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第8話

 犬塚と顔を会わせないまま、2学期も後半を迎えた。  この季節の教室の中は、冬の制服の色と乾いた空気の冷たさで暗い。  そういえば犬塚は1学期も急に来なくなることがあった事を思い出しながら、同じ毎日を繰り返し過ごしていた。  そうして2学期の学校行事が全て終わったころ、犬塚が学校に顔を出した。  久しぶりに学校に登校してきた犬塚の顔は、殴られた痕があった。口元の赤黒く腫れた痕が痛々しい。  そんな犬塚を見ながらクラスメイトがヒソヒソと話をしている。  ひそひそ話は本人たちが思っているよりも人の耳に入る。俺は犬塚のスマホへ『今日、遥駅のゲーセン行かね?』とだけメッセージを送った。  6限目の授業が終わったあとは、ショートホームルームだ。それが終われば学校からは解放される。  犬塚からのメッセージの返信はまだなかった。  ショートホームルームが終わった教室は、ガヤガヤとうるさい。  そんなうんざりする教室から抜け出すため席から立ち上がると、犬塚もほぼ同時に立ち上がった。 「遥駅、行くんだろ」 「メッセージ、返信しろっつーの」 「この距離なら口で言えよ」  俺と犬塚が話をしていることに驚いたクラスメイトたちがこちらを見ている。犬塚が俺の腕を引いて静かになった教室を出た。  電車を降りて目的地のゲーセンへ。いつものように、ひたすら格ゲーとUFOキャッチャーをする。それに飽きたら駅前の喫茶店へ行くいつものコース。20時を過ぎたころ、喫茶店を後にする。 「この前は、ごめん」  駅へ向かう途中、俺はずっと言おうと思っていた言葉を、別れ際になってやっと口にした。 「何が?」 「俺、身勝手なこと言った。でも俺さ、犬塚のこと……本当に好きなんだよ。大事にしたいって思ってる」  犬塚は俺の言葉を聞いて笑った。 「黒崎さ、今幸せ?」 「なんだそれ、新手の宗教か?」 「違ぇし。なんて言うか……楽しい?」 「楽しくない、けど、犬塚と話したりするようになってからは、かなり楽しかった」  そう答えると、犬塚はくしゃりとした顔で笑った。 「あのさ、黒崎。俺も」 「遼太クンみっけー!」  犬塚の声を遮るように大きな声が響いた。  遼太、は犬塚の下の名前だった。いかにもチンピラといったジャージを着た男と黒いスーツを着た男がこちらへ近付いてくる。 「学校まで行って、探したんだよ? 遼太クンがどーしても、学校行きたいって言うから行かせてやったのに」  ジャージの男が犬塚に近付き言った。  犬塚を見ると、真っ青な顔で下を向いている。  スーツの男は俺のとなりに立つと、ジロジロと俺のことを見てくる。 「きみ、遼太くんと同じ制服だね。クラスメイト?」  俺がなにも言えずにいると、学生服の胸ポケットからほんの少し頭が出ていた生徒手帳を引き抜かれた。 「黒崎……輝。へぇ、これでヒカルって読むの、最近の子の名前は小難しい漢字を使うねぇ。まぁ、まだ読みやすい方か。もっとすげえ名前のガキなんてゴロゴロいるからなぁ」  スーツの男が俺の生徒手帳を自分の着ているスーツの内ポケットに仕舞う。 「で? 輝くんは遼太くんのただのクラスメイト? それとも遼太くんが勝手に取ってるオキャクサン? いくらでヤらせてもらってんの?」 「いくら……って」  勝手に、というワードが妙に引っかかり、なんと言っていいのか分からなかった。 「おい遼太クン、まさかタダって訳じゃないよなぁ? あぁ?!」  ジャージの男が横のコンクリート壁を蹴り上げる。 「おい止せ。なあ、遼太くん。あんまり言うこときかねえと……またあのプレイさせるぞ? どーする、ん?」 「や、だ……」  絞り出すような犬塚の声は普通じゃなかった。 「犬塚!」  俺はとっさに、犬塚の腕を掴んで走った。  怒鳴り声を背中に浴びながら、俺は犬塚を引っ張りながら必死で走る。  無茶苦茶な道を通り、人通りの多い大きな道へ出た。振り返るとあのふたりは追いかけてきていなかった。  息を整えるように少しスピードを落として歩く。 「なあ、あいつらなんだよ……お前のセフレなのか? つか、本当にセフレか? いくらでって、何なんだよ」 「俺だって、好きでこんなことしてんじゃねえよ!」  犬塚の目には涙が浮かんでいた。 「いや……忘れろ、今の」 「犬塚、俺にさ……お前のこと教えてくれよ」 「なあ、黒埼。世の中には知らない方が幸せなことって、たくさんあるんだぜ?」  下を向いた犬塚が瞬きをしたらしく、ぽたぽたと小さな水痕がコンクリートの色を変えた。 「もったいぶんな、教えろよ」  犬塚は深呼吸をすると顔を上げる。目が赤くなっていた。 「おまえんちの近所のあの家な、ヤクザの三次団体の事務所。で、借金で首回らなくなった親に預けられたガキが、あそこでウリをさせられてる」 「は?」 「黒崎が俺を見た日、あの日で俺は全額返済したはずだった。でもまた、新しい借金ができてて、でも俺、もう高校生だから、金になんねぇって。だからそういうビデオで、稼げって……」  さっきの二人組は確かにいかにもそっち側の人に見えたけど、そんなことが実際にあるのだろうか。  心臓が痛いくらいにドクドクと音を立てている。 「やっぱり黒崎とは、セフレくらいがちょうどいいんだよ。たまに会って、セックスしてさ。だからさ、俺のことなんか、好きになるなよ」  ズッ、っと犬塚が鼻を啜る音が聞こえた。 「なあ、犬塚。泣くなよ」 「泣いてなんか、ねえよ」  そう言った犬塚の声は震えていた。俺は、犬塚を守ってやりたい。 「じゃあ、ふたりで逃げようや」 「はあ? 何言ってんだよ……話、聞いてたろ? あいつらヤクザで、逃げるなんて、絶対無理だ」 「逃げよう」 「無理なんだよ! 昔も、逃げようとしたけど、無理だった……」 「逃げるんだ! 一緒に!」  犬塚の肩を掴んで揺さぶる。 「うん……」  犬塚の返事を聞いた俺は近くのコンビニATMで金を降ろす。  近くの駅から数駅先の大きな駅で降りて、制服だと目立ってしまうからと安い洋服屋へ向った。  とりあえず、服と学校の鞄の入る大きなディーバッグを買い、それを駅のトイレで着替えて、俺と犬塚は切符を買い駅のホームで目的の電車を待つ。  考えなしの、突発的な行動。どこまで行けば逃げきることができるのか。もうどうすることが正解なのか全くわからない。  それでも、行けるところまで行けば、きっと逃げ切れるはずだ。  俺と犬塚は到着した電車に、希望を持って乗り込んだ。

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