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第69話
「うわああっ!」
若者は、持っていたナイフを闇雲に振り回しながら、すぐ側の茂みへと飛び込んだ。
足を踏み入れた所が、ぬかるんだ緩い斜面になっていた為に、若者は尻餅をつき、そのまま下まで滑り落ちた。
滑り降りた先で何とか立ち上がるが、どこまでも草木が鬱蒼と生い茂り、月の光も届かない。視界は暗闇に閉ざされて、ゆく手を阻む。
木の枝や植物の棘が、次々と頬や手を引っ掻き、着ている服を破く。
ひどくドロドロとした土に何度も足を取られて転んでも、若者は前へと進んだ。
途中までは、狼が追いかけてくる気配を感じていたのに、枝を折り、草を掻き分け、必死に逃げているうちに、それも分からなくなってしまった。
まだその辺にいるかもしれないし、いないかもしれない。
諦めて引き返してくれ。
ただただ、そう願うだけだった。
*
どれくらい歩いただろう。
いつの間にか、辺りの草木が薄く見えてきて、白々と夜が明けていく。
若者は、草や木の枝を掻き分けながら、少しでも明るい方へと光を求めて重い足を進めた。
草や木の隙間の向こうから、柔らかく朝日が射し込んでくる。
──きっと、森の出口だ。
その光を見た途端、一晩中恐怖に苛まれた身体が軽くなり、疲れなどどこかに吹き飛んだ。
木の枝や植物の棘が、身体を傷つけるのも構わずに、若者は光を目指して走り出した。
「あ……」
茂みを抜けた途端、目の前に広がったのは、美しいライトブルーに染まる花畑だった。
「……ここは……ネモフィラの丘……?」
そこは、まだ森の中だった。
まだここは、森の奥深い所だ。
でも、若者はここに来た事がある。
遠い昔、まだ幼い頃、猟師だった父に連れてきてもらった事がある、美しい花畑。
春になる頃に、一面が青い花の絨毯に覆われる丘。
「……俺は……助かったのか……」
狼が追ってくる気配は、全然感じない。
そう言えば、ずっと聞こえていた遠吠えも、茂みの中を逃げている間に、いつの間にか聞こえなくなっていた。
「……助かったんだ……」
若者は、よろよろと数歩だけ歩いて、花の中に倒れ込んだ。
まだ森を抜けたわけではないが、知っている場所に出る事ができた安心感に、急激に睡魔が襲ってくる。
もう一歩も動けない。
でも……。
「もう……大丈夫」
そう呟いて、若者はゆっくりと瞼を閉じた。
**
そして、次に目が覚めた時には、若者は街の診療所のベッドの上にいた。
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