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【海に沈める恋】志生帆 海
「 晶 のことが好きだ」
「 双葉 ……俺もだ」
「オレたち、ずっと一緒にいような」
真っ白な入道雲を背負ったお前と、防波堤の陰でこっそりキスを交わした。
双葉と俺は大学のヨット部の同級生で、二人乗りのペアだった。
ヨット部の練習はハードで週末には必ず海辺で合宿をする為、大学の中で誰よりも双葉と共に過ごす時間が自然と長くなっていた。
だから合宿の度に親交が深まったのは、当然のことだろう。
大学三年生の夏が始まる直前から、双葉との関係が変化した。
『友人』が『恋人』となり男同士で付き合いだしたのは想定外だったが、俺はすべてを受け入れた。
双葉のことを信頼している。
ペアを組んでみて、こんなにも息が合う奴はいないと思ったから。
なぁ……俺達さ、これまで何度キスしあったか。
付き合うきっかけは、突然だったよな。
恋に堕ちる瞬間って、そんなものか。
****
七月上旬のことだ。
俺と双葉は夏の知らせを告げる雷雨にこっ酷くやられ、びしょ濡れで合宿先の旅館に駆け込んだ。まだ誰も戻っていないようで相部屋には誰もおらず、しんと静まり返っていた。
「晶、ほらタオル、早く拭けよ。風邪引くぞ」
「ん、サンキュ」
濡れたTシャツを脱ぎ捨てた双葉の逞しい裸の胸板に、俺は何故かドキッとした。
なんで……こんな……これじゃ男の双葉に欲情しているみたいだ。
そう思うと胸がドキドキした。
いつも風呂場で見慣れている双葉の裸なのに、まさかな。
すると双葉の方も顔を赤らめていた。
その視線の先は……俺の胸あたり?
不思議に思って見下ろすと、濡れた白いTシャツがぴたっと肌に張り付いて、乳首(といっても小さな尖り)が布越しにツンと主張していたので驚いた。
(な……なんだよどうしてそんな目で見る?男の乳首なんて面白くないだろう)
(なぁ晶って……凛とした美人だよな)
(美人って……俺は男だぞ?)
(オレさ、晶とならキスできる)
(キス?)
(なぁしてみないか)
(あ?あぁ……双葉とならしてみてもいいかも)
(本当か?シテいいか)
(んっ……)
成り行きだったのかもしれない。
好奇心も混ざっていたと思う。
でもキスしたら思いの外気持ち良くて、しかもこう胸の奥からじわじわと双葉のことを好きな気持ちが滲み出てきたので驚いた。
俺って男も愛せるのか。
いや双葉限定だ。
キスをすればする程、男同士という垣根を越えて、双葉のことが愛おしくて堪らなくなっていた。
****
それにしても今日のキスは妙に塩っ辛かったな。
いつもはもっと甘いのに……
きっと海風のせいだ。
あいつは塩っ辛いからな。
「どうした?なぁ一緒に写真撮ろうぜ!」
「へぇ珍しいな。双葉がそんなこと言うなんて初めてだな」
「そうだっけ?ほら撮るぞ!3.2.1……」
双葉がスマホを持った長い腕を青空に伸ばし、二人で自撮りした。
だがシャッターが下りる瞬間、俺達の間に強い海風が吹き抜けて邪魔をした。
「わっ!すごい風だったな。今のちゃんと撮れたか」
「どうだろ?」
ふたりで確認すると、スマホの画面から俺と双葉の顔が半分ずつはみ出てしまっていた。
