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第26話

「祐太、早くしなさい」  声をかけられて我に返った祐太は、彩華とともに出入口にあるキャッシャーへと向かう。しかし、後ろ髪を引かれるような思いは消せなかった。  キャッシャーでは、祐太たちより先に対象者が会計を済ませようとしていた。少し距離を置いてその様子を確認したあと、祐太は会計を済ませ、彩華はそれを待つふりをしながら店の出入口へと向かった。対象者を見失わないために二手に分かれたのだ。 「彩華さん」  店を出て、カップルのふりをするために腕を組んできた彩華に、祐太はそっと声をかけた。彼らより少し前方には、対象者であるカップルがエレベーターを待っている。 「……なに?」  彩華が寄り添うようにして、上目づかいで返事をする。  傍から見れば、彼女が祐太に甘えているように見えるだろう。祐太はそのまま彼女の方へと体を傾げて、耳打ちする。 「ちょっと、気になる事が……」 「なによ、急ぐの?」 「たぶん……」  彩華が少し身体を離して、祐太の顔をまじまじと見上げる。その表情は、真剣そのものだった。 「もしかして、睦月さん?」  彩華の問いに、祐太は顎を少しだけ動かして頷いた。そんな彼をじっと見つめたあと、彼女は軽く息を吐く。 「とにかく、今は目の前の対象者に集中して。エレベーターに一緒に乗るわよ」  その言葉に、祐太の反応はなかった。だが、店の方を振り返ることなどもなかったので、彩華はそのまま祐太の腕を軽く引いて歩き出す。  二人が対象者たちの後ろにさりげなく並んだのと同時に、下りのエレベーターの扉が開いた。部屋を取っているにしても、ホテルを出るにしてもこの方向のエレベーターに乗るしかない。対象者たちに続いて、祐太たちも箱に乗り込んだ。  対象者である男が、3つ下の階のボタンを押しながら祐太たちに向かって「何階ですか?」と、声をかけてきた。一瞬たじろぐ祐太の横で、すかさず彩華が「あ、私たちもその階なんです」とそつなく答える。男は軽く頷いて前を向いた。  内心でホッと息をつく祐太に対して、「しっかりしなさいよ」とばかりに彩華が背中を強くつねった。思わず叫び出してしまいそうだった痛みだったが、祐太は歯を強く食いしばることでなんとかそれをこらえる。  エレベーターは、すぐに目的の階へと到着した。レストランのあった階とは違い、エレベーターホールは殺風景としていて、左右に廊下が分かれている。  対象者であるカップルは迷うことなく右側へと曲がって行き、祐太たちは左側へと曲がった。だが、しばらく歩くとすばやく元の道を戻っていき、エレベーターホールの柱に隠れながら、対象者の様子を窺う。 「……一番奥の部屋に入ったみたいね」 「そうみたいっすね。写真は?」 「撮ったわよ」  彩華は得意げに、ハンドバッグを軽く叩く。そのバックのそこはカメラを設置しており、そのまま盗撮ができるように工夫がしてあるのだ。 「部屋の番号は……2312号室ね。デラックスツインなんて、贅沢ね。たかだか数時間の情事に。お金持ってるのねぇ」  下世話な話に、祐太は眉をひそめた。彩華は肩をすくめて、改めて祐太を見据える。 「で? さっきの急ぎの話って何?」 「え、あ……」 「なによ、睦月さんの事でなんかあったんでしょ?」  急に話を振られて祐太は驚いたが、睦月の名前にさっき見た光景を思い出して、それを手短に彩華に伝えた。  それを聞いて、彩華は顎に手をやりながら考え込むような仕草になる。 「何かを入れたっていうのは、間違いないのね?」 「ええ、確かに見ました」 「そっか……。おそらく、薬物でしょうね」 「や、薬物って……」 「睡眠剤か、睡眠導入剤か、もしくは何か別のものか……。十中八九、睦月さんの意識をそれで混濁させて、どこかへ連れ込もうって魂胆なんじゃないの?」 「それって、ヤバいじゃないっすか!?」  焦って叫ぶ祐太を落ち着くようにいなしながら、彩華はまだ何事かを考えているらしく、ぶつぶつと呟く。 「薬が即効性のあるものなら、下手に移動しないでこのホテルに部屋をリザーブしているにちがいないわ。だったら……」  そこで、彩華は祐太に向かって問いかけた。 「睦月さんの元カレの名前、分かる?」 「え? あっと……たしか、翼って名前だったかと」 「名字は?」 「えーと、そこまでは……」  裕太の返答に頷くと、彩華はおもむろに自分の携帯電話を取り出して、どこかへ電話をかけ始めた。 「──もしもし、木崎ちゃん? Aホテルの制服、あれ必要になったからすぐに持って来て。──そう、10分以内で2階のラウンジまでね。よろしく」  電話の相手は木崎だったらしい。用件のみ伝えると、さっさと終話ボタンを押し、またどこかへかける。 「──もしもし、私。Aホテルの今夜の宿泊人名簿で、『翼』という名前の人物を片っ端から探して。──できれば、30分以内で。──え? そんなこと、言っていいの? 足が使い物にならなくても、そのくらいのことできるでしょ!? たのんだわよ」  これも、相手が容易に判断できた。会社にまだ居残っているであろう、彩華の夫の石井だ。彩華は電話を切ると、不敵な笑みを浮かべて見せた。 「祐太、睦月さんを助けるわよ」

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