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第3話

 書類をめくる手を止めて、周平は首をゆっくりと左右に動かした。事務仕事は肩が凝る。 「シン、この数字はおかしい。もう一度、洗い直せ。ここがこんなシケたシノギのわけがない」  眼鏡をはずして、書類を目の前の岡村に渡す。目頭を押さえて、大きく息をついた。 「大丈夫ですか。一週間も不在となると、目を通してもらいたいものがありすぎて、すみません」 「おまえの裁量に任せるけどな」  事務所にある応接室のソファーに座った周平は、山のように積まれた書類に手を伸ばす。  紙をめくりながら、周平は不意に思い出した。肩を揺らして笑いながら、顔をあげる。不思議そうにしている岡村と目が合った。 「……佐和紀のコンタクトをどう思う」  京都での会食で女装をするために、佐和紀は三週間ほど前からコンタクトレンズを試すようになった。眼鏡がなくても困らないと本人は言ったが、『揺れる視線』は艶がありすぎて目の毒だ。  でも、コンタクトレンズをはめた佐和紀がどうかと問われると、それもまた問題がある。 「どうって……。それは何か試してるんですか」  真剣な顔で聞いてくるから、周平は息を吐くように笑った。 「おまえも、トラウマだな」  まだ桜が咲いていた頃に勃発した夫婦ゲンカのとばっちりで、佐和紀に関係を迫られた岡村はまだ何かとおかしい。普段は冷静沈着を売りにしている男が、佐和紀の話になると、妙にズレた返答をするのだ。あの気の強い瞳で食い入るように迫られ、それが色っぽさとは無縁の口説きでも、岡村の心は揺れたに違いない。いまだに引きずっているのが、その証拠だ。  だから、祇園祭に合わせた京都行きの世話役は石垣にした。三井を選ばなかったのは、繁華街ではしゃぎすぎるのが目に見えているからだ。これをきっかけに一週間も離れれば、岡村も佐和紀が与えたショックから立ち直るだろう。立ち直ってもらわなければ、本当に困る。 「試すって、何をだよ」  いきなり話を引き戻すと、岡村はぎょっとした表情を向けてきた。 「おまえさぁ、佐和紀とどこまで行った?」 「どこにも行ってませんよ」  間髪いれずに答えが返ってくる。周平は今日もニヤニヤ笑って舎弟を眺めた。 「俺を裏切ってもいいと、思ったんだろ」 「何を言わせたいんですか。何度も言ってますけど、俺は……」  そんな気はありません。と、いつもなら続けるはずが、今日に限ってそこでため息が混じった。 「すみません。自信がありません」 「佐和紀の世話係からはずしてやろうか?」 「……それで、俺にオンナを押しつけてるんですか」  佐和紀と結婚するまで、周平は複数の女と肉体関係を持ってきた。そのほとんどが大滝組と関わりのあるキャバクラや高級クラブの売れっ子だったのは、身体で繋いでおけば引き抜かれることがないし、妙なホストに引っかかることもないからだ。 幹部になってさえ昔の悪癖は抜けなかった。  所詮はストレス発散のセックスで、後ろ髪を引かれるほどの情もない。だから佐和紀に浮気はやめろと言われ、周平はその役目を岡村に押しつけた。沸点に達しやすい佐和紀を怒らせるぐらいなら、岡村が下手を打って売り上げを落とそうがかまわない。また後日、別の商売で補えばいいだけだ。 「好き者ばっかりじゃないですか。しかも何人も……」 「俺が仕込んだんだから、当たり前だろ」 「あぁ、元からじゃないんですね」  岡村が乾いた笑いを浮かべながら納得する。 「だからなんですか。アニキが説得した女が風俗で売れっ子になるのは」 「あっちに行ったら、もう抱かないけどな」  周平はタバコを引き寄せる。すかさず岡村がライターの火を差し出してきた。 「ひどいですね。鬼畜の所業って言うんですよ、そういうのを」 「いまさらだな。おまえもそれぐらいビジネスライクにやってくれよ」 「無理です。今だって身体がきついんですから」 「いい女とセックスできて、文句言うなよ」  周平がタバコをふかして笑うと、岡村は大きく肩を落とした。 「限度があります。アニキの結婚を知って、気が立ってるから手に負えないんですよ」   「いちいちマジメに相手をするな。足元、見られるぞ」  周平はタバコを指に挟み、舎弟に忠告した。 「惚れさせても恋愛気分にはさせるなよ。面倒になったら泡に沈めとけ。裁量に任せる」 「……鬼でしょう」 「いい人でヤクザがやれるか?」 「姐さんは知ってるんですか。