぶしぶだが腕の力を少し緩めた。だが、完全に離すことはなく、しっかりと睦月の背中にまわしたままだ。どうやら、抱擁を解く気はないらしい。
睦月は苦笑しながら、鳴り続けるスマホの画面を見た。そこには『ハイテック開発室』の表示。
「ほら、やっぱり仕事先からだ」
睦月は画面を見せびらかして、祐太を軽く睨みつけた。バツが悪くなったのか、今度は祐太がふいと横を向く。クスクスとこみ上げる笑いを止めずに、睦月は「もしもし」とその電話に出た。
『──睦月』
低くて、深みのある声。睦月の笑顔が、すっと消えた。
「翼……」
戸惑うような声でこぼれてきた名前を、祐太は聞き逃さなかった。
『さすがに、この番号までは着信拒否しないんだな』
クスリと笑う翼の声は、聞き心地のよいものだったが、今の睦月にとっては神経を逆なでされるような気分になる。
「で、なに? イラストで修正でもあったの?」
口調が自然と硬くつっけんどんなものになる。それも、当然といえば当然だった。
(せっかく、いいところだったのに……)
さっきの祐太のセリフが、頭の中でリピートされる。しかも、今は彼の腕の中。離れようとしたのだが、逆に強く抱きしめられて、抜け出したくてもできないでいる。
電話の向こう側で、翼が黙り込んでしまう。その沈黙にも、睦月は苛立ってしょうがない。今のこの状態が、余計にそう思わせていた。
「翼?」
まったく何も言わなくなった相手を訝しんで、睦月が呼びかける。すると、やりきれない様子のため息が聞こえてきた。
『……取りつく島もないって、こういうことを云うんだな』
「なんなんだよ? 仕事の話じゃないのか?」
『そうじゃないことは、十分わかっているだろう?』
「なに……やってるんだよ。会社の電話使うなんて」
『こうでもしないと、お前に連絡できないから』
「仕事以外の話なら、聞かないって言っただろ?」
『俺は承知してない』
不毛なやり取りに、焦燥感すらわいてきた。
終わったはずなのに。
あの日、アパートを出ていく時に、別れの握手を交わしたはずなのに。
『睦月……。俺、結婚やめたんだ』
「それは、中村さんから聞いた」
『どうしてなのか、聞いてくれないのか?』
「僕には関係ない」
『本当に、そう思っているのか?』
決まっている。
そう答えたいのに、なぜか睦月の口からその言葉が出てこなかった。
魚の小骨が刺さったみたいな不快感がして、喉が詰まる。
何を躊躇しているんだ。
突き放す言葉を言ってしまえばいい。そうすれば、すべてが終わる。
今、自分の心にいるのは、お前じゃないんだと──。
ふいに、睦月は携帯を取り上げられた。その行方を追って顔を上げると、不機嫌を隠さない祐太がそれに耳を当てている。
「──申し訳ないんですけど、仕事の話じゃないなら、そろそろ切らせてもらいます。今、取り込み中なんで」
祐太はまくしたてるように言い放つと、そのまま終話ボタンをタップした。ふん、と鼻を鳴らすと、睦月をじっと見つめる。
「……すみません。これで、よかったですか?」
あやまっているわりには、ちっとも悪びれてない祐太の態度に、睦月は苦笑する。
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