でも無表情な俺の隣で、双葉は……色素の薄い長めの前髪を海風にそよがせ、とびっきり優しい眼差しで俺のことを見つめてくれていた。
そうか……俺は双葉からこんな風にいつも見てもらっているのか。
俺は双葉に見られるのが好きだ。
不器用で不愛想で大学のクラスでも浮いていた俺を、ヨット部に誘ってくれたのは双葉だった。クラブ内で輪に溶け込めるようにいつも隣でサポートしてくれたのも双葉だ。
そんな彼に惹かれたのが、俺だ。
「俺たちの顔が半分切れちゃったから、もう一度撮ろうか」
「いいって!晶とオレはどうせこれから嫌って言う程お互いを見つめ合っていくんだから。躰だって、ぴったりくっついてな」
「はっ?それどういう意味だよ?」
「つまりだな、お前を抱けばオレの躰の一部が晶の中に入り込んで、一体化するって意味だ」
「あっ……こんな所で恥ずかしいこと言うな!」
「ははっ!この写真は晶のスマホにも送信しとくからな」
「サンキュ!」
「それから晶……この間の約束を忘れてないよな」
「……もちろんだ」
「明日の合宿が終わったら、すぐにお前を抱くから覚悟しとけよ」
「俺が抱かれるのか……まだ想像できないが双葉にならこの躰を差出せるよ。双葉にだったら抱かれてもいい」
「ありがとう。オレは晶のことを永遠に大切にするからな」
「『永遠』なんて簡単に使うなよ。それに……俺の心は結構重いぞ」
「重い位がいいよ。浮かべない程の重い恋がいい」
双葉に腰を抱かれ、もう一度淡いキスを交わした。
今度はふわっと甘かった。
それが双葉の生涯で最期のキスになるなんて知らずに、俺たちは唇を何度も……お互いを記憶するように重ね合った。
****
そんな甘い言葉を交わしたのは、いつのことか。
お前の言った永遠なんて存在しなかった。
お前がしてくれた約束なんて、永遠に守られなかったじゃないか。
だってお前は──もう俺の隣にいない。
どんなに探したって、もう二度と逢えない場所に行ってしまった癖に。
何故ならあの夏の日、二人で写真を撮った翌日に……お前は死んでしまったから。
大学三年生の夏休み。
あの日双葉はいつものように午前中からヨット部の練習に参加していたが、俺は法事があって一旦合宿先から実家に戻っていた。
(晶、明日には戻って来られるのか)
(あぁもちろんだ。今日は少し風が強いから心配だ。俺がいないんだからくれぐれも無理すんなよ。双葉と一緒に練習出来なくて悪いな)
(分かってるって。気を付けるさ。それよりいよいよだな。明日は休みだろ。実は横浜のホテルを予約したんだ。バイト代使い切って奮発したよ)
(……そうか……いよいよなんだな。なんか改まって……照れるな)
(晶、待ってるからな)
いつものようにバイバイと軽く手を振って別れた。
だが運命はここで大きく動いてしまった。
午後の練習中、強風に煽られて双葉の一人乗りのヨットが転覆。
双葉は不幸なことに腰に巻いていたロープが足に絡まり身動きが取れなくなり、救助された時にはもう……息をしていなかったそうだ。
俺が報せを受けて慌てて病院に駆けつけた時には、双葉は顔に白い布を被り冷たくなっていた。
「嘘だろ……双葉、双葉ああぁぁぁ!!」
まさか、こんなことってあるのか。
お前と将来を誓い熱いキスを交わしたのは、つい昨日のことだ。
明日には……俺はお前に抱かれる覚悟も出来ていたのに、何でだよ?
