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第14話
「……おはよう」
「お、おはよう、金子」
今朝の目覚めは最高だった。
目覚まし時計が鳴る直前に起き上がり、朝メシは俺の好きなジャガイモの味噌汁とベーコンエッグで、朝錬では久々の運動でいい汗を流し。洋々と自分のクラスに踏み込み、明るく隣の席に挨拶しようとそちらに顔を向けると、
金子芙美は机を見つめてニヤぁっと笑っていた。
思わず回れ右して逃げようとした俺に戸惑う様子もなく、金子は声をかけてきたのだ。
一応、挨拶を返し、席につく。
金子はぼんやりと机を見つめたまま、動かない。先ほどの気味悪い笑みだけは消えたものの、何を考えているのか分からない得体の知れなさは残る。
いや、知らないから怖いだけで、良く知りあえばいいヤツかもしれないじゃないか。人を見た目で判断してはならない。
「な、なあ。金子は部活入ってるの?」
「べつに」
「あ、そ、そうなんだ……。中学はどこ?」
「茅島南」
「ああ、カヤナンね。俺は東なんだけど」
「知ってる」
「……知ってましたか」
だめだ。取り付く島がない。わざと疎遠にされているとしか思えない。
いやだがしかし。
この微妙な空気感のもとで二学期全てを過ごすというのはなかなか厳しいものがある。よりにもよって俺の席は窓際で隣と言うと金子しかいない。前後の席のやつに逃げるにしても、毎時間相手を振り返らせたり、俺が振り返ったりするというのは、なんだかちょっと間抜けな気がする。できれば隣の席のやつとは穏やかに語り合える仲になっておきたいのだが……。
金子はそんな気持ちはまったく関知しない様子で自分の机と語り合っているようだった。
昼休み、俺は自分の席に居づらくて、校内をぶらぶら散歩することにした。昼休みはいつも、弁当を食べたら昼寝して終わりなのだが、なぜか金子の視線が気になって、昼食は飲み込むようにさっさと終わらせ、寝てしまおうと思ったのだが、金子の視線が俺の方に向いているようで気が散って眠れず。
どうにもこうにもしようがなかった。
話しかけたら話したくない風にそっけないのに、黙っていたらじっと視線を送ってくる。なんなんだ、金子。何を訴えているのかぜんぜんわからないぞ、金子!
「あ、拓斗」
「あれ、どうしたの、こんなところで」
俺の足はいつの間にか特別教室棟に向いていたようで、科学室の前で拓斗と遭遇した。
「いや、散歩……かな?」
「なんで疑問形なの? おかしいの」
拓斗はくすくす笑う。俺はほっと心が軽くなるように感じた。
「拓斗はなにしてんの?」
「部活の準備だよ。今日は天体観測の日だから、望遠鏡をね。あ、ねえ、野球部に時間合わせるから、一緒に帰ろうよ」
「おう。まだ基礎錬だけだから、そんなに遅くならないから」
「じゃあ、僕の方が遅いかもしれない。屋上で待ってるよ」
「わかった。じゃあな」
軽く手を振って拓斗と別れる。
うん。なんか元気出た。これなら教室に戻って金子と対峙しても逃げ出さずに済みそうだ。
ストレッチをして軽いキャッチボール。ダッシュと守備練習。夏休みの間、だらけていたツケが結構かさみ、俺はもともと上手くなかったのが、ド下手と言っていいくらいにまで後退していた。しかし医者からはまだ軽い練習までしか許可がおりていない。守備練習が終わったら、俺は一人すごすごと部室へ引き戻る。
汗もあまりかかず、ユニフォームも汚れない。俺はなんだか気が抜けたようになって、ここ数日を過ごしていた。
あんなに頑張っていたのが嘘のようだ。練習が人より早く終わったからと言って、以前の俺ならさっさと帰るなんてことはしなかった。きっと最後まで見学していたはずだ。なのに、今は。
甲子園、という言葉もどこか嘘くさく感じる。俺程度のやつが目指していい場所じゃない。そんな気がしている。
俺は妙に軽いカバンをぶら下げて部室を出ると、屋上へ向かった。
屋上のドアを開けると、心地よい風が吹いていた。昼間の熱を吹き払うように海からの風が上ってくる。
ぐるりと見渡すと、南の方角に拓斗が一人、望遠鏡を覗いていた。
「部長と副部長は?」
声をかけると、拓斗はくるりと振り向いた。
「副部長の門限があるから、もう解散したんだ。ねえ、見てみない? 火星の大接近」
「火星の大接近ってなんだ?」
言いながら、俺は望遠鏡を覗く。
「火星が地球に一番近づく時のことを言うんだけど、こんな小さな望遠鏡でもはっきり表面の模様が見えるでしょう」
レンズのはるか向こう、火星はほんとうに赤くて、うっすらと模様があるように見える。俺はガラにもなく感動した。
「いいな、拓斗は。好きなことができて」
「ええ? どうしたの、急に」
