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第2話

「佐和紀、佐和紀」  部屋を隔てた廊下の方から呼びかける女の声が響き、素早く反応した三井が飛び上がる。 「こちらにいらっしゃいます!」  シャツを引き寄せて羽織り、ささっと正座した。佐和紀にはタオルを差し出してくる。 「ここにいたのね。暑くないの?」  肌を拭きながら肩越しに振り返ると、涼しげなワンピース姿の京子(きょうこ)が立っていた。 「バケツの水で涼んでいたので」 「あら、そう。三井も大変ねぇ」  同情の視線を向けられた三井は、借りてきた猫のようにおとなしくなり、首を左右に振った。  京子は、大滝組若頭・岡崎(おかざき)の妻で組長の娘だ。岡崎は周平の兄貴分に当たり、元々は佐和紀と同じこおろぎ組にいた。だから、大滝組の跡目争いを回避しようと周平が考え出した茶番劇のため、男同士の縁談を佐和紀に持ち込んできたのだ。それがいつの間にか『嘘から出た真』になってしまい、佐和紀は名実ともに周平の嫁として暮らしている。  要するに、お互いに惚れたのだ。それだけのことだった。 「着物が仕立て上がったから合わせましょう。三井はお役御免よ。涼しい部屋で休んでなさい」  京子に誘われた佐和紀は、三井を残して離れを出る。母屋の裏側に位置する廊下を通って、反対側に建てられた離れに向かった。 「予定より早くて助かったわ。合わせてみて問題があれば、直しに出さなくちゃいけないもの。まぁ、あの呉服屋に限って、差し戻しのあるような仕事はしないでしょうけどね」  縁側から家の中へ入ると、物音に気づいた部屋住みの舎弟が出てくる。『部屋住み』は見習い期間中の準構成員のことだ。高校を卒業したばかりだろう少年が頭をさげた。 「呼ぶまで来なくていいわよ」  年若い舎弟に向けた京子の声は柔らかい。佐和紀は少年の前を通り、和室へ入る京子の背中を追った。床の間の前に置かれた横長の箱の中に、たとう紙が二つ重なっている。  下の長い方が着物で、上の短い方が帯だ。 「肌着も用意してあるから、まずこれを着てくれる? 一通り、私が着付けるわ」  襟ぐりの広いシャツと麻のステテコを渡される。 「部屋、出た方がいい?」  京子がからかうように笑う。 「いえ、大丈夫です」 「キスマークとか、あるんじゃないの?」  返された言葉に赤面してしまい、佐和紀は慌てて背中を向ける。  姉嫁として面倒を見てくれている京子に、佐和紀はなんでも相談してきた。そこには周平との夫婦生活のあれこれも含まれているから、バツが悪い。 「相変わらず、そんなに回数はないですから」  京子に背中を向けたまま、佐和紀は素肌の上にまとっていた浴衣を脱ぐ。肌着に着替えた。一時期ほどセックスレスだと感じないのは、求めれば与えられる安心感があるからだ。 「そうなの? 新婚なんだから、子作りしないとダメよ」 「本当に妊娠したらどうするんですか」 「周平さんはさせそうで怖いわね」  京子が真面目な声で言いながら、たとう紙を開く。  相変わらず、周平はなかなか挿入しようとしない。しかし、この二ヶ月、何度か全身筋肉痛を味わった佐和紀にも、周平の慎重さの意味が理解できるようになってきた。誰にも触られたことのない、自分でも触ったことのない場所を、硬いモノでこすられ突き上げられる快感は、強ければ強いほど翌日の疲労がとんでもないことになる。  絶倫な上に巨根でテクニシャンな男の欲望任せにしていると間違いなく壊されてしまう。もしくは、作り変えられてしまう。それは、もう、何もかもをだ。 「見て、佐和ちゃん。どう?」  着物を取り出した京子の声で我に返った。新しい夏の着物を覗き込む。  七月に京都へ行くことが決まったのは、ちょうど一ヶ月前。夏物も困らない程度に作って嫁にきたが、さすがに女物の訪問着は用意していない。京都では女装をしなければならないのだ。 「向こうでは知り合いに支度を頼んであるわ。若い女の子だけど、大丈夫?」 「女嫌いじゃないですよ」  佐和紀は思わず苦笑してしまう。 「そうなの?」 「ホステスしてた頃は、よく関わってましたし」  繊細な生地の着物にそっと触れながら言うと、 「ホステス……」  低い声でつぶやいた京子に見つめられる。 「言い、ませんでした……?」  佐和紀はおそるおそる口を開いた。こおろぎ組に入る前や、入ってからも、食い詰めたときには腰かけホステスをして日銭を稼いだ。もちろん、和服での女装だ。胸を強調する必要がないからか、男だとバレたことは一度もない。それもあって、女装してくれと周平に言われても、決定事項ならしかたがないと戸惑いも感じなかった。 「だから平気な顔してるのね……。心配してたのよ。周平さんが、無理を押しつけたんじゃないかって。……あんたって、本当に苦労したのね」 「周平のせいじゃないし、いいんです。化粧も着付けも一通りできるんですけど、人にお願いできれば助かります。恥ずかしくないように化けたいので」 「えぇ、もちろんよ。