こんな風に俺を置いていくなんて、酷いじゃないか。
悪い冗談だとも、悪い夢だとも思った。
だが、夢は覚めなかった。
永遠に覚めなかった。
****
五年後。
あれから俺の時計は止まったままだ。
スマホは何度か機種変更したが、あの夏双葉と撮った写真だけはサーバーに上げてずっと引き継いできた。
「双葉おはよう。今から仕事に行ってくる。もうすぐ八月だ……お前の命日がまた近づいて来るな」
今日も日課のように歳を重ねなくなった恋人に声をかける。
写真は劣化しない。
俺のスマホの中には、まるで手で触れられそうな程鮮明にあの日の双葉が微笑んでいる。
あの日もっとくっついて写真を撮ればよかったな。それにちゃんと撮りなおせば良かったな……こんなことになるなら。
俺は双葉の返事を待たずネクタイをきゅっと締め、いつもの時刻に一人暮らしのマンションを出て仕事場に向かった。
双葉のいない人生は、ずっと何かが足りない。
虚無感で溢れる世界だった。
だって……双葉とは、まだまだこれからだった。
その『これから』がどんなに待っても始まらないから、俺はどうしていいのか分からなくて、小さな子供のように立ち尽くしたままだ。
あれからずっと双葉は写真の中から出てこない。
ヨット部は双葉が亡くなった時に辞めた。
それからは海には近づかなかった。近づきたくなかった。
そのまま流されるように就職して、もう五年だ。
いつのものように会社に行くと、持っていた書類を床にばら撒く程、驚くことが待っていた。
「えっ……こんな時期にいきなり転勤ですか」
「何か不服でも?とにかく向こうの支店は深刻な人手不足なんだよ。これからシーズンを迎えるので即戦力が必要だそうだ。来週から早速行ってくれ。頼むよ」
「はぁ……」
「お前は新人時代に支店勤務もしているから、大丈夫だろ」
最悪だ。
よりによってあの支店だなんて。
目の前は『海』だぞ。
双葉を奪った海なんて……もう二度と見たくなかったのに。
だから避けていた支店なのに、何で……よりによって俺に辞令が下るんだ。
****
辞令が下って一週間後。
俺は呆気なく『南海岸支店』に飛ばされた。
くそっ暑いな、駅からもう二十分は歩いたぞ。
なんでこんな場所に支店を作ったのか、信じられない。
青い店の看板が見える頃には、もう背中が汗でぐっしょり濡れていた。
俺の職場……携帯電話販売会社の看板。
どこにいっても同じ色。
ほぼ同じ内装の店内。
個性なんて何もない、マニュアル通りに仕事をこなせばいい場所だ。
機種変更に新規購入。お年寄りに使い方をレクチャーして、後は画面のひび割れや水没の修理の受付が多い。
支店は……新人で配属された時に嫌というほど窓口に出たからもう辟易だった。やっと本社の企画開発に入れたのに、何でまた振り出しに?
俺の人生はついてない。
本社勤務からこんな外れの支店だなんて左遷か、やっぱり。
俺……何かしたか。
そりゃ無気力だったのは認めるが。
溜息をつきながら支店を背に立つと、真正面に真っ青な海が見えた。
これでもかっていう程、青く広い海だな。
あの日、双葉が背負っていた白い入道雲もよく見える。
なんか入道雲って、まるで青い海からモクモクと生まれた巨大怪物みたいだ。
双葉を喰ったのはお前かもな。
あれも……同じ八月だった。
くそっ最悪だ、こんな場所、こんな海。
嫌でも双葉のこと思い出してしまうじゃないか。
支店に入る前にこの辛気臭い顔をどうにかしたくて、白いガードレールに後ろ手をついて海風を浴びた。
あ……でもこの感覚って久しぶりだ。
あの日写真を撮る俺達を邪魔した海風も、こんな匂いだったよな。
双葉……なぁどうして一人で逝ってしまったんだよ。
俺さ、どうやってもお前のことを忘れられなくて困っている。
あんなキスしなければ……よかった。
あんな写真撮らなければ……よかった。
もっと早く……お前に抱かれておけばよかった。
真昼間からお前のことばかり思い出し後悔するのは、この湿った海の匂いのせいか。
****
支店の仕事は想像以上に激務だった。
こんな海の近くにあるのが、いけないんだ!
