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第30話

「あのね、何度も何度も言わせないでよ。あたしたちは──」 「仕事中でしょ。わかってますよ」  本来であれば、尾行調査では不測の事態が発生しやすいので、対象者が一つ所に落ち着いたとしても現場を離れずに待機するのが正しい。  しかし、彩華はそれを曲げてまで睦月を救い出すことを手伝おうとしている。  睦月のことは、完全に祐太の私的事情だ。彼女が協力してくれるのは、純粋に善意からくるものなのだ。 「……すみません。この件が片付いたら、きっちり仕事しますから」 「そうしてもらわないと、困るわ」  話をしているうちに、目当ての部屋の前までたどり着いた。『2105』という数字のプレートがドアベルの設置してある壁の上部にある。  ここだ。間違いない。  祐太と彩華は揃って口を噤む。互いに頷き合うと、祐太はドアスコープの死角になるようにドアの真横に貼りつくように立ち、彩華は姿勢を正してドアの真ん前に立つ。もう一度目で合図を送り合った後、彩華はゆっくりとドアベルを押した。  妙に間延びしたベルの音が一回だけ鳴った。だが、返事らしいものはない。しばらく待っても何の反応もないので、もう一回だけ鳴らしてみる。  すると、すぐにドア越しに「はい」と低い男の声がした。睦月のものではない。 「加藤様でございますか? ルームサービスをお持ちいたしました」  すました声で彩華が言うと、すぐに不審そうな声が返ってきた。 「ルームサービスは頼んでいないんだが。部屋を間違えていないか?」  そこで、はいそうですかと引き下がれない。なんとかドアを開けてもらわないと、作戦はムダになる。  どうするんだとハラハラする祐太を横目に、あくまでも彩華は平然として続ける。 「あの、2105号室の加藤様ですよね? 確かにこちらにお持ちするようにとのことですが……申し訳ございませんが、ご確認をお願いできますでしょうか?」  彼女の言葉に仕方ないと思ったのか、カギを開ける音がした。ドアがゆっくりと開きはじめる。  事前の簡単な打ち合わせでは、彩華が部屋の主が翼という男であることを確認して、ドアのロック部分にオートロックがかからないように簡単な仕掛けをして、あらためて踏み込むという計画だった。  しかし、ドアの向こうからちらりとのぞき見た男の姿に、祐太は思わず横からガシッとドアを掴んでいた。  すぐに押し戻そうとする力が、相手から返ってきた。しかし、力比べでは負けるつもりはなかった。絶対にこのドアを閉めさせない。  多少の抵抗はあったがこちらの力が強いと感じたのか、すぐにドアはすんなりと開けることができた。そこで、正面から対峙した男の顔を見て、祐太は腹の底から燃えあがるような感情を抑えきれなかった。 「睦月さんを返してもらおうか」  気がついたら、男の肩に手をかけてつかみかかるようにしてそう言っていた。 「なんだ、お前は?」 「ちょっと、祐太。落ち着いて」  怪訝そうに問いかける男の声と、後ろから窘める彩華の声がぶつかった。  翼という男は、はじめ明らかに不審な視線をぶつけてきたが、彩華に視線を向けたあとゆっくりと目を見開いて祐太に視線を戻した。 「そうか……。お前が『祐太くん』ね…」  そうつぶやくと、翼はまるで苦いものでも飲み込んだかのような表情になる。そして、身体を壁に寄せて狭い通路を空けた。入れという意思表示だ。  そんな彼の態度を訝しく思いながらも、祐太と彩華は部屋の中へと入った。通路で押し問答して騒ぎになると、こっちとしては分が悪い。 「睦月さんは、どこだ?」 「奥にいるよ。きまってるだろう」  馬鹿にしたような態度に、祐太の眉間にきっちりと怒りを表す縦皺が寄る。 「何もしてないだろうな?」  唸るように問いかけると、ふっと鼻で笑って翼が答えた。 「何のことだ?」 「てめぇ……」  怒りが身体を支配するのがわかった。拳を強く握り締めて翼を睨みつける。だが、翼はそれに臆することもなく、部屋の奥を顎で示した。 「心配なら、自分で確かめたらどうだ?」  できることなら、一発殴ってやりたかった。いや、もしも睦月に何かあれば迷わずそうするつもりだ。  今すぐじゃなくてもいいと気を落ち着かせると、祐太は部屋の奥へと進んだ。  部屋は広めのツインルームだった。天井の高さいっぱいであるだろう窓は、同じ高さのカーテンに隠されていた。  一人がけのソファーセットと、化粧台らしき机。その向かいに、セミダブルサイズのベッドが二つ並んでいた。そのひとつに、横になっている人物がいる。  祐太が入ってきた気配に、その人はゆっくりとを頭を動かした。だが、起き上がれないらしく、こちらの方へと顔を向けたが横になったまま動こうとはしない。  その人の足もとに、彼が着ていたはずのジャケットがあった。無造作に脱ぎ捨てられたような感じで。そして、彼のシャツは胸元までたくし上げられていた。 「ゆ、祐太くん……」  いつもとはちがう少し舌足らずな呼びかけに、祐太の頭の中は真っ白になった。

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