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第20話

(この着信音、変えなきゃな……縁起悪い)  そう考えながら、携帯電話を手に取った睦月は、画面に出た発信者の名前を見て、一瞬だけ身体が強張った。 『ハイテック開発室』  まさかとは思いつつ、おそるおそる睦月は通話ボタンを押した。 「もしもし……」 「おはようございます。ハイテックの田崎です」  電話の向こうから聞こえてきたのは、穏やかで柔らかい声だ。翼の上司の田崎からだった。 「あ、田崎さん。おはようございます」 「昨日、加藤からお預かりしたイラストの件ですが──」  静かな口調で、田崎は仕事の話を切りだした。睦月はあわてて引出しからノートを取り出して、田崎の言葉に頷きながらイラストの直しの指示をメモしていく。 「──以上なんですけど。それで、こちらの都合で申し訳ありませんが、再来週中に直しのイラストを提出していただけますでしょうか?」 「再来週ですね……わかりました。大丈夫です」  睦月は卓上カレンダーをちらっと確認して、締切日をメモした。 「では、よろしくお願いいたします。何かありましたら、メールでも電話でもかまいませんので、連絡ください」 「はい。……あ、あの!」  電話を終えようとした田崎を、睦月は呼び止めた。怪訝そうな田崎の声が耳に届く。 「薗部先生?」 「あの……すみません。加藤、いますか?」 「まいったわねぇ……」  そうぼやきながら、彩華は車に乗り込んできた。頭に巻いた三角巾を取ると、シートに背中を預けて大きなため息をつく。  彼女が身につけているのは、年季の入った作業服。足にはゴム長靴。顔には、少し老けたメイクを施している。  どこからどう見ても『掃除のおばちゃん』だ。  以前の女子大生にも祐太はびっくりしたのだが、これはこれで感心してしまう。 「何か、問題っすか?」  買い置いていたジュースを彩華に手渡して、祐太が訊ねた。  ペットボトルのそれを半分ほど飲み尽して、ため息まじりに彩華は答えた。 「対象者の今日の逢引きの相手。社内の人間らしいってどこまでは、依頼者からの情報提供でわかってるじゃない? でも、潜入してみたけど、どこの部署のなんて名前かわかんなかったのよ」 「そうですか……」  潜入調査まで行い、肝心なことがわからなかったということは、今日の業務は半分失敗したことになる。  ペナルティーまでとはいわないが、調査費用をクライアントに請求できない。それは、そのまま二人の給料に反映する。 「じゃあ、これから対象者が仕事終わるまで待機ってことですか?」  祐太は、狭い車内で大きな身体をできる限りで伸ばした。  まだ、午後の3時を回ったばかりだ。  あと数時間は狭苦しい箱に閉じ込められるかと思うと、祐太はうんざりする。  祐太の問いかけに、彩華はニヤリと不敵な笑みを見せた。 「あたしが潜入して、タダで帰ってくると思う?」 「何かつかんだんですね?」  彩華の言葉に、祐太はシートにくったり預けていた身体をガバッと勢いよく起こした。 「対象者が廊下でこっそり電話しているのを、ばっちり聞いたわ。話していた雰囲気から、間違いなく今日会う相手よ」 「やりましたね!」  嬉々とした調子で祐太が相槌を打つと、彩華は得意げに鼻をふん、とふくらます。  オバサンメイクをしていても、こういうところは可愛らしいなあと、祐太は自然と笑顔になる。 「祐太。会社にいるバカ亭主と連絡したら、準備をしてAホテルに向かうわよ」  きびきびとした声で彩華が指示を出すと、祐太は頷いて車のエンジンキーを回した。 「さて……と」  睦月は腕時計を見やると、パソコンのスイッチを切って立ち上がった。  そのままデイパックを持って出かけようとしたが、Tシャツにジーンズという自分の服装が目に入り、それをまじまじと見下ろす。 「やっぱり、これじゃマズイよな……」  そうひとりごちると、寝室に入っていった。  クローゼットの中を漁り、ベージュのジャケットと同じ茶系のパンツを取りだすと、Tシャツをそのままに手早く着替えはじめた。  大学を卒業してから、就職らしい就職もせずにフリーになった睦月は、スーツというものをあまり着たことがない。  唯一持っているとしたら、大学の入学式にそろえたものが一着きりだ。成人式も卒業式もそれで済ませてしまった。  だから、今日の待ち合わせ場所のような畏まった場所に行く時は、本当に困ってしまう。 「……これで、おかしくないよな?」  姿見で前後を確認する睦月は、ふと自分の顔をじっと見つめた。  これから、翼に会いに行く。  そう思った途端に、鏡の中の自分はどこか物憂げな表情になる。  今、翼に会いたいかと問われれば、睦月は迷わず「会いたくない」と即答するだろう。  結婚が破談したからといって、昔の恋人である自分に会いたがるというのが、そもそも気に食わない。  自分が女なら、多少は心揺れたかもしれない。いや。女性であれば、逆にすっぱりと切り捨ててしまっていただろう。他に心寄せる人がいれば、なおさらだ。  じゃあ、僕はどうしたいのだろう?  どうして、こんなもやもやとした何ともいえない気持ちを抱えているんだろう。  祐太の声が、睦月の脳裏によみがえる。  ──このままだと、すっきりしないんじゃないんですか? 「けり……つけてやる」  鏡に向かって呟くと、睦月は机に置いたデイパックから財布とスマートフォンを取りだすと、無造作にジャケットのポケットに入れた。鍵を手にして、玄関に向かう。  机の上にあるメモ帳には、走り書きがあった。 『Aホテル ラウンジ 6時──翼』

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