髪をガリガリと掻きむしりたくなる。
水没、水没……一日中スマホの水没事故対応ばかり。
「晶くんお疲れ様。カッとなる気持ちも分かるが、ここは海が目の前だからしょうがないのさ~特に夏の海水浴シーズンは、ほぼ100%水没事故対応だぞ。がんばれー」
一昨年からこの支店いる上司が肩を竦めながら、慰めてくれた。
「そうだ。晶くんは水没事故にあったら何を一番最初に心配する?」
そう問われて……俺の脳裏には双葉と撮った写真が浮かんだ。
「……写真ですかね」
「うん確かにデータの破損はダメージがあるね。でも今は大体の写真はサーバーにあがっているから安心だよ。壊れてもまたちゃんと戻ってくるからな」
「……ですね」
双葉の写真は戻ってきても、双葉自身は永遠に戻ってこない。
その繰り返しだ。
正直……双葉がいなくなって五年間も一人で暮らしていると、辛くなってきた。
「なぁ双葉……そろそろお前を好きな気持ちを置く場所が欲しいと心が彷徨いだしているみたいだ。俺って酷い奴か」
仕事でクタクタになった帰宅の道すがら、ふとそんなことを呟いてしまった自分に驚いた。
海岸沿いの道に人通りはない。
月光が海を照らし、海と空の境目まで真っすぐに白く光る道を作っていた。
その光景にゾクッとした。
双葉を喰った海が俺を呼んでいるのか、誘っているのか。
俺は発作的にスマホをポケットから出した。
「双葉……ごめん。俺、もう……辛い!」
待っても……どんなに待ってもお前は永遠に戻って来ないから。
もうお前の写真を持っているのも……辛い!
もう……!
サーバ上のデータを発作的に素早く完全消去し、次の瞬間、俺の手は勢いよく海にスマホを投げ捨てていた。
「あっ!」
ポチャンという音と共に、スマホは海の藻屑となっていく。
写真のデータはもう引き継げないよう設定した。
だからこれでもう……双葉から永遠に解放される。
そう思ったのに……気が付くと俺は双眸から涙を溢れさせ、スーツのままズボズボと海中へ足を踏み入れていた。
「違うっ!違うんだ!双葉っごめん!」
あんなにお前が苦しんだ海に、双葉をまた沈めるなんて……俺は最低だ。
スマホはどこだ?
早く探さないと!!
双葉を探さないと!
深みに足をとられ、視界が歪む。
月がゆらっと傾いていく。
「あうっ……ゴボゴボっ……」
まずい!溺れてしまう。
スーツが水を吸って重たい……靴も重たい。
あぁでもこのまま沈んだら、双葉の所に行けるのかもしれない。
そう思うと……藻掻いていたはずの手がだらんと下がった。
(双葉……双葉どこにいる?)
俺を連れて行ってくれよ。
お前のところに……
もう疲れた。
あの日のキスの続きをしてくれよ。
約束したろ?
俺をちゃんと抱いてくれよ。
****
「ゴホッ……ゴホ……ゲホッ」
肺が水で埋もれそうに苦しくて、激しく咳き込んだ。
次の瞬間、生暖かい唇が被さって温かい息を吹き込まれた。
それから胸を一定間隔で押された。
あ……これって会社の救命救護教室で習ったのと同じ動きだ。
酸素が戻って来て、やっと正気に戻ってきた。
その瞬間びっくりした。
いくら人工呼吸だからって、俺の唇を塞ぐ男と暗闇で目がバチっとあったから。
「わっ……わぁ!」
ドンっと、その男を突き飛ばしてしまった。
「痛っ!ひどいな。せっかく助けてあげたのに礼がそれ?」
「あ……」
俺はさっき何をしようと……
まさか自ら海に入るなんて、馬鹿なことをした。
この五年、どんなに辛く悲しくてもそれだけはしなかったのに何故だ。
双葉が沈んだ海に誘われたのか。それとも冷たく浮かぶ月に?
