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第60話
しかし、すぐに思い直す。
──野生の狼が、そんな事をする筈がない。
きっと、自分の獲物を横から取られそうになったからだ。この白い狼はただ単に、自分の縄張りに入ってきた敵を追い払っただけ。
──逃げなくては……。
そう思うけれど、どうやら腰が抜けたようで、立ち上がる事ができない。
動けない若者は、背の高い草の中で身を隠すようにして地面に這いつくばり、息を止めて様子を窺う事くらいしかできなかった。
ガサ……ガサ……と、草の中を進んでくる音が、まるで自分の命が終わるまでのカウントに聞こえる。
「……っ……ふ」
恐怖のあまり歯の根が合わず、堪え切れずに震える声を漏らしてしまう。
若者は自分の口を両手で押さえ、きつく目を瞑った。
単独行動はするなと、あれほど言われていたのに、ほんの少しの好奇心から知らない場所に足を踏み入れ、迷ってしまった。
自分の浅はかさが情けない。
草を掻き分けるように進んでくる音が、だんだんと大きく聞こえてきて、若者は今度こそ駄目だと観念していた。
どんなに隠れても、野生の狼の勘が気配を察知し、その聴覚で、臭覚で、すぐに見つけられてしまうだろう。
しかし、近づいてきた音は、若者の横を通り過ぎ、離れていく。
────?
不思議に思い、顔を上げると、湖の方へと歩いていく白い狼の後ろ姿が見えた。
まるで、若者のことなど気にも留めていない様子だった。
しかし、ゆったりと歩いていくその先の光景に、若者は思わず驚きの声をあげそうになった。
青白い満月に照らされている湖のほとりには、いつの間にか20頭以上の白い狼が群れをなしていたのだ。
中には、まだ小さな子供もいる。
若者を助けた狼は、その中でも、一際白く美しい獣毛の持ち主だった。
他の狼とは違う、オーラのような輝き。きっと彼はこの群れのリーダーなのだろう。
群れの中に戻った彼は、くるりと若者のいる方向へ向き直り、静かな視線を送ってくる。
もの言いたげな、意味ありげな、だけど若者にはその真意は分からない。
すると彼は、突然夜空に浮かぶ満月を仰ぎ、音楽を奏でるような、独特の長い鳴き声を上げた。
その声に、なぜだか胸を締め付けられる。
少し遅れて、他の狼達も、彼に続いて遠吠えを始めた。
20頭以上の白い狼が、一斉に天を仰いで鳴く姿は、なんだか幻想的で、まるで現実味がなく、ただただ切ない。
若者の目には、いつの間にか涙が滲んでいた。
そうして数分後、遠吠えが止み、狼達は静かに歩きだし、若者の視界から音もなく姿を消した。
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