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【君がくれた、ひと夏の永遠】圭琴子

 優也(ゆうや)と住んで一ヶ月が経ったこの部屋は、夏の日の思い出がギュウギュウに詰まって手狭になっていた。本当に荷物が多い訳でもないのにね。そう笑いながら、細々(こまごま)とした日用品の荷作りをする。君は薄く微笑んで、俺を見ていた。     *    *    *  優也と出会ったのは、ちょうど一か月前だった。熱風のような強くて暑い南風が、Tシャツの裾をパタパタとなびかせる。海の好きな俺は、歩いて五分の所に浜辺があるアパートの一階に、越してきたばかりだった。波の荒い海で、海水浴客は殆ど居なく、サーファーたちがウエットスーツを着て闊歩(かっぽ)する。  優也も、その中の一人だった。でもずば抜けて上手く、波待ちの合間に波打ち際でボードをポンと落としては、それに飛び乗ってキュキュッと鋭く何回か鼻先を振る。俺は持参した小さなレジャーシートに座って、飽くことなく間近にそれを眺めてた。 「見てて楽しいか?」  不意に、優也が身を屈めてボードを拾い上げながら言った。目線は下に落ちてたから、仲間と会話してるんだろうって、疑いもしなかった。 「そこのお前だよ」  ボードを小脇に抱えて、スッと立った君はとても長身で、サーファー焼けの精悍な頬と長い茶髪が格好良かった。俺と違って、自信に満ちた視線と初めて視線が合って、何だか覗き見してたような、後ろめたい気分になる。 「あ、ご、ごめん」 「別に謝らなくて良いけどよ。……隣、良いか?」  優也はそのまま俺の方に来て、レジャーシートの隣を目で問うた。慌てて横にずれてスペースを開けながら、頷く。 「う、うん」 「俺、優也。お前は?」 「(なぎさ)」 「へえ。何だか海にピッタリな、詩的な名前だな」  優也は先程までの真剣な表情とは打って変わって、明るく笑う。 「父さんが、聖子ちゃんの大ファンで」 「セイコちゃん? 誰だそれ?」  あ、若いから知らなくても無理ないか。俺よりふたつかみっつ、下くらいに見えた。 「懐メロ番組とか観ない?」 「観ねぇ。テレビ自体をあんまり観ねぇ」 「ふぅん……珍しいね」  会ったばかりだと言うのに、人見知りの俺がすんなりと馴染めた。時たま居るんだ。波長が合うひと、って。 「渚、よくこうやってサーファーを見てるよな」 「え」 「何時間も座って、ただ見てて。楽しいのかな、ってずっと気になってた」  俺はちょっと笑った。 「楽しいよ。運動音痴の俺には、出来ないことだからな」 「簡単だぞ。やってみろよ。教えてやるから」 「それって、また会おうってこと?」 「ああ。俺、家出青年なんだ」  俺は思わず噴き出した。家出青年が、自分でそう名乗るだろうか。でも君は、嘘か本当か分からない笑みで、言葉を続ける。 「だから、一ヶ月くらい泊めてくれる奴を探してたんだ。少しだけど、家賃分くらいは払う。頼めるか?」 「それ、本当?」 「ああ。マジ」 「悪いけど」  俺は申し訳なく、眉尻を下げる。 「仕事の関係で、一ヶ月間住むだけの街なんだ。いつ異動になるか分からないから、泊める訳にはいかない」    面倒ごとにも関わりたくないし。心の内に、少し苦く呟く。 「……そっか」  やや沈黙してから、優也は言った。瞳は、今まさに沈もうとする夕陽を映し、オレンジ色に染まってた。 「ごめんな。じゃあ」  そそくさと立ち上がってジーンズの裾についた砂を払うと、優也も立ち上がった。無言だった。  気を悪くしたかな。でも多分、もう声をかけてはこないだろうし。乱雑にレジャーシートを畳んで、徒歩五分の家路を目指す。  何で振り返ったのかは、自分でも分からない。何気なく振り返ると、陽が沈みきって薄闇が漂い始めた海の中に、優也が入ってく所だった。  え? サーフィンって、こんなに暗くなってもやるものなのかな? そして、気付く。さっき置かれたままの場所に、サーフボードが転がってることを。  優也は、迷いなくどんどん沖に向かう。もう、腰の辺りまで海水に浸かってた。 「優也!!」  我知らず、叫んでた。優也が振り返って、手を振る。穏やかな表情に、真意をはかりかねてしまう。でもまた沖に向かう君を見て、俺は砂に足を取られながら全速力で優也を追いかけ始めた。 