「大丈夫?」
「あっ……なんとか」
「病院行く?」
「いや……大丈夫そうだ」
男の唇の感触にぞわっとして、慌てて手の甲で唇を拭った。
双葉との思い出が消えてしまうような気がして焦った。
「おい?やっぱり病院に行こう」
「いいって言ってるだろ!」
こんなことで騒ぎにしたくない。
田舎の両親には散々迷惑かけた。
あの夏、放心状態になって双葉の遺体から離れられなくなった俺を迎えに来てくれたのが母親だった。俺の取り乱し方に察するものがあったらしく、両親はあれから俺に余所余所しい態度を取る。
都会でも男同士の恋なんて普通じゃないから、山奥に暮らす両親には到底受け入れられない事だろう。だから就職も神奈川でして、もう一生故郷には戻らない覚悟も出来ていた。
「……もう帰る」
頭からつま先までずぶ濡れで溺れかけた弱った躰だったが、誰かに頼って生きたくないという想いの方が強くて、助けてくれた大学生くらいの若い男を手で押し退け、よろよろと立ち上がった。
「うっ……」
でも立った瞬間にクラクラと眩暈がして、そのまま砂浜に膝をついて倒れ込んでしまった。
頬に夏の日差しを吸い込んだ砂がジャリッと触れたのを感じたのが最後だった。
****
温かいものに包まれている気がして、はっと目が覚めた。
「んっ?」
お湯か……これ。あぁ人肌以上に温かくて心地いいな。
じゃあ……ここは風呂の中なのか。
あれ?でも俺……いつの間に?
「うっ……」
目を開けてギョッとした。
俺……真っ裸だ。
しかも湯船に浸かっている。
胸元には誰か知らないが男の逞しい腕がまわされ……
ギュッと背後から抱きしめられている。
「なっ何!」
慌てて振り向いて、更に驚いた。
「ふっ双葉!!!」
俺を抱きしめている男は、あの日俺が失った双葉だった。
「おっお前……いっ生きて……」
「晶……ずっと会いたかったよ」
双葉はあのキスをした日から、少しも変わらない容貌だった。
なんだよ、これ……夢なのか。
でもちゃんと俺を抱きしめる双葉の腕は生身の肉体だ。それに俺の尻にさっきからあたっているのは、双葉の欲望の塊だった。
「あの日、約束守れなくてごめんな。ずっと気になっていて」
「双葉っ双葉に会いたかった!」
思わず振り向いて正面から抱き着いてしまった。
幽霊でも幻でも……もう何でもいい!
俺の双葉にまた逢えたことが嬉しくて!
「双葉、早く抱いてくれ。お前がした約束だろ。守ってくれよ!じゃなきゃ……俺はずっとあの日のままだ」
「晶……いいのか。お前の初めてなんだろう?オレなんかがもらっても」
「最初からお前のものだった。持って行けよ」
俺は双葉を煽ったのか。
風呂場から横抱きにされ脱衣所に移動し、乱暴に躰をバスタオルで拭かれ、そのままキスをされた。
あぁ双葉の唇だ。
ちゃんと温かい……幽霊じゃないんだな。
でも……あの日と同じように塩っ辛いのは、双葉がいた海水のせいなのか。
「晶の味……忘れるものか」
「俺のこと抱いて欲しい。俺の躰を双葉で一杯にして深く沈めて欲しい」
今までしたこともない程の激しいキスをしたまま、ベッドにもつれこんだ。
ここは誰の家なのか。俺の部屋じゃないことは確かで……でも双葉がひとり暮らしをしていたアパートでもない。双葉に聞こうと思ったが、それよりも先に双葉が欲しくなった。
ここがどこで、双葉がどこから舞い戻ってきたのかとか……
もう、そういうことはどうでもよかった。
何も怖くなかった。
俺……当時はまだ大学生だったが真剣に双葉のこと愛していたんだ。
そのことをじわじわと感じていた。
白いシーツが高波のように暴れ、俺と双葉は求め合った。
これが五年間お預けを食らった逢瀬って奴か。
まるで双葉は俺の躰を確かめるように、手で丹念に愛撫を繰り返した。
やがて双葉が俺の蕾に指を躊躇いがちに這わせてきた。
「男同士はここを使うが、大丈夫か」
「……双葉になら許す」
「今まで誰にも許さなかったのか」
「あぁもちろんだ。正直……男に誘われることもあったが守ったよ。双葉とどうしても繋がりたかったから」
「夢は今叶う」
ぐぐっと双葉の熱い欲望が、俺を埋め尽くす。
熱くて大きな塊に、一気に貫かれる。
「ああっ……」
すっと俺が待っていたのは、これだったのか。
痛みと嬉しさとで、双葉の質量を受け止めるたびに双眸から涙がはらはらと零れ散った。
「双葉……双葉……もうどこにも行くなよ。俺を置いて逝くな!」
双葉からの答えはなかった。
どうして?
