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第18話
「彩華さんまで……やめてくれよ」
「えー? でも、お泊りしたのは本当なんでしょ?」
このこの、と彩華に肘で小突かれて、祐太は苦笑する。
たしかに、昨夜は家には帰らなかった。
泊まった先は、大好きな人の部屋。
寝不足なのは事実だが、彩華が『お泊り』と揶揄するような色っぽいことは、何もなかった。
むしろ、そうならないようにするために必死に努力したから、寝不足になってしまったのだ。
昨夜──互いの思いを打ち明けて、これからは恋人として付き合っていこうと決めた祐太と睦月だが、まだまだ「めでたし、めでたし」というわけにはいかなかった。
あれから、食事をした後もいろいろと話し込んで終電を逃してしまい、睦月に泊まっていけと言われて好意に甘えたが、いざ寝床に入ってみると、祐太は無理をしてでも家に帰ればよかったと後悔した。
何しろ、すぐそばに相思相愛の人が眠っているのだ。
そんな状況で、何も感じない人間がいるだろうか。少なくとも、21歳の健康な成人男性である祐太には無理な相談だ。
静かな寝息をたてる睦月のすぐそばの布団で、祐太は身じろぎもせず息をひそめてずっと起きていた。睦月の寝顔を見ながら、何度となく手を伸ばしては思いとどまるために拳をきつく握った。
蛇の生殺しって、こういう時のことをいうのだろうか?
そんなことを思いながら気を紛らわしている自分が滑稽だとは考えられないくらいに、祐太は誘惑に抗う事にすべての神経を使っていた。
だが、朝になってうたた寝から目覚めてみれば、先に起きていた睦月の目が真っ赤になっていた。
ぐっすり眠っていたと思っていたが、どうやら彼も祐太と同様だったらしい。お互いの寝不足顔を見て、なんとなくおかしくなって笑いが止まらなかった。
「何、ニヤニヤしてんのよ。やらしいわね!」
パン、と彩華に背中を強く叩かれて、祐太は物思いからようやく我に返った。
「え? ニヤニヤなんかしてねーって……」
反論するが、どうにも弱い口調になって口ごもってしまう。彩華は揶揄の手を緩めてくれない。
「とうとう祐太は、新たな世界に足を踏み出してしまったのねー!」
「……やめろよなっ!」
祐太の声の鋭さに、事務所の中が一瞬静まり返った。
彩華は戸惑った表情で、徳倉に目線を向ける。だが、徳倉は首を左右に振った。
「おはよーっす……って、あれ? 今日は静かっすねー」
眠そうなのんきな声が、どこか緊張感に包まれていた部屋の空気を緩めてくれた。
声の主は、社員の一人である山田大輔 だ。入社4年目で、祐太より3歳年上の24歳。祐太と同じく、力仕事関係や雑多な仕事一般を引き受けている。
昔はかなりやんちゃな事をやっていたらしく、警察の世話になることも多かったらしい。坊主頭に切れ長の瞳は、石井とは別の意味での鋭さがある。
「山田。3分の遅刻ですよ」
潮崎が容赦なく山田に言った。その凛としたテノールの響きに、その場にいる全員が我に返ったようになり、空気が動き出す。
「3分くらい、いいじゃん。潮崎さん」
悪びれた様子のない山田に、潮崎が優美な笑顔で言い放った。
「遅刻した分は、給料から引きますからね」
「ひでっ! 社長ぉ!」
「遅刻した大輔が悪いんだろうが。……それより、全員そろったんだったら、朝礼やるぞ」
泣きついてきた山田を軽くあしらうと、徳倉はケガ人の石井以外の全員を社長席の前に集めた。
トクラサービスカンパニーでは、社員が全員揃っている時──早朝出勤や調査業務で、毎日揃うわけではないが──始業時間に業務確認のための朝礼を行う。各々の業務を把握することで、アクシデント等の対策に備えるためだ。
「では……」
潮崎が社員のスケジュール用の手帳を見ながら、事務的に業務内容を述べる。
「まず、私はこれから佐藤様からの依頼の件で、裁判所に向かいます。社長はその間に、法律相談で訪問予定のクライアントが2件ありますので、その対応をお願いします。山田は、午前中は吉田様の犬の散歩と、木村様の家の屋根の修理。午後は、加藤様のハウスキーピングです」
「げ!? 木村さんとこが午前中で終わらなかったら、どうするんすか?」
山田が文句を言うと、潮崎はちらりと彼に視線を向けて無表情で答えた。
「加藤様のハウスキーピングは、3時からとなってます。木村様の仕事はそれまでに済ませればいい。できるでしょう? あなたの腕なら」
「……チッ。わかったよ」
「石井は、先ほど言ったと思いますが、伝票整理をお願いします。私がいなくても、真面目にやってくださいね」
「やらなかったら?」
さっき潮崎に言われたことを根に持っているらしい石井が、わざと挑戦的な口調で訊いてきた。
石井のあからさまな挑発を、潮崎は極上の笑みで返した。
「ご安心なさい。その時は、くっつきはじめている足の骨を複雑骨折にしてさしあげましょう」
「……すみません、潮崎様。ちゃんと伝票整理しますです」
美麗な微笑で悪魔的な発言をされ、背筋の凍った石井は降参とばかりに両手をあげた。彩華がたまらず噴き出して、肩を震わせて笑いをこらえている。
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