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第32話
アンバーの言葉に、その男はゆっくりと顔を上げて、
「先ほどは、みごとに撒かれてしまいましたが、アーロン様がここに戻られる事は予想できましたし……」
と、口元をふっと緩め、柔らかな声で応えた。
それだけで生真面目そうな印象が、優しく人当たりの良い表情に変化する。
すらりと背の高い男の赤味がかったブラウンの髪が、高い位置にある太陽に照らされて、きらきらと煌めいている。
この光景を、アンジュはティカアニの家で何度か見たことがある。光に透けるその髪の色が、とても綺麗で印象的だったから覚えていた。
彼は、アンバーの兄、イアン・ティカアニ付きの執事、マシューだ。という事は、やはりイアンの命でアンバーを連れ戻しに来たに違いない。
不安と絶望が一気に押し寄せて、アンジュは床に力なく座り込んでしまった。
そんなアンジュをアンバーは自分の身体の影に隠すように、さりげなく移動する。
トレイターに乱暴され、羽織っただけのシャツは前がはだけ、頬は赤く腫れあがっている。何よりはだけたシャツの隙間から覗く白い肌には、アンバーが付けた痕跡が色濃く残っていた。
そしてアンバーは、警戒するように言い放った。
「僕は帰らないよ、マシュー」
その言葉にマシューが答える前に、トレイターが横から口を挟んでくる。
「はっ? そんな事できるわけないだろう? お坊ちゃんは早くお家に帰んな。そして、Ωのそのガキはマンテーニャに俺が連れて行くんだか……っ、うっ?!」
しかし、トレイターが最後まで言い終わらないうちに、その声が途切れてしまう。
「貴方は少し黙っていてください」
マシューがスーツのポケットから真っ白なハンカチを取り出し、それをトレイターの口の中に押し込んだのだ。
すかさず、マシューの部下が、その上からガムテープでグルグル巻きにする。そして、最後の仕上げに後ろ手に手錠がはめられた。
「ん、んんっーー!」
顔を真っ赤にして怒るトレイターを後目に、マシューはアンジュの前まで歩を進め、跪く。
すっと、その長い指先がアンジュの顎を捕らえ、俯いた顔を上げさせられる。
「酷い事をされましたね。私がもう少し早く戻っていれば……いや、それよりも彼をここに残してアーロン様を追いかけてしまったのが失敗でした。どうかお許しください。まずアーロン様と話をしなければと、そればかりを考えていましたので……」
傷ついた頬に触れ、口元に付いた血を拭いながら気遣ってくれるマシューの言葉に、アンジュは力なく首を横に振る。
──この人が悪いわけじゃない。
それに……、どんなに優しい言葉をかけてくれていても、この人はアンバーを連れ戻しにここに来たのだ。
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