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第7話

 犬塚が学校に来なかった。登校してすぐに連絡を入れたが返信はない。  俺は空いている前の席を見ながら授業を受けた。  1時間目の授業がやっと終わり、これがあと5コマも続くと考えると下校までの時間がとても長く、とてもじゃないが耐えられない。  犬塚がいないだけで、当たり前のことが当たり前でなくなっていた。  チャイムとともに、2時間目の授業がやっと終わる。俺はクラスを立ち去ろうとする現代文の先生に話しかけた。 「先生、すみません。ちょっと具合が悪くて……」 「大丈夫か? 黒崎」  現代文の先生は俺たち2年の学年主任様だ。この学年のことをよく知っている。 「朝からあまり気分が良くなくて……頑張って来てみたんですけど」 「あまり無理するな。どうする? 早退するか?」 「すみません、そうさせてもらいます」  俺は先生に申し訳なさそうな顔を作ってみせる。 「じゃあ、担任の山田先生には伝えておくから」 「ありがとうございます、先生」  そう言って帰り支度を始める。こういうとき、先生からの信頼があると楽だ。  心の中で『バーカ』と罵りながら、俺は学校をあとにした。  家に帰りついた頃はまだ正午になる少し前くらいだった。  制服を脱いで部屋着に着替えると、タバコを吸うためにベランダへ出た。もう10月も後半だというのに、真昼のベランダは日差しが当たり暑かった。  タバコを口に咥え、吸い込みながら先端に火を点ける。  煙を吐き出すと同時にため息をついた。  犬塚なんて、ほんの数週間前まではただのクラスメイトのひとりに過ぎなかったはずだ。  ほとんど話したこともない、どうでもいい、クラスメイトのひとりだ。  ここ数週間、当たり前のようにふたりで会っていたのが異常だったのだ。  そう、俺と犬塚の関係は、ただのセフレだ。犬塚にとっても、俺はきっと数いるセフレの中のひとりだろう。  なのに俺だけ、犬塚の姿が見えないだけでとても寂しいと感じてしまうのは、なぜだろう。  吸い終えたタバコを空き缶に落とし込み、もう一本口に咥えて火を点ける。チリチリと燃える先端からゆっくりと上る煙を見ながら、深く吸い込んだ。  吸い込んだら、吐き出さなければいけない。でも俺は、吸い込んだ煙を吐き出せなかった。  斜め向かいの高い垣根の家。犬塚のセフレの家。その二階。  もう、見慣れた犬塚の、蕩けた顔が見えた。  気管に煙が入り込みむせる。  今日はあいつのところにいるのか。とは思えなかった。  ついこの前、その顔は俺の下で見せていたのに。口を半開きにして、快楽を貪る犬塚の顔に腹が立つ。  なのに、俺以外の男に犯される犬塚から目が離せない。  じっと見ていると、窓ガラス越しに犬塚と目が合った。その瞬間の犬塚は自分を犯す男ではなく、明らかに俺に意識を向けていた。  いかにも、驚いてますといった表情だ。でも犬塚はすぐに、相手の男とのセックスを楽しみはじめている。まるで俺に見せつけるように。  窓ガラス越しに、何度も犬塚と視線が合う。その度に、焼けるような痛みを感じた。  近所の公園のベンチに座り、俺は犬塚を待ち伏せた。彼方駅へ向かうときには、必ずこの公園の前を通るからだ。  何時間も待った。夕方はとっくに過ぎて、夜になっていた。昼間の服装は肌寒い。  静かな通りに足音が聞こえた。スマホから顔を上げると、犬塚が歩いてこちらへ来ていた。  俺は慌てて公園を飛び出して犬塚の前に出る。犬塚は一瞬驚いた顔をしたけど、いつもの口元だけの笑顔を浮かべた。 「なんでお前、今日学校来なかったんだよ。あの家に住んでるセフレとヤるためかよ」 「まあ、そんなとこだけど……なんで?」 「え?」 「俺のこと、なにも知らないくせに。それに、黒崎とは、ただのセフレじゃん? しかもつい最近、そうなった」  ずい、と犬塚に詰め寄られる。犬塚の顔が近付き唇が触れる。 「今、俺が黒崎とキスしたみたいに、別に俺が誰とナニをシようが、黒崎には関係ないよな?」  確かに、そうだ。恋人のようにデートをしたり、セックスして過ごしていたから錯覚していた。  たとえ俺が犬塚のことが好きでも、俺はこいつの恋人でもなんでもない。 「なんだよ、それ」  それでも、納得できない。 「なんだよって、事実だろ?」  犬塚の言葉が突き刺さる。言葉を発しようとすると、喉の奥がヒリつくように痛い。  犬塚が困ったように笑いながら言った。 「じゃあ、またな。今日はもうケツ限界だから……今度予定が合えば黒崎の相手、してやるよ」  俺に背を向けて犬塚が駅へと歩き出す。  とっさに犬塚の手首を掴む。犬塚を帰したくなかった。犬塚が振り返り俺の顔を見るが、俺は犬塚の顔を見ることができず、そのまま手を離すしかなかった。  犬塚は進行方向を向いたまま俺に手を振った。  俺はついに何も言えなかった。  家に帰り着いてインスタントコーヒーを入れる。ガラスコップに濃いめに入れて、氷を入れて冷たくする。  氷を入れた後に、砂糖を入れ忘れたことに気が付いた。 「クソッ」  冷たいコーヒーにスティックシュガーをざらざらと入れる。  スプーンでかき混ぜて一気に飲み干す。苦味のあとに、とけ残りのグラニュー糖が口の中にへばりつく。  これだ。犬塚との関係は、まるで口の中にざらざらとグラニュー糖をぶち込まれたような、不快なのに、甘い。  まるで間違ってアイスコーヒーにグラニュー糖を入れてしまった時のような、苦いのに最後だけざらついた甘さが口に広がる、不快な気分のそれだ。  これは嫉妬だ。見知らぬ男への。  そして犬塚は、学校に来なくなった。

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