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第8話
俺の左手もだいぶ回復してきた。そろそろサポーターも外れるころだ。
そうしたら野球部に戻れる。
うちの学校は二回戦で敗退したけれど、秋大会では期待できる仕上がりだとコーチが言っていたらしい。その時には是非ともスタメン入りを果たしたい。それには一刻も早く練習に戻ってなまった体を鍛え直したいんだ。
……けれど。自堕落な夏休みに未練がないとは言い切れない。
そんな事じゃ駄目だ、駄目だと思うけれど体はなかなか動かない。
だから、拓斗から山登りに行こうと誘われた時には飛びつくように賛成したのだった。
「で、どこに行くんだよ」
待ち合わせの駅前で、俺は行き先を聞いていなかったことに初めて気づいた。
「うん。星ヶ岳のハイキングコースに行こうかと思って」
「星ヶ岳って……」
そこは拓斗の親父さんが亡くなった山だった。
今はハイキングコースが通じているが、つい最近まではピッケルや命綱をつかわないと上れなかったような急峻な山だ。親父さんは冬山登山の最中に、パーティーの若手の滑落を受け止めたため、自分が落ちる事になってしまったんだ。
それからしばらく拓斗は、山に近づくこともできなくなっていた。
「大丈夫……なのか?」
「うん。そろそろ乗り越えなくちゃいけないことだし、それに、できたら一緒に行って欲しいんだ。僕一人じゃ、途中でくじけちゃうかもしれないから……」
拓斗が寂しそうに笑う。俺は抱きしめてやりたくてたまらなくなる。
「わかった。一緒に行こう」
「うん!」
そうして俺たちは星ヶ岳行きのバスに乗り込んだ。
夏山へのハイキング客は結構いるのかと思ったら、俺たち以外にはいないようだった。
本格的な装備を抱えた男たちのパーティーが一組いる。拓斗はその人たちを見て、真っ青になった。親父さんのことを思い出しているのかもしれない。
「拓斗……」
「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ」
震える声で言う拓斗の手を、俺はぎゅっと握った。
ハイキングコースの入り口は、本格登山の入り口とは全く違うところにあった。パーティーの面々が下りてから、2停留所目が「星ヶ岳公園上り口」と言う名のバス停だ。
バスを降りるとすぐ、ハイキングコースの地図が掲示されていた。見てみると、頂上には星ヶ岳公園と言う名の公園があるらしい。展望台も併設されているとか。俺たちはそこを目指して登っていくことになった。
夏の日照りを道の両脇に生えた広葉樹が影をのばして防いでくれる。山の風は涼しく汗を心地よく乾かしてくれる。
そんななかでも拓斗は気分がすぐれないようで、青い顔のままだ。俺は拓斗の手を取って歩き出した。
登りだすとすぐに野鳥の鳴き声がする。
「なあ、あの鳴き声、オオルリだったっけ?」
拓斗が顔を上げ、耳をすませる。
「ああ、ほんとだ。オオルリだね。なつかしいなあ」
「親父さんが教えてくれたんだよな」
「……うん。そうだったね」
泣きそうな笑顔を拓斗が返す。俺は拓斗の肩をぎゅっと抱いてやった。
しばらくそのまま歩く。
「ありがとう。もう大丈夫だよ」
「そうか」
「でも、手、握っててもいいかな」
「もちろん」
拓斗に無理をしている様子はなかった。ただ静かに思い出と向き合い、それを吸収しようとしているように見えた。
初めは震えていた拓斗の指先も、道を登るにつれてしっかりと俺の手を握り返すようになっていった。
やっぱりこいつも、親父さんと同じ、山が好きな男なんだ。
「僕ね、星ヶ岳大好きだったんだ」
「うん」
「山頂に行くと星がたくさん見えるでしょ? 降ってくるみたいにさ。あれが大好きだったんだ」
「俺もだよ」
「父さんは冬山には連れて行ってくれなかった。お前にはまだ早い、って言って。でも、いろんな話をしてくれた。星の話、山の話、人生の話。そうだ、こんな話を知ってる?」
「なに?」
「山の神様は女の人だっていうでしょ? だから女の人が山に入ったら嫉妬するって。でもね、男性でもかっこいい人は山登りをしちゃいけないんだって。魅いられるからね。だから、父さん『俺が死んだらかっこ良すぎたせいだからな』って言ってたんだ」
「親父さんらしいな」
「うん」
拓斗はぽつりぽつりと山の思い出を語っていく。まるで自分の中の何かと決着をつけているみたいに。山の思い出は、親父さんの思い出そのものだ。それを拓斗は受け入れて、乗り越えようとしている。
「父さんはね、アケビが好きだったんだ。秋になると山に入ってアケビをとってくるの。ある日、自然のアケビだと思ってもいでたら、その山の持ち主にこっぴどく怒られたって」
「父さんと美夜子さんが知り合ったのも登山が縁だったって。山で骨折した父さんが病院で美夜子さんに一目ぼれして、くどいてくどいて粘り勝ちしたって自慢してた」
「僕の名前も、山からなんだ。遭難した時に方角を知るのに星を見るでしょう。北斗七星が道を切り開くように迷った時にも……」
拓斗は急に立ち止まった。振り返ると肩を震わせている。俺は近づいて抱きしめてやる。