「優也! 優也!! 待て!! 分かった、泊めてやるよ!!」  追いつく頃には、もう海面は胸の上まで来てた。優也の本気がうかがえる。後ろから肩を掴んで反転させ、厚い胸板に頬を押し当てて思い切り抱きしめた。 「泊めて……やるから……! 死ぬな……っ」  死のうとした筈の君が笑顔で、止めた筈の俺が号泣してた。優也は優しく、俺の髪をポンポンと撫でてくれた。     *    *    *  そうして俺たちは暮らし始めた。海辺まで徒歩五分のアパートで。何も聞かなかったし、聞きたいとは思わなかった。面倒ごとに関わりたくないのは変わらない。ベッドはシングルだったから、狭いことこの上なかった。  やがて、気付く。いつもふざけて笑ってる君が、夜中に目を覚ますと、声を殺して泣いてることに。何度目かの時、薄目で狸寝入りしてたら、唇に触れられた。唇で。身体中が心臓になったようなドキドキの中、俺は寝返りを打つフリをして背を向けた。  な……何、今の。  今まで同性愛について深く考えたことなどなく、ただただ戸惑ってた。優也以外と、キスや、それ以上をするのは躊躇われたけど、困ったことに優也相手なら良いかもしれないと思った。いや、待て、それ以上? 何を考えてるんだ、俺は。その夜は、まんじりともせずに朝を迎えた。  その日の昼前、君はまた優しく笑い、サーフボードを持って出かける。それを送り出して、三日にいっぺんくらい砂浜で優也を眺めるのが、俺の日課になってた。坂の向こうにウエットスーツの優也が見えなくなるまで手を振って、ドアを閉めようとした時だった。外から思い切りドアノブが引かれ、俺は勢い余って裸足で玄関のたたきに下りる。 「……アンタ、誰!?」  目の前には、小柄でスレンダーなのに、猛獣みたいに獰猛な目で俺を睨みつけてる、女の子が居た。白に青の小花柄のスカートが、海賊旗みたいに(ひるがえ)る。さながら彼女は、戦士だった。俺はそんなにストレートに憎しみをぶつけられたことがなくて、何だか苦笑してしまう。 「いや、それ俺の台詞……ああ、家出青年のご家族かな」 「アンタが、優也をたぶらかしたの!?」  困った。話が通じない。 「たぶらかしてないです。どちら様ですか?」 「優也の、婚約者よ!」  焼けた火箸で刺されたように、心臓が熱くて痛かった。婚約者? じゃあ、あのキスは何? 俺は勝手に、優也が好きなのは俺だと思ってた。そしてそれ以上に、俺は優也が好きになってた。 「返して……! 優也を、返して……!!」  強いまなざしが、不意に決壊する。大粒の涙をボロボロ零しながら、彼女は俺の胸を拳でぶった。でもすぐに、縋り付くようにして号泣し始める。 「返して……!! 優也……!!」  彼女が泣き止むまで、俺は細い肩を支えてた。女の子って、俺より細くてか弱くて、無条件に守ってあげなくちゃって思う。でも初めて優也と会ったあの日、俺よりふた回りは大きくて逞しい彼を、俺が守ってあげなくちゃと思ったのも事実で。取り敢えず、上がって貰って話を聞いた。  聞かなきゃ良かったなんて思っても、あとの祭りだった。優也は彼女から逃げて、ここに来たんだろう。 「優也が自分から出ていったのは、分かってるの。探さないで、って書き置きがあったから。でも、居ても立ってもいられなくて……ボードがなくなってたから、海のある街を探して。ようやく見付けたの」 「どれくらい、かかりました?」 「……一ヶ月」  彼女はまた、声を詰まらせた。こんな風に泣かれて、どうしろというのだろう。逃げ出した優也の気持ちが、分かるような気がした。 「初めて会った日、彼、自殺しようとしたんです」  嗚咽が激しくなった。でも、女の子でも容赦はしない。優也の為に。 「彼には会わないで、帰ってください。今また貴方にそんな風にすがられたら、優也はまた逃げなくちゃならない。そして今度は本当に、自殺するかもしれない。必要な時には、こちらから連絡しますから。帰ってください」  彼女は無言で、プライベート用だろう、可愛い猫の写真がプリントされたカラフルな名刺をテーブルに置いた。こんな名刺を持ってるっていうことは、何処でも誰でもすぐに友だちが作れるタイプの子なんだろう。優也の気持ちが分かるとは、思えなかった。 「お帰りください」  彼女は泣き腫らした瞼のまま、言葉も持たずに立ち上がって出ていった。