こんなに求めあっているのに……
何度も激しく突かれ、双葉の手によって俺の欲望も何度も吐き出した。
波の白い飛沫のように、それは真っ白なシーツに激しく飛び散った。
息も絶え絶えでベッドに沈み込んだ時、ずっと押し黙っていた双葉がようやく口を開いてくれた。
「昌……ごめんな。こんなカタチでも、どうしてもオレは晶を抱いてから旅立ちたかった」
「え……今、何て……」
「大丈夫。彼は悪い奴じゃない……すまない。晶」
「どういうこと……だ?」
「もう逝かないと……」
「待って……うっ……」
突然ひどい眩暈がして、ここで暗転してしまった。
****
ふぅ……もう朝か。
久しぶりにぐっすり眠れたようだ。
こんなに気持ちよい目覚めは、いつぶりだろう。
双葉が死んでから、こんな心穏やかな朝は一度もやって来なかった。
「双葉……」
隣で俺の躰をすっぽりと包み込むように眠っている男の手を見つめると、何か違うと違和感を感じた。
これ……双葉じゃない!
(だっ誰だよ)
驚いたことに見ず知らずの男の横で、俺は真っ裸のまま眠っていた。
思わず悲鳴を上げそうになり、慌てて自分の手で口を塞いだ。
とっ……とにかくこの男が起きる前に消えよう!
俺は馬鹿だ。
あんなに守っていたのに、双葉じゃない誰かと寝てしまうなんて……
何でだよ。
あれは確かに双葉だったのに……
俺が見間違えるはずないのに。
声も顔も全部……俺が好きだった双葉のものだった。
だから抱かれたのに。
****
悔しくて恥ずかしくて浮かぶ涙は、すべて潮風に吸い取ってもらった。
あの晩のことが夢だったらいいと願いながらも、考えれば考えるほど不思議な気持ちになっていた。
もしかしたら……あの日あの見ず知らずの男性の身体を双葉が借りて、俺を抱いたんじゃないか。
そんな非現実的な不思議なことなんて……あるはずないよな。
でもどうしてもあの時俺の躰の奥まで入ってきた熱い欲望は、双葉だったとしか思えない。
じゃあ一体誰だったのか。
無我夢中で逃げたので、何処に自分がいたのかも分からない。
男の顔だって、もっとよく見てくればよかった。
あーーもう頭がこんがらがる。
「晶くん何ブツブツ言っているの?ほらお客様だよ」
海が見えるガラス張りの自動ドアが開くと、入道雲を背負った背の高い青年が入ってきた。
逆光で最初は顔がよく見えなかったが、目が慣れて来て驚愕した。
俺は持っていたボールペンをまたしてもポロっと落としてしまった。
あの青年は……俺をあの日海で助けてくれた人だ。
そして俺をあの晩抱いた人だ。
なんで今の今まで結びつかなかったのか。
なんで彼のこと双葉だと思ったのか。
ところが彼は血相を変えて、俺のことには全く気が付いていないようだった。
ならば……俺も無視した方がいいのか。
でも手が細かく震えて動揺してしまう!
