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記憶の欠落

医者と先生が話しているのを少し離れたところでぼんやりと見つめる。 意識もしっかりしているから、明日の朝退院でもいいし、今日の午後でも好きな時に帰っていいよ……なんて適当な事を言っている。 先生は楽しそう。 時折悠さんの方を見つめ優しく微笑む先生のその表情は、今まで俺のことを見つめてくれたそれと全く同じだった。 「………… 」 先生の目には俺はどう見えてる? はっきり聞けてないけど、見ていれば嫌でもそれはわかってしまう。 ……けど怖い。 悠さんが不安そうな顔をして俺の方を見た。きっと俺と同じことを考えているんだと思う。 「あの……頭を打った事で記憶の障害なんかは…… 」 悠さんが医者に話を切り出すと、すぐに先生が口を挟んだ。 「悠さん、俺記憶ちゃんとしてるよ? 自分のこともわかってるし、悠さんのこともわかるよ?……心配? 大丈夫だよ」 ……ねえ、俺の事は? 医者も、今の日付けや自分の事をちゃんと言えてるから問題ないし、多少記憶が混乱したり抜けたりする事はあってもそれは一時的なものが多いから、まずは一週間くらいは様子を見てくれと話している。 あと急に眠気に襲われたり頭痛がしたり、情緒不安定になったりもすると思うから……あんまりにも辛かったら病院に連絡をするように、と早口に話をして病室から出て行ってしまった。 「………… 」 俺は怖くて先生の顔が見られなかった。 「なあ悠さん、医者もああ言ってるしさ、今日すぐに退院するよ。病院って落ち着かねえもん……」 「……わかった。仕事は一週間くらいは休めよ」 悠さんのひと言で先生の動きが止まった。 「仕事?……あれ? 俺、何か仕事してたっけ?」 首を傾げ、眉間に皺を寄せる。 「……そこにいる、志音の学校の保健医だろ?……お前、志音の事わかるよな?」 怖い顔をして悠さんが先生に向かってそう言うと、目を丸くして驚いた。 「保健医? 俺がか?……マジかよ。ちょっと待って……いや、そっか、そうだった。忘れてた……あ、志音君はわかるよ、俺が君を助けたんだよな? はっきりとは覚えてないけど、それはちゃんと医者から聞いてる。無事でなによりだな、良かったよ」 ……悠さんも言葉をなくしている。俺の顔を見て、なんて声をかけたらいいのかって顔をしていた。 先生の記憶の中から俺の事は消えていた── 本当にショックで悲しい事があるとさ、笑っちゃうんだね。 涙なんかこれぽっちも出なかった。 「陸……ぁ、先生? 今日退院するんだよね? 俺も何か手伝うよ」 「おぅ、悪いな、ありがとう。助かるわ。悠さん夜は店行くんだろ? なんか食わせてよ」 今の先生にとっては、俺は単なる生徒の一人。なんで俺を助けたかなんて覚えちゃいない……けど、それも一時的な事だって言ってたから。 ……ちゃんと思い出してくれるよね? だからそれまでは、単なる生徒と保健医の関係でもいい。 無理、させたくないから。 真雪さんに電話をし、状況を詳しく話した。 今日明日と俺は停学中だから、部屋で大人しくしてなさいと怒られた。でも俺は先生と一緒にいたかったから外出する事は黙っていた。 夕方になり、悠さんも一緒に病院を出る。 先生は今自分が住んでいるところも一瞬わからなかった様子だったけど、道を進むにつれ思い出したらしく笑っていた。 「なんかさ、凄く変な感じ……所々記憶が抜けてんのな。でもぽこっとその抜けた記憶がパズルみたいにはまってく感じ」 俺は少し元気すぎるように感じる先生の後ろをついて歩く。 俺がついてるから。早く俺の事、思い出して。 俺なら大丈夫だからね。 俺が先生のことを支えていくんだ。 辛いのは今だけなんだ。 俺は先生の背中を見つめ、ギュッと歯を食いしばった。

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