29 / 34
第29話
■□■
睦月が翼によってホテルの一室へと連れ込まれてから遡ること、15分ほど前。
木崎が息を弾ませながら、Aホテルのラウンジに到着した。それを見て、待機していた祐太と彩華は立ち上がって、木崎に向かってここだと合図するように手を振る。
「なに? やっぱり潜入することに決まったわけ?」
彩華に頼まれた衣装を入れた紙袋を差し出しながら、木崎が問いかけた。
「うん、ちょっとね。これがあった方が都合がいいから」
言葉をにごして彩華が受け答えると、木崎はそれ以上何も聞かず軽く肩をすくめる。
「ま、いいけどね。ボクはきちんと衣装 を返してくれればさ」
「あら、いつもちゃんとクリーニングして返してるじゃない」
彩華の言葉に苦笑しながら「破損したら弁償だからねー」と言い残して、木崎はそそくさとその場をあとにした。
「それに着替えて、どうするんですか?」
睦月のことが心配で、半ば苛立った口調で裕太が訊いた。
だが、彩華はそれを「まあ、ちょっと待ちなさいよ」と軽くいなして、階標示のプレートで化粧室の位置を確認する。
「1~5階と、最上階にあるのね……人の往来が多い1階と2階はマズイわね。5階の化粧室で着替えようか」
ぶつぶつと独り言のようにそう言って、彩華はさっさとエレベーターへと向かった。祐太もあわてて後をついていく。
「その制服に着替えてから、どうするんですか?」
上へと向かうエレベーターの中で、祐太はもう一度問いかける。
「うちのバカ亭主の連絡待ちね」
あっさりと端的に答える彩華に焦れて、祐太は強い口調で「そうじゃなくて!」と返した。
そんな彼を見上げて、彩華は軽く息を吐く。
「祐太、気持ちは分かるけど落ち着きなさい」
「でも…っ!」
5階に到着したエレベーターから出ても、祐太はなおも言い募ろうとする。すると、彩華はくるりと振り返って立ち止まった。
「睦月さんを確実に助けたいなら、今すぐ顔でも洗って頭を冷やしなさい」
ぴしゃりと言い放って、彩華はある方向を指さした。その先には、男性用のトイレのマークがある。祐太に向ける眼差しは、いつになく厳しい。
そんな彼女の態度に祐太はハッとした表情になり、すぐに「すみません」と謝ってうなだれた。
「いい? 睦月さんがこのホテルのどの部屋にいるのかわからないと、動きようがないでしょう? 石井からの連絡を待つしかないの」
彩華の言っていることは、十分祐太も理解している。焦っているだけでは、何にもならないことも。
だが、胸の裡は睦月のことが心配でたまらない。嫌な展開ばかりが頭に浮かんで、イライラする心をどうしても抑えられない。
「このホテルに部屋を取っているってのは、あくまでも彩華さんの予想でしょう? もし、あの男が車とかに乗ってここを離れていたとしたら、行方が分からなくなるじゃないですか」
できるだけ気を落ち着けようとして、静かな口調で問いただす。
すると、彩華はかるく眉を上げて「言うようになったわね」と返してきた。
じろりと祐太が睨みつけると、首を左右に軽く振りながらその心配はないと言った。
「今回の尾行は潜入する必要があるかもしれないから、木崎ちゃんには予めホテルの近くで待機してもらっていたの。睦月さんのことがあってからメッセージで確認したけれど、あたしの連絡が入ってから若い男の二人連れで出た車もタクシーもなかったわ」
今も、ホテルの外で見張っているはずだという彼女のセリフに、祐太は言葉も出ない。まだまだ彼女にはかなわないと思い、祐太は大きく息を吐いた。
そこで、彩華はスマホを取り出した。着信があったらしく、すぐ電話に出て二、三言受け答えする。
どうやら、待っていた石井からの連絡らしい。ちらりと祐太の方を振り返り、さらに強い視線を向けながらうなずいてみせた。
通話を切ると、彩華はため息をつく。
「部屋がわかった。2105号室よ」
「……ということは、21階ですか?」
彩華は頷くと、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「多少強引な手を使うけど、できる?」
「もちろんです」
「じゃあ、あたしは今から着替えてくるから、ちょっと待っててね」
紙袋をかかげて、彩華は足早に女性用トイレへと姿を消した。
彩華の考えた作戦はこうだった。
まず、睦月と翼という男がいると思われる部屋まで客室係と宿泊客を装って通り抜け、目的地に到着したら、彩華がルームサービスを持ってきたと中にいる人間を呼び出して、鍵を開けてもらい中へ踏み込むというものだ。
睦月を救出したら、木崎にたのんで石井の待つ事務所へ連れていってもらうという話まで聞いたとき、祐太は彩華に訊ねた。
「俺たちは、そのあとどうするんですか?」
ラウンジの裏手にあったワゴンを拝借し、それを押しながら彩華は答えた。
「もちろん、事後処理よ。それから尾行調査の続き」
本来の仕事に戻るまでのことを考えると、時間はあまりないと彩華が答えると、祐太は複雑な表情になり眉をしかめる。
「なによ、文句ある?」
「いや、ないっす……」
ない、と答えている割には不満がありありな様子の祐太に、彩華は呆れたようにため息をついた。
ともだちにシェアしよう!