「どっ……どうされました?」
「このスマホをさっき海に落としてしまって。どうにかなりますか」
よくある水没事故だ。
「落としたのは先ほどですね。早く持ち込んでいただけて幸いです。すぐに技術者に見てもらいますので、少々お待ちを」
残念ながらどうやっても電源が入らない状態だったのでリカバリーは無理だと伝えると、彼はがっくりと肩を落とした。
「くそっ、でもこっちのスマホじゃなくてよかった」
そう言いながら彼はポケットからもう一台スマホを取り出した。
二台持ち?でもそっちは随分と古い機種だな。
その時になってようやく落ち着いた青年が、俺の方を見た。そのまま大きく目を見開いた。
「えっ!あっ晶さん?」
はっ?
何で俺の名前を知っているのか。
「君……何故俺の名を?」
「あっオレは双葉の弟です。この携帯は兄さんのものだった」
「なんだって……双葉の……」
理由は簡単で……彼は双葉の実の弟だった。
****
五年前の夏休み。
「兄さんー」
「 葉 じゃないか。なんだよ~こんな所まで」
「ほらっ母さんから着替え預かってきた。一週間分だから重たかったよ」
「おぉ悪いな」
「もう見てくれよ。手が真っ赤だよ」
五歳年上の大学生の兄さんは神奈川の大学に進学しヨット部に所属していた。夏休み中はシーズンということもあり、ずっと海辺の合宿場で過ごしていたので、定期的に洗濯物を運ぶのがオレの役目だった。まだ高校生になったばかりのオレにとって、逞しい兄さんは眩しい憧れの存在だった。
「そうだ!葉にさ、お礼にいいものを見せてやる」
「何?」
兄さんは嬉しそうにスマホの画面を見せてくれた。
「あっ……」
そこには凛とした意志の強い目をした黒髪の男性が、兄さんと一緒に写っていた。残念ながら顔半分が画面からはみ出てしまっていたが、とても綺麗な人だと見惚れてしまった。
へぇ……兄さんの友達かな。
「おいっそんなジッとみるな。晶はオレのモノだ」
「この人……晶っていうの?オレのって、それどういう意味?」
「だからオレの恋人だ」
素朴な疑問を投げかけると、あっけらかんとその男性のことを恋人と言い放つ兄さんに驚いたが、なんだかストンっとはまってしまった。
わかる!だって……彼すごくカッコよくて綺麗だ。
「兄さんの恋人なのか」
「あぁ男だけど、黙っていられないほど好きなんだ。あっでも母さんたちには言うなよ」
「うん分かった。すごく綺麗な人だね」
「そうなんだ。ありがとうな」
「じゃあ……もう帰るよ!」
「まぁせっかく来たんだし、たまには練習見て行けよ。そうだこのスマホ持っていてくれないか。オレは今から海に出るからさ。落としたら晶との写真が消えちゃうのが嫌だしな」
「……うん、分かったよ」
ヨット部の人に呼ばれたので、兄さんはくるっと背を向けて海に向かってスタスタと歩き出した。なんだか名残惜しく感じる背中だった。
すると途中で止まって、俺の方を振り向いてくれた。
「なぁ葉っ、オレにさ……もしも何かあったら晶のこと頼むぞ」
「はっ?何言ってんだよ?」
「だってお前、晶の写真を見て顔赤らめていたからさ。お前になら任せてもいいって思ったんだ」
「ばーか!兄さん、縁起でもないこと言うな!」
それが最期に交わした言葉だった。
オレが預かった兄のスマホは、あの日から解約出来ないでそのままだ。
ずっと持ち歩いて、たまに兄と晶さんの写真を見返していた。
まだ高校生のオレには兄の約束をすぐに守ることは出来なかったが、あの日の兄との約束はいつか叶えるという気持ちで生きてきた。
****
晶さんの仕事が終わるのを待って、一緒に溺れた晶さんを助けた場所にやってきた。