「急にじゃないけどさ。俺、野球が好きかどうか、わからなくなった」
望遠鏡から目を離し振り向くと、拓斗はじっと俺の目を見つめた。俺はその目に促されるようにぽつぽつと話しだす。
「俺が野球始めたのって、親父にやらされたからなんだよな。俺がやりたいって思ってたわけじゃない。そのまま小学校でも中学校でも、野球やってたやつは野球部に入るのが当たり前、みたいな感じだったから何も考えずにダラダラ続けてきたけど。俺、とくに上手いわけでもないし、これと言った夢もないしさ、何のために練習してるのかわからなくなった」
拓斗は俺に近づくと、俺の両手をとって、手の平を上に向けさせた。
「このマメ、小学校の時はしょっちゅうつぶして泣いてたよね。それがいつからかこんなに硬くなって、泣かなくなって」
拓斗のやわらかな手が俺の手の平を撫でる。
「僕は、このマメのある手が好きだよ」
そう言うと、拓斗はチュ、と軽いキスをくれた。
「おはようございます!」
翌朝、教室に入ると、金子がすごい勢いで近づいて来て、ほがらかに挨拶した。
「お、おはよう、金子さん」
「やだ、金子さん、だなんて。呼び捨てでいいですよう」
いきなりフレンドリーになった金子は表情まで昨日までとはうって変わって朗らか……なように感じられた。髪のカーテンの向こう側ではきっと朗らかなはず。
「ど、どうしたんだ、金子。今日はなんか機嫌がいいのか?」
「あ、わかりますう? わかっちゃいますう? もう、私、昨日から興奮しちゃって眠れなくってえ。いやん、うふふふ」
一人で照れてくねくねしている。ま、まあ、何を考えているか分からないよりは、何も考えていないみたいに笑っている方が、幾分親しみやすいと言えなくもないような気がしないでもない。
金子が、俺にぐぐっと迫って、小声で言う。
「私、応援してますから」
「お、おうえん?」
「はい。他の誰が何と言っても、私は味方ですから!」
それだけ言うと、金子はおどるような足取りで教室から出ていった。
「なんだったんだ……」
俺は呆然と金子が去っていく方を見つめることしかできなかった。
その後も金子の挙動不審はつづいた。授業中はチラチラこちらを見ていると思うと「きゃっ」と言って顔を赤らめ小さく首を振ってみたり、休み時間には俺の一挙手一投足を監視してみたり、トイレに立つと後をつけてきたり。
「惚れられたわね」
「いや、それはないだろ」
昼休み、自分の机にいることに耐えられず、元香と橋詰が弁当を広げているところに乱入してしまった。橋詰はうらみがましい目で俺を睨んでいる。
「だって、そんな挙動不審さ加減、どう見ても惚れた状況じゃないの」
「いや、だって昨日まで完全シャットアウトだったんだぞ、なんで急に今日になって……」
「だから、昨日から今朝に掛けての間に惚れたんでしょ」
「そんな覚えはない。第一、昨日は朝しか喋ってないし、その後はお互い知らん振りしてただけだっちゅうの」
「どこかで見かけて一目惚れ……じゃないけど、そんな感じだったんじゃない? 例えば、野球部を見てたとか」
俺は昨日のことを思い出そうとして首を捻ったが、部活の間も金子を見た気はしなかった。
「第一、金子はそんな遅くまで学校に残ってるのか? 部活にでも入ってるのか?」
「知らないわよ、そんなこと本人に聞けばいいでしょ」
「聞けたら苦労しないよ」
元香はガタン! と音高く椅子を引くと、高らかに宣言した。
「私が聞いてあげるわよ!」
そう言うと、ずんずんと金子のところに歩いて行き、何事か言い争いをしてずんずんと戻って来た。
「おいおい、なんで喧嘩してるんだよ」
「してないわよ! 金子さんは、漫画同好会所属! 昨日は7時ごろまで図書館で活動してた! 私とあんたが仲良くしてるのが気に入らないらしいわよ! はい、惚れられ決定! おめでと」
すごい勢いでまくしたてると、食べかけの弁当を包み、教室を出ていく。橋詰が俺の顔と元香の顔を見比べてから元香のあとを追って走っていった。俺はため息をついてしゃがみ込んだ。
その後の時間、俺は極力、金子と顔を合わせないように努めた。授業時間はできるだけ窓の方に視線をやり、休憩時間はトイレに逃げ込んだ。それなのに、授業中、金子はじりじりと俺の方へ机を寄せて来て、トイレから出てみると、廊下でばったり行き会う。
部室へ向かう渡り廊下の真ん中で待ち伏せしているかのごとく立ち尽くしている金子に、俺はとうとうキレた。
「俺になにか用があるんだったら、さっさと言ってくれないか」
「え、そんな、用なんて私ごときが恐れ多い! 私は遠くから応援しているだけですから!」
「ぜんぜん近いんだよ! なんなんだ、あんた、なんで俺につきまとうんだよ!」
「つきまとうだなんて……。ただ温かく見守っているだけです」
「だから、なんで!」
