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第29話

「放せっ、この野郎!」  男は、必死に縋り付くアンジュの胴体に腕を回し、持ち上げる。 「やめろっ! トレイター!」  叫ぶアンバーの声よりも早く、身体が宙を舞い、次の瞬間には床に叩きつけられた。 「アンジュ!」  駆け寄ってくるアンバーを、アンジュは力なく手を上げて止める。 「大丈夫。オレは大丈夫だから……早く……」  ────逃げてくれ。  頭を打ったのか、意識が朦朧とする。霞がかる視界の中で、美しい漆黒の狼が、そのしなやかな後ろ足で床を蹴り、高く跳躍した。 「……アン……バー」  アンジュを投げ飛ばした反動で、男はベッドのスプリングに足を取られ、バランスを崩しかけている。  その隙をつき、白い毛皮の大きな狼に、ひとまわり以上も身体の小さな黒い狼が飛びついていく。  長い口吻をがばりと開き、その鋭い牙で白い狼の肩を襲う。  アンバーも、男も、完全に野生の狼の姿に変化していた。  首回りのふかふかした毛並みの下で隠れている硬い筋肉に、アンバーの牙が刺さり、お互いの動きがピタリと止まる。  狼の白い毛皮が、じわじわと鮮血に染まっていく。 「グルルルル……」  二匹の狼の唸り声が部屋に響いている。  アンジュは壁際で倒れ込んだまま、動けずにいた。  息苦しいほどの緊迫感が、この空間を支配している。  黒い狼は、放すまいと噛み付く牙に力を入れ、白い狼は、逃げる隙を痛みに耐えながら静かに窺っている。  少しでも動いたら、この張り詰めた空気の均衡が崩れ、よくない結末が訪れる。そんな気がして怖い。  だけど、そんな状態は長くは続かなかった。  体格差を利用して、白い狼はその体を大きく左右に揺さぶった。  二匹の狼の爪でシーツは裂け、枕に詰めてあった羽毛が部屋中に散る。  踏ん張るアンバーの足が、徐々に力に負けていくのが、離れた場所からでも分かった。  体格差では敵わない。アンバーは堪らず白い狼を解放し、後ろの床に飛び退いて距離をとる。  すかさず白い狼が、その後を追い、襲いかかっていく。  二匹の狼が狭い部屋の中で、お互いの体に噛みつき合っては、また距離をとる。  椅子やテーブルが倒れ、床には狼の爪跡が残る。  お互いが荒い息を吐き、疲れが見えてくる。それでも終わらない、譲れない。  このままでは、体格差でアンバーの方がどんどん不利になる。  アンジュは、ベッドの方へ視線を巡らせた。  無惨に裂け、乱れたシーツの波の狭間に、男が持っていた、あの拳銃の金属がチラリと見えている。

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