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第30話

 アンバーが喉元を狙うと、トレイターはわざと噛み付かせ、懐に誘い込み、無防備な頸に噛みつこうとする。  アンバーは、それを俊敏に躱し、トレイターの背後へ回り込む。  立ち位置は激しく入れ替わり、また縺れるように噛み合う。  アンジュは、白い狼がこちらに背を向けた時にだけ、気付かれないように床を這い、ベッドに近づいて行った。  この部屋に引き篭もり、二夜を越えて本能のまま愛し合った身体は相変わらず重く気怠い。  加えて、先ほど男に投げ飛ばされ、床に強く打ち付けられたせいか、動くと全身に痛みが走る。  それでも──もし、アンバーが……。  ──『それなら、やられる前に、こっちからやればいい』  男の低い声が、頭のなかで繰り返し聞こえる。  あれは、本気の声だった。  ティカアニ家への恨みや憎しみが、今は全部アンバーに向けられている。  もしもアンバーに何かあったら……そう考えるだけで、身体が引き裂かれ、心臓が砕け、自分の存在も消えてしまう。  ただ逢えなくなるだけじゃなく、この世のどこにもアンバーがいない。そんな世界では、今のアンジュは生きる意味を持てない。  運命の相手に巡り会い、失うことのどうしようもない切なさを知ってしまったのだ。  ベッドによじ登り、手を伸ばしながら目標めがけてシーツにダイブする。  身体の重みも痛みも、この瞬間に忘れてしまう。 「────動くな!」  アンジュの声が、狭い部屋の空間を切り裂くように響き渡る。  その華奢な身体にそぐわない低く大きな声に、二匹の狼は、はっと動きを止めた。  アンジュは拳銃を構えたままベッドを降り、ゆっくりと歩を進めた。 「おい、それ玩具じゃないんだぞ」  トレイターは、僅かに後退りながらアンジュを見上げた。 「知ってるよ」  白い狼をじりじりと部屋の隅に追い詰めて、銃口を向けながらスライドを後へ引いた。 「ふん、お前にそれが撃てるのか? 殺せるのか?」 「……撃てるよ」  男は、見下したような言葉を吐きながらも、本心は恐怖を感じているようで、その姿は徐々にヒトの姿へと戻っていく。  アンジュは男の目の前に立ち、銃を両手でしっかりとグリップして安全装置を外すと、トリガーに指をのせる。  ダウンタウンを中心に犯罪の多いイーストシストでは、護身の為の銃の扱い方は子供の頃から教えられる。  でも実際に初めて本物を手にしてみると、思っていた以上にずっしりと重い。それはきっと物理的な重さだけじゃないと、アンジュは感じていた。これで人ひとり殺せるのだ。  ────だけど、この男は殺さなくてはだめだ。  頭ではそう思う。それなのに、構えた腕はガタガタと震えていた。

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