「どうして、父さん……。僕、もっと父さんと話しておけばよかった。山登りも教えてもらえばよかった。まだ僕は冬山登山を教わってない。命綱の結び方も教わってない。もっと、もっと……」
拓斗の声は鼻声になっていき、涙に飲まれた。
近くのあずま屋で休憩した。拓斗はぐすぐすとしゃくりあげているが、もう泣きやみそうだった。俺は拓斗の肩を抱いて、なにも言葉をかけてやれない自分が悲しかった。俺こそ、なんでもっと親父さんの話を聞いておかなかったんだろう。そうしたら、今、拓斗と一緒に泣いてやることができただろうに。
「ありがとう」
涙目の拓斗が俺を見上げる。
「一緒に来てくれてありがとう。僕、一人じゃきっとここまで登ることもできなかった。一緒にいてくれたから、ここまで……」
「ここまでじゃないだろ。山頂まで行くんだろ?」
拓斗は涙を拭くと、えへへ、と笑った。
「そうだよね。一緒に登ろう」
そう言って立ち上がり、俺の手を引いた。
ハイキングコースと言っても、さすが星ヶ岳。頂上につくころには軽く息が上がっていた。さすがの拓斗もしんどそうにしている。
頂上に設置されている展望台に登ってみる。
四方を見渡しても、空ばかりが見える。さえぎるもののない大いなる屋根の上。俺たちは空の中に佇んでいるようだった。
ぽつり、ぽつり、と雨が降って来た。空を見上げるといつの間にこんなにと思うほど黒雲が頭上に集まっている。と思う間もなく、滝のような雨が俺たちに襲いかかって来た。
急いで階段を下り、展望台の真下、雨をしのげるスペースに逃げ込む。黒雲のなかに稲光が走り、どこかで雷鳴がとどろく。俺と拓斗は身を寄せ合う。雨はなんとかしのげたが、風は吹き放題に身にあたり、体温がどんどん奪われていく。たった数分、雨に当たっただけなのに衣服はびしょぬれで、ナップザックの中からヤッケを取り出して被ったが、少し生温くなっただけだった。
ふと見ると、拓斗ががたがたと震えている。
「おい、だいじょうぶか!?」
「だい、じょうぶ。ちょっと冷えただけだから」
顔色が悪い。額に手を当ててみると、熱が高いようだった。
「もしかしてずっと体調が悪かったのか? なんで早く言わなかった!?」
「言ったら、登れなくなるでしょ? どうしても今日、登りたかったんだ。父さんの誕生日だから……」
俺はなにも言えなくなった。ただぎゅっと拓斗の体を抱きしめた。
風ができるだけあたらない場所を選んで、拓斗を寝かせた。俺の膝に頭を置いてやる。ヤッケを脱いで拓斗の上にかける。体の震えはなんとか止まったようだが、熱はさらにあがったようだった。俺は水筒から水をを口移しで飲ませてやる。拓斗は口を開けてもっと水を欲しがっているようだ。二口、三口と飲ませてやる。
額に汗が浮いている。そっとぬぐってやる。それ以上、俺にできる事はなかった。
どうして俺はこんなにひ弱なんだ? どうして何もできない? こんな時に助けになってやりたいのに……!
「おーい、君たち、どうしたー?」
遠くから呼ばれてそちらの方を見やると、同じバスに乗っていた人たちが山頂に辿り着いたところだった。
「すみません、連れが具合が悪くて! 助けて下さい!!」
その人たちはベテランの登山家で、急病にも対応できるような装備を携えていた。着替えを、耐熱シートを貸してくれて、スポーツドリンクもわけてくれた。
俺がそれを口移しで飲ませていると、パーティーの一人が
「よっぽど仲良しなんだねえ」
と感心していた。俺はそんなことはもうどうでもよくて、とにかく拓斗の病状がひどくならないように祈った。
雨は降りだした時と同じように、突然やんだ。太陽が顔を出すと、あたりは急に暖かくなり、俺の冷えたからだから少しずつ水分が蒸発していくように感じた。
「私たちもハイキングコースから下山しようと思ってたんだ。良かったらその子は背負っていってあげよう」
そう言ってくれた男性に、俺は拓斗をまかせた。なんとなく似ていたのだ。その人は、拓斗の親父さんに。
下山する途中、拓斗が目を覚ました。
「とう……さん?」
そう言って、しかしすぐに状況を理解したのか、背負ってくれている人に「大丈夫です! 歩けます!」と言って叱られていた。
「人の好意は素直にうけなさい。特に山ではね」
その言葉に、拓斗も俺も、泣きそうになった。
ふもとに下りて、バスを待つ。その時にようやく拓斗は下ろしてもらえた。立たせてみると、ふらつきもなく、熱は多少あるようだけれど歩けないほどではなくなっていた。
バスの中で、俺と山男たちは色んな話をした。星ヶ岳連山のこと、星座のこと、冬山登山のこと。学校のこと、友達のこと、恋愛のこと。
話しても話しても話題は尽きなかった。
けれど、彼らの下りる停留所はすぐにやって来た。
「じゃあな、少年。君たちが山に来るのを待ってるよ。また山で会おう」
そう言って俺たちに手を振ると、彼らは下りていった。
俺たちは窓からいつまでも、いつまでも手を振った。
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