とびきりの美人にしてもらうわ」  京子は強い口調で言った。  今回の京都行きは、周平の仕事だ。『男の嫁』の噂を聞きつけた、桜河(おうが)会会長の桜川(さくらがわ)が、是非にもお披露目をして欲しいと言い出したことが発端だった。  京都の桜河会の名前ぐらいは、佐和紀も知っている。  舎弟の岡村慎一郎から詳しく聞いた話だと、関西最大手の高山(たかやま)組の情報を得るために、周平が繋ぎを作っているらしい。以前から関西勢が名古屋あたりを一飛びにして、関東への進出を狙っているという話は有名だ。大都会の東京を抱える関東地方は、シノギを得るにも狩場が広い。関東で多くの配下を従えている大滝組にとっても、関西の動きを掴んでいることは重要だろう。 桜河会のトップから直々に、しかも大滝組長へ対して周平と佐和紀の招待が打診されたとなれば、断れるはずがない。周平が後継者争いから降りたことを関西方面に知らしめるためにも絶好の機会だ。 「でも、どうして女装しなきゃならないんですかね」  佐和紀は素朴な疑問を漏らした。『男の嫁』をもらったのだから、男の格好で挨拶しても問題はないはずだ。周平にも尋ねてみたが、のらりくらりとかわされた。しかたがなく、将棋の相手をするついでに大滝組長へも聞いてみたが、自分が『女も負ける美人』だと騒いだせいだろうと笑っていて、やっぱり結果的にはかわされた気がする。  小さなため息をついた京子がその場に座り直し、佐和紀もつられて正座で向かい合った。 「桜河会の会長の後妻が言い出したことだと思うわ。地味な嫌がらせよ」 「後妻さんが嫌がらせするんですか? 誰に」 「周平さんによ。……周平さんは黙っていて欲しいでしょうけど、私は知っておくべきだと思う。周平さんから直接じゃなくて、人づてにね。本人は都合のいい嘘をつくから」  佐和紀はまばたきを繰り返して、目の前の姉御分を見つめた。 「後妻と周平さんの過去に曰くがあるの。それを知られたくないのよ。あの女はね、本物の女狐よ。だから、気を抜くんじゃないわよ」  手のひらで、頬を軽く叩かれた。 「要するに、昔の女ってことですよね」  自分の表情が曇るのを隠せない。  どうでもいい、気にしないと思ってみても、周平の過去に心はすぐに乱れてしまう。  今必要とされているのが自分だとわかっていても、特定の誰か一人を、生まれて初めて求めている佐和紀の心は落ち着かなくなる。浮気されることも許せない上に、過去にまで嫉妬してしまいそうになるのは、恋がどういうものか知らないせいだ。周平が自分に恋をしているのかも自信がないし、自分の気持ちが本当に恋なのかも、よくわからない。 「周平さんがこの世界に入るきっかけを作った女よ。私もそれ以上は知らないわ」  京子は静かに目を伏せた。嘘だと悟ったが、佐和紀はもう聞かなかった。必要なら教えてくれるだろう。京子が聞かずにいた方がいいと思っているなら、従うだけだ。 「二人の仲が復活することだけはないから心配いらないわ。……どうしたの、不安そうな顔して」  京子が微笑みながら顔を覗き込んでくる。佐和紀はうつむいて頭を左右に振った。 「一緒に行ってあげたいけど。岩下の妻としての佐和ちゃんの仕事だからね。頑張ってくるのよ」 「自信、ないですよ」  思わずこぼれるつぶやきを、京子は笑い飛ばした。両手でゆっくりと肩をさすられる。 「会長さんを殴らなければ上出来よ」 「さすがにしませんよ。そんなこと」 「じゃあ、心配ないわよ。佐和ちゃんは学がないって謙遜するけど、世の中を渡っていくことにそれほど関係はないわ。言葉遣いもしっかりしているし、身のこなしもずいぶんとよくなったわ」  言葉遣いに関しては、こおろぎ組で仕込まれたおかげだ。普段はどれほど汚い言葉を使っていても、大勝負を打つときのためには必要だと、松浦組長とその妻は口を酸っぱくして言い続けた。 「本当に頭がいいっていうのはね、学校の勉強ができるってことじゃないのよ。……さぁ、試着しましょう」  襦袢を広げた京子が立ち上がる。 「周平さんが一緒なんだから、心配しないでついていきなさい」  力強く背中を押す言葉をかけられ、佐和紀は知らず知らずのうちに左手の薬指を確かめた。周平が贈ってくれた、2カラットの大きなダイヤモンドがついている。 それは二人の『これから先』の約束だ。そしてきっと、過去と未来の区切りでもある。一人で必死に踏ん張ってきた佐和紀はもうどこにもいなかった。冬が春になり、春が過ぎて夏が来る。その季節の流れのままに、佐和紀もまた新しい環境に変えられ始めていた。  優しい京子がいて、周りを囲む舎弟たちがいて、茶化しながらも見守ってくれる岡崎がいる。そして、そのすべてを与えてくれたのが周平だ。  初めて手にした温かく平穏な日々は、あの男がいなければ成立しない。輝く石から視線をはずし、佐和紀は毅然と顔をあげた。

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