麦茶を出したマグカップをシンクに片付けてたら、チャイムが鳴った。忘れ物かな。そう思って、誰何(すいか)もせずにドアを開けて、凍り付いた。優也が、立ってた。 「ん? どうした?」  不思議そうな顔をする。ということは、会ってないんだな。一瞬で状況を理解して、俺はいつものように微笑んだ。 「いや。今日は、早いなと思って」  踵を返して、いち早く名刺を掴んでポケットにねじ込む。あとで、引き出しの奥にしまおう。 「あれ? 誰か来たのか?」  心臓が縮み上がった。優也は、シンクを覗き込んでた。 「ううん。お茶飲もうと思ったら、飲み口が欠けてるのに気が付いて。気に入ってたのに。残念」  俺はいつも自分が使ってる方のマグカップを、燃えないゴミの袋に放り込む。(ばち)が当たるかな。ボンヤリと思う。そして、息をするように嘘が出てくる自分にも驚いた。 「何で今日、早いんだ?」 「ああ。雨、降ってきたから。ひどくなる前に帰ろうと思って」 「そっか。飯作っておくから、シャワー浴びてこいよ」 「ああ」  その隙に、引き出しの一番奥に、クシャクシャの名刺をしまい込んだ。 「……何、隠したんだ」  起きてる時はいつも朗らかな優也の声が、氷みたいに低い温度でかけられた。背に当たって、砕け散る音がするんじゃないかと思うほどに。 「な、何も。買い物のレシート、しまっただけだよ」 「じゃあ、見せろよ」 「……」  嘘は苦手だ。不覚にも、俺は黙り込んでしまう。最悪のシチュエーションだった。 「……やっぱり、誰か来たんだな。嘘をつくってことは、女房気取りのアイツか?」 「優也、聞いてくれ……」 「何で、放っといてくれないんだ。お前が好きに、なりかけてたのに!」 「優也!!」  優也はウエットスーツのまま、反射的に立ち塞がろうとする俺を突き飛ばして、アパートを出て行った。裸足のまま。受け身も取れずにしたたかに背中を打って、俺は数瞬動けずにいる。その間に、驚くべき速さで優也は遠くに行ってしまった。手の届かないほど、遠くに。 「優也っ!」  何とか外に出てみたけれど、もう何処にも彼の姿は見えなかった。見えたところで、運動音痴の俺では、とても優也に追い付けないだろう。 「ゆう……や……」  優也は夜毎に泣いてたけど、俺は優也と出会ったあの日以来、初めて泣いた。その内、ザアザアと音がするほど雨がひどくなって、俺は仕方なく部屋に戻った。でも、いつでも優也が戻ってこられるように、玄関は開けておいた。  優也。好きになりかけてたって、本当? じゃあ、あのキスは本物? 俺も、優也が好きだよ。ううん、男が好きなんじゃない、優也が好きなんだ。ウエットスーツで、日焼けした茶髪から水滴を滴らせた優也と対峙する。水も滴るイイオトコだね。そう言ったら、優也はいつものように優しく笑ってくれた。  ――ガタン! 「ハッ」  目が覚めた。何処まで夢か(うつつ)か分からないまま、音のした玄関先に出る。何時(なんじ)だろう。真っ暗だった。びしょ濡れの優也が、切れかけてチカチカする蛍光灯に照らされて、うずくまってた。 「優也! 風邪ひくぞ。早く入れ」  脱力した彼の片腕を首に回して、引っ張り上げるようにして部屋に入る。濡れたまま、構わずベッドに横たえた。顔が赤い。息が荒い。手の甲で瞳を隠しながら、起きてる時に初めて、優也が泣き声を出した。 「クソッ……雨さえ降ってなかったら……もう、逃げることさえ出来ねぇのかよ……」 「逃げなくて、良いんだ。優也。俺も、君が好きだ」  「嘘だ。同情なんか、要らねぇ」 「同情じゃない。優也、俺も。俺も逃げてきたんだ。仕事で来たなんて嘘だ。俺も、なんだ」 「お前も……?」 「嘘じゃない」  そして初めて、俺から優也にキスを贈った。触れるだけの、バードキス。君は怯えるように一度、キュッと目をつむって首をすくめたが、離れたあとで驚きに切れ長の目を見開いた。 「お伽噺(とぎばなし)みたいに泡になって消えてしまえたらなんて思ってたけど、今は違う。君が欲しい。優也と……シたい」  手探りで背中のジッパーを下ろすと、引き締まった三角筋が表れた。でも想像と違って、下肢はボクサータイプの水着で隠されてた。俺は夢中で優也のウエットスーツを脱がせてく。 「優也、辛い? 