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第33話

 思わず、睦月は立ち上がっていた。石井が片眉だけを器用に上げて、訝しい表情でこちらを見上げている。 「どうした?」 「僕、帰ります。祐太君と彩華さんによろしくお伝えください」 「おい、ちょっと待てって……っ!」  立ち去ろうとする睦月に、石井が慌てて追いかけるようにして立ち上がる。  だが、松葉杖を応接セットのテーブルにひっかけてしまい、不安定な体勢になった。その様子を見て、睦月が駆け寄る。 「大丈夫ですか!?」 「あんまり大丈夫じゃねーな……いってぇ」  痛そうに顔をしかめた石井は、松葉杖を持ち直してどうにか体勢を立て直した。  それを見て睦月がホッとしていると、顎でソファーの方向を指し示した。座れということなのだろう。素直に従うと、ため息をつきながら石井も再び腰を下ろした。 「けが人をあんまり動かすんじゃねーよ」 「す、すみません……」 「まあ、居たたまれなくなるあんたの気持ちはわかるけどな」  松葉杖を傍らに並べ置くと、石井はさっきよりも厳しい表情で睦月を見つめた。 「祐太に、ここで待ってるように言われてるんだろ? だったら、そうしろ。ここであんたを一人で帰しちまったら、あの二人に何されるかわからん。二度と入院なんて、ごめんだ」  本気とも冗談とも判断しがたい石井の言葉に、睦月はついクスッと笑ってしまった。それを見た石井が「ようやく笑ったな」とニヤリとしたのだった。 ■□■  睦月と彩華を外へと追いやると、部屋のドアを閉めて祐太は後ろを振り返った。  壁にもたれて腕組みをしたままの加藤翼が、訝しげな視線を寄越してくる。 「なんだ?」 「べつに。あんたと話をしたかっただけだよ」  仕事があるから手短にな、と言う祐太に、翼はどうでもよさげな風情で肩をすくめた。 「で、話って?」 「あんた、結婚するはずだったんだろ。だから、睦月さんと別れたんだろ?」  祐太の言葉に、翼は驚いたように目を見開く。だが、それは一瞬のことで、すぐに元の人を小馬鹿にしたような表情に戻った。 「ふうん。睦月から聞いたのか」 「ああ。あの人があんたと一緒に暮らしたアパートを出たその日にな」 「どういうことだ……?」 「引っ越し作業を請け負って、担当したのが俺だったからだよ」  祐太がそう言うと、翼はおかしそうに肩をふるわせた。 「くっくっく。なんだ、睦月のやつ、引越業者の男とくっついたってわけか。ずいぶんと手近なところで……」  そこまで聞くと我慢ならなくなり、祐太は翼の胸倉をつかんだ。  相当な力で締め付けるように引き寄せているのに、翼は無表情のまま祐太を見返している。 「あんたは……あのときの睦月さんを見ていないから、そんなことが言えるんだ」  慣れ親しんだ町並みを車窓から眺めながら、静かに涙を流していた睦月。  祐太がタオルを渡すと、まるで子供のように泣きじゃくり、しばらくそれが止まなかった。  そして、泣きやんだ後の魂が抜けてしまったかのような表情。  今思い出してみても、痛々しさに表情が曇ってしまう。だが、彼をそんな風にした原因であるこの男は、それを知らないで彼を悪しざまに言ったのだ。とてもじゃないが、許せることじゃない。 「どうした? 殴るんなら殴ってもいいんだぜ」  胸倉をつかんで睨みつける祐太を挑発するように、翼が言った。  それを聞いて、やりきれないとばかりに祐太が手を離した。 「なんなんだよ、あんた……」 「誰かに殴られたい気分だったんだよ」  独り言のように祐太がつぶやくと、翼がそう言葉を返してきた。目が合うと、苦い笑みを浮かべていた。 「自分の気持ちとちゃんと向き合わずにいたから、その分だけあいつを傷つけた。それはわかっている。全部、俺が悪い」 「わかってるなら、ああいう風にあの人を傷めつけんな。何もなかったって、あんたもあの人も言うけど、少なくともあの人は今回のことで、また傷ついたんだ」 「そうだな……」  自分の言葉に素直にうなずく翼に、祐太は顔をしかめた。 「なんか、気が抜けた……あんたにあれこれ言いたかったのに」 「張り合いがなくて、すまなかったな。安心しろ。俺は睦月にこっぴどくふられたんだ」  そう言いながら、翼は部屋の奥のベッドに腰を下ろして、疲れたように息を吐いた。 「――信じることができるってさ」 「え?」  ぽつりとこぼれた翼の言葉の意味がわからなくて聞き返すと、苦笑しながら翼が続ける。 「お前の言葉なら、心から信じることができるだとさ。あいつが言ってた」 「睦月さんが……」 「俺は、お前も知ってるように、あいつを裏切ってばかりだったから、信用できなかったんだろうな。あいつのその言葉でわかったよ。好きとか愛しているとか散々言っていたが、信じてもらえてなかったんだよな」  がっくりと肩を落とす翼に、祐太は複雑な心境だった。  睦月との関係において、自分が優位に立ったと喜べるはずもなく、かといって、慰めの言葉をかけるのも違うと思った。 「俺は、睦月さんのことが好きだ。この気持ちから逃げようとは思わないし、傷ついた彼を知っているからこそ、大切にしたいと思っている」  こんなことを言うのは、傷口に塩を塗る行為だとわかっていたけれど、今の自分はこれしか言えなかった。  祐太のセリフに、翼はこちらを見上げて睨みつけると「そうでなくては、困る」と言葉を返してきた。  部屋を出て彩華と合流したあと、彼女にこっぴどく叱られたが、なんとか本来の調査業務を無事続行することができた。  ひと通りの業務が終わって会社に戻ると、睦月がそこで待っていた。  飲まされた薬の効果はすっかり切れたらしく、自分の元まですたすたと歩み寄ってくる様子を見て、祐太はほっと胸をなで下ろした。 「業務報告書はあたしが書いておくから、あんたは睦月さんを送ってあげなさい」  そう彩華に言われて、それに甘えることにした。終電もとっくに過ぎた時間帯だったので、残っていた徳倉に断って会社のワゴン車を借りることにした。

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