そこで兄との最後の思い出を、ようやく全て伝えることが出来た。
「そっか……あいつ、あの日……そんなことを弟に言ってたのか」
晶さんは海をじっと見つめた。
それから海の上に浮かぶ月を見上げて、ふっと微笑んだ。
「あの日、俺を助けたこと覚えてないのか」
「あの日のことは朝になっても朧気で、しばらく頭も躰も重くて寝込んでしまったので」
実は……今になって徐々にじわじわと思い出してきている。
まるで記憶の封印が解けたかのように。
ずっと憧れだった晶さんをオレがこの腕で裸にして風呂場へ連れて行ったことを……そのあとベッドでした深い行為を。
あの日オレの躰を乗っ取っていたのは、兄さんなのか。
でも兄さんはオレに記憶を返してくれた。
「オレ……晶さんに何かしましたか」
「うっ」
晶さんは真っ赤になって俯いてしまった。
へぇ……項まで真っ赤になった。
意外と可愛いんだな。もしかしてツンデレなのか。
「お前さ……良かったよ」
ところが油断していたら破壊的な言葉を突然返され、鼻血が出そうになった。
「あの日俺を肉体的に抱いたのは君で、心で抱いたのが双葉なのか。もうよく分からないが、俺には一つだけ言えることがある」
「なんですか」
「もう双葉との恋は海に沈める」
「えっ……海に沈めるって?」
「君のおかげで、いろいろ吹っ切れたみたいだ」
「じゃあオレはもう不要ですか。これからどうしたら?」
年上で凛としている晶さんに、甘えるように聞いてしまった。
「……今から俺を好きになれよ。俺はどうやら……君のことが好きみたいだ」
これは……兄さんが結び付けてくれたのか。
兄さんの心の声が響く。
……
葉の身体を勝手に借りてごめんな。もう悔いはない。後はお前に任せたぞ。晶のこと沢山笑わせてやってくれ。幸せにしてやってくれ。頼んだぞ。
本当を言うとオレの魂はずっと海の底で、晶を待っていた。
あの日……突然晶のスマホが気泡を浮かべながら沈んで来た。
真っ暗な海に白く浮かびあがったのは、あの日撮ったふたりの写真の画面だった。
すぐに晶がオレの所に来ようとしているのを察した。
そこにたまたま通りかかったのがお前だった。
晶を生かしたい一心で願った。
『死ぬのはオレだけで十分だ!やめてくれ!』と。
気が付くとお前の肉体に入り込んでいたわけさ。
オレは……もう逝くよ。
あの時の写真を持って、次の世に──
晶……ごめんな。そしてありがとう。
オレたちの恋は海に沈めるから、お前は生きろ!
……
「晶さん、オレと付き合ってください。それからもう一度抱いても?」
「あっ……やっぱり覚えているんだな。俺を抱いたこと」
「実は……思い出しました。でも今度はオレだけの躰と心で晶さんを愛したい」
「いいよ。俺も君に抱かれたい……」
「オレは兄の身代わりは嫌ですよ」
「あぁ双葉との恋はもう海に沈める。だから君と新しい恋を始めたい」
双葉……ごめんな。
そして俺のことを深く愛してくれてありがとう。
最期に逢いに来てくれて俺のことを初めて抱いてくれて、嬉しかった。
俺は……これからも生きていく。
だからこの世では……もう、さよならだ。
『海に沈める恋』 了
※志生帆 海です。最後まで読んでくださってありがとうございます。
夏の海辺を舞台に、切なく悲しい……でも希望も溢れる物語を目指しました。同じ海を舞台にした『海に浮かぶ恋』は、こちらと一部リンクしていますので、アンソロ内を探していただけたら嬉しいです。(もちろん単独で読めます)
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