辛かったら、今じゃなくても良い」  そんな方便を唱えながらも、脱がせる動きは止められない。優也も協力して関節を曲げ、共同作業で水着一枚になる。隠しようもなく、優也も興奮してた。 「今で良い。いや。今()、良い」  優也が下から、俺のスウェットの上下を剥ぎ取ってく。二人とも生まれたままの姿になると、向かい合って横になり、互いの熱く反り返ったものを握り込んだ。 「アッ、ゆう・やっ」 「お前も真似しろ」  優也が俺のものを、緩急をつけて扱いてる。俺も真似したけど、()過ぎて手がお留守になってしまう。 「愛してる……渚。嘘でも良いから、この瞬間、俺を愛してくれ」  優也の落ち着いたバリトンが、セクシーに掠れ上がって耳に直接吹き込まれる。たまらなかった。 「ん、アッ・や・やぁ――……っ!」  俺が白濁を零して胸を喘がせていると、優也は俺の掌ごと自分のものを握り、扱いた。 「愛してる。渚も、言ってくれ」  身体中が性感帯になった俺は、そんな囁きにもビクビクと肩が跳ねてしまう。 「んっ」 「言ってくれ。渚」  いつもの自信に満ちた優也じゃなくて、その声は懇願してた。俺は空いてる方の手を優也の後頭部に回して、顔中にキスの雨を降らせながら、囁き返した。 「愛してる。優也」 「ンッ……!」   息を詰めて、俺の掌の中で優也も果てた。汗なのか雨なのか分からない水滴を額に浮かべたまま、俺たちは何度も愛してると囁き合った。     *    *    *  荷作りの途中で、眠ってしまってたらしい。最近は、疲れやすい。顔を上げると、君が変わらず微笑んでた。 「君も……少しは、手伝ってくれよ。ズルいな。俺ばっかり」  愚痴を零して、突っ伏してたダンボールに、二人で使ったマグカップを入れる。あの時捨てたお気に入りのマグカップも、あとで優也がゴミ袋から救い出してくれてた。  カップは、取っ手があるから持ちやすいな。そんな風に思って、二人交代で料理した思い出の皿に取りかかる。 「あ」  キンと、澄んだ破裂音が響いた。震える手から、皿は床に落ちて真っ二つに裂けた。 「優也……そんなに、ひとりが寂しいのか? 寂しがり屋だな、君は。分かった。俺も、もういくよ……」  視線の先には、微笑みかける君の遺影。 「俺も君も、余命二ヶ月だったのに、俺を置いて逝ってしまって、寂しいからって遺品の整理もさせない君は、本当に困ったちゃんだな……」  目がかすむ。最期の力を振り絞って、登録しておいたあの子の電話番号を呼び出す。あれ……おかしいな。呼び出し音が聞こえない。スマホ、壊れた? 俺は再び、ダンボールに突っ伏してうとうとし始める。 『もしもし? もしもし!?』  かろうじて金切り声が聞き取れた。ああ……よかった……ちゃんと、お墓に入れて貰えよ、優也。俺の身元が分かるものは置いてないから、出来れば、君の居る場所の無縁塔に合祀(ごうし)して欲しいなあ……。 『渚』  優也の落ち着いたバリトンが聞こえる。あんなに身体が重かった筈なのに、俺はフワリと立ち上がった。遺影の中の変わらぬ君じゃなく、包み込むような優しい笑顔で、君は俺に手を差し出してた。 『優也。迎えに来るのが、早すぎるよ』 『悪い。待ちきれなかった』  文句を言いながらも、差し出された掌に、掌を重ねる。そうして導かれるまま、白い螺旋階段を上っていった。 『もう離さない、渚。ずっと一緒だ』 『ずっと?』 『ああ。永遠に』  白い菊の花がびっしりと咲き誇る河原に出ると、あっという間に押し倒された。 『こら。神様の所に行くのに』 『言ったろ。待ちきれない、って』 『全く……君って奴は』  俺たちは花のかげに隠れて、飽くことなく唇を触れ合わせては、瞳を見交わしクスクスと笑い合った。『永遠』と優也は言ったけど、この世にもあの世にも『永遠』なんてものがないのは無意識に知っていて、俺たちは時を忘れて指と舌を絡ませた。 『来世でまた、逢おう』  そんな気障な台詞が、賞味の重みを持って、優也の口から吐息まじりに囁かれる。  優也。うん。……きっと。どんな姿に変わっても、必ず君を、見付け出してみせるから……。  嬉しいのか、悲しいのか、どちらか分からない涙が一粒だけ、頬を伝って零れ落ちた。 End.

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