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第36話

 誰よりも強く、優しい兄、イアン。確かにイアンなら、一族の古く悪しき風習を変える事ができるのかもしれない。 「だけど……もしも僕を連れて帰らなかったら、マシュー、お前の立場はどうなるの」  イアンが長を継ぐのは、まだ先の未来の話だ。 「私のことを心配なさってるのですか?」 「……当たり前だ」 「私のことなら大丈夫ですよ。どんなことがあっても、イアン様を信じてついていくだけですから」 「本当に……?」  まだ心配そうな表情を浮かべるアンバーに、マシューは堪え切れず、口元を手で隠しながら、くすっと小さく笑う。 「アーロン様のことを心配して、ここまで来ましたのに、逆に心配されてしまっては、私がイアン様に怒られます。レスター様の命を果たさずに咎められるよりも、その方が辛いです」  失礼しますと言いながら、マシューはアンバーの手を取り、イアンから預かってきた封筒を載せた。 「私達のことよりも、まずはこれからの二人の生活のことを考えてください」  そう言葉をかけると、アンバーの表情が、意を決したようにきりりと引き締まる。 「分かった。このお金は大切に使わせていただく。そして、いつか必ずお返しすると、兄さんに伝えてくれ」  アンバーのその様子に、マシューは安心したようににっこりと微笑みながら、深々と腰を折る。 「As you wish.(仰せのままに)」  そして顔を上げると、マシューはアンジュへと視線を移した。 「これからの事を考えるのも大事ですが、まずはアンジュ様を浴室に連れていってさしあげないといけませんね」 「……あ」  振り返ると、アンバーの後ろで床に座り込んでいるアンジュは、くしゃくしゃになったシャツの前を合わせ、自分の身体を両腕で抱き込んで、ガタガタと震えていた。  その顔は青白く、トレイターに殴られた頬や魔の周りだけが赤黒く腫れあがっていた。 「アンジュ、大丈夫?」  アンジュの前に跪き、抱きしめるとシャツ越しにでも、身体が冷え切っているのが分かる。 「寒い?」 「うん……でも大丈夫だ……」  熱でも出たのではと思い、額に手をあててみたが、そこも冷たい汗が滲んでいるだけで熱くはない。 「発情期のせいで熱を持っていた身体が、急激に冷えたのでしょう。太陽があっても外はまだ空気が冷たいですし。浴槽に湯を張って身体を温めてあげてください。あ、傷に染みるでしょうから、あまり熱いお湯は駄目ですよ」  そう言いながら、マシューは倒れてしまったテーブルや椅子を元の位置に戻し、ベッドのシーツを綺麗に整えた。  もうすぐ春の季節だというのに、この地方の3月の気候は、まだ真冬のように冷え込む日も多い。昨夜も雪がはらはらと舞っていたようだった。  しかも、アンバー達は北へ向かっているのだ。

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