そういうところ」  長いため息をついた岡村がハッとする。周平は表情を変えずにもう一度言った。 「おまえさ、本当に佐和紀の世話係やめるか」 「……それは」  やるもやらないも、岡村が決めることではない。 「石垣や三井と違って、おまえは危ないんだよ。岡崎のアニキと同じで、妙に懐の広いところがある。そういうタイプに俺の嫁は弱い」  わざと『俺の嫁』と呼んだ。 「でもまぁ、はずさないよ」  はずせない理由が周平にもある。タバコを吸い込み、白い煙を勢いよく吐き出した。 「佐和紀の中じゃ、おまえら三人が一セットになってるからな。変にはずすと俺がヤバイだろ」  ホッとするでもない岡村は、複雑な表情でうなずく。 「おまえ、重症だな。しばらくは女の世話しとけ」  それでも岡村にとって、佐和紀は特別なままだろう。一度魅入られたら抜け出せないのは、佐和紀に金をせびられていた岡崎や他の幹部を見ていてもわかる。  岡村も一生引きずる可能性が高いが、こればっかりはどうしようもない。頭のいい男だから、自分の中でちょうどいい落としどころを見つけられるはずだ。そのための一週間だ。  そう思いながら、周平は一抹の不安も感じていた。もう一度同じことがあれば、岡村は潔く小指の一本や二本、それどころか手首から先だって差し出しかねない。そういう生真面目な惚れ方をする男だということも知っている。  周平は昔の自分を見ているような気分になり、京都へ足を踏み入れる億劫さを思い出す。  佐和紀を物見高く検分したいのは、男たちではなく、あの悪魔のような女に違いない。何事も起こらなければいいが、それは予測が甘すぎる。あって当然だ。佐和紀を見て、そして佐和紀を眺める周平を見て、あの女が「お二人でお幸せに」なんて言うはずがない。それでも、佐和紀を連れていこうと決めたのは、振り切ったつもりで捨て切れない過去の憎しみと決別したいからだ。  あの女には人生のすべてを狂わされ、そして奪われた。今でも許せないのは、あの女ではなく、騙されるとも知らずのめり込んだ自分自身だ。だから自暴自棄にセックスを繰り返してきた。  自分も女も、ひとつの肉で、感情のない塊だと思いたかったのかもしれない。人を好きになることは一種のまやかしだと信じたかった。人と人とが求め合う理由は、行き着くところ、所有欲から生まれる性的欲求しかない。もしくは孤独な傷を舐めあうだけの自己愛のかりそめの姿だ。  ずっと、そう考えてきた周平に変化を与えたのは、佐和紀だ。  黙っていれば芙蓉の花びらがほころぶように繊細で美しいのに、口を開いて動き回ればハスッパを通り越して、粗雑で乱暴で向こう見ずなチンピラに過ぎない。  二月の雪の降る夜に、曇りのない白無垢で嫁いできた佐和紀を思い出して、周平はタバコを深く吸い込んだ。肌の熱さが脳裏に甦る。それから、皮膚の感覚が呼び起こされた。誰かを抱くのに、自分をセーブするのは久しぶりだ。相手をコントロールするためではなく、相手を傷つけないように、昂ぶる自分をひたすら抑えるなんて今までしたことがない。  欲望のままに抱きたいと思う本能が滾っても、佐和紀には到底受け入れきれないと思い、あきらめた。見栄と強がりの中に隠された繊細さを壊したくなかった。  それは大事にしてやるべきものだ。 「アニキ、どうして笑ってるんですか……」  怯えた顔の岡村に声をかけられ、周平は物思いから現実へと引き戻される。 「おまえさ、岡崎さんと勝負して勝った方が佐和紀を抱けるとしたら、どうする?」 「……だから、やめてください。そういう質問」  やっぱりロクでもないことを考えていたのかと、岡村の顔に書いてある。 「正直、岡崎さんにも負けたくないと思いますけど。でも、姐さんはアニキといるのが一番幸せなんですから、それでいいじゃないですか」  思ってもみない直球が返ってくる。 「おまえがそういう男じゃなければ、安心して京都に連れていけたのにな」  タバコを灰皿で揉み消して周平はため息をついた。 心優しく実直で、百点満点な答えを本気で口にするような男は、ますます佐和紀のそばには置いていられない。今はまだダメだ。 「それより、姐さんが女装する日は、岡崎さんが行方不明になるような気がして……。実はそっちの先手も打つために、対応に追われてるんです」  岡村が眉をひそめる。 「……こわいこと言うなよ」  周平は思わず身震いして、もう一本タバコを手にした。

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