「なんでって……」
「元香が……、綾部があんたが、その……。俺に気があるとか何とかって……」
「そんな!! 私なんかが恐れ多い! 本当に私、応援してるだけですから!」
「だから、何の応援!?」
金子はぐっと顔を近づけると、小声で囁いた。
「宮城君とのラブラブを、です」
血の気が引いた。いや、もしかしたら顔が真っ赤になったのかもしれない。もしかしたら赤青くなっていたのかもしれない。
「な……、なに」
「ごめんなさい、私、見ちゃったんです。昨日の夜、屋上にいたお二人を……。月の光に照らされた屋上で、手を握り合い、愛を語り、ちゅ、チューを……。きゃーーーーー!! 萌え! もえええ!」
「語ってねえよ! なんだよ、愛を語りって、覗き見してんなよ!」
「す、すみません! ででも、漫研の部室から、特別棟の屋上は丸見えなんですう」
ぐらり、と眩暈がした。みられてた……。
「あ、あ、その時、部室にいたのは私一人ですし、もちろん! 誰にも言ったりしません! お二人のことは私の胸の中だけに……」
金子の言葉が頭に入ってこない。
俺は自分の浅はかさを恥じた。いや、そんなことはどうでもいい。見られてしまったことは仕方ない。
「あんた、俺にどうしてほしいんだ?」
「宮城君と、思う存分、ラブラブになって欲しいんです!」
金子はガッツポーズで高らかに宣言した。
「……すまん、ちょっと意味がわからない」
「だから、私はお二人がラブラブしているということを考えるだけで迸るパトスが……!滲み出るパッションが……。ああ、萌え!!」
金子は自分の体を掻き抱き、身をよじる。俺は目の前で何が起きているのか理解できず、呆然としていた。
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「……つまり、金子は男同士の恋愛に異常に興奮する性質を持っていて、俺と拓斗の絡みがもっと見たいんだと」
「そういうことです。やっと理解していただけましたか」
「いや、ぜんぜん理解はできていない。事実の確認ができただけだ」
結局、俺は今日も野球部を休み、金子と話しあうことになってしまった。しかしその話し合いは、ラテン語と中国語で話し合っているような無駄なすれ違いを繰り返すばかりでちっとも進展しなかった。
ようやく金子の言っている事が理解できた頃には陽はとっぷりと暮れていた。
「ですから、私はそっと見つめさせて頂くだけで十分なんです!」
「あんたは充分でも、俺は迷惑なんだよ!」
「そんな! 私、きっと役に立ちますから!」
「役に立つって……。どんな?」
「えっと……。何かの!」
両手を握りしめて必死に訴える姿は健気とも言えたが、如何せん覗かれたという被害意識は、そう簡単には消えそうになかった。しかし、いつまでも金子と押し問答しても仕方がない。俺はいくつかの条件を突きつけて、手打ちにすることにした。
一、教室でにじり寄ってこない事
一、トイレについてこない事
一、屋上をのぞかない事(オペラグラス禁止!)
一、誰にも話さない事
一、宮城拓斗に近づかない事
金子はこれらを「いえす、ますたー!」と敬礼して聞き、絶対に守ると誓ってみせた。その真剣な表情を、俺は信じてみようと思った。
「それと、金子。あんた髪、なんとかしたほうがいいんじゃないか。妖怪みたいだぞ」
「いえす、ますたー! 明日はなんとかしてきます!」
「それと、その、ますたーってのはやめて……」
「いえす! のー! ますたー! これは私の本心の発露! これだけはどうしようもありません!」
「あ、ああそう。じゃあ、好きにして下さい……。じゃ、今のこと、よろしくお願いします」
「いえす、ますたー!」
金子の敬礼におくられて俺は教室へ戻る。一刻も早く家に帰って寝てしまいたかった。なにやら頭痛がする。そんな俺の視界に、拓斗の背中が映った。
「たく……」
声をかけようとしたが、とどまった。
拓斗の隣に南原が並んで歩いていたのだ。二人は楽しそうに笑い合っている。俺は二人に気付かれないようにそっと来た道を戻っ……。
「うおう! びっくりした!」
「あの女! 拓斗ちゃまの隣を占領するなんてゆるせない! 拓斗ちゃまのとなりはマイマスターの指定席なのに!」
いつの間にやって来ていたのか、金子がこぶしを握りしめて怨嗟の言葉を吐いている。
「マイマスター! あの女、駆逐しましょうか!?」
「いや、そういう胡乱気なことはやめて……」
「では、マスター! すぐに追いかけて二人の仲をさかないと! ああいう猫かぶりキャラが一番やっかいなんですよ!」
「いや、キャラって……。あんな楽しそうなのに邪魔するのも悪いし……」
「いいから、早く行ってってば!」
金子に、ドンっと背中を押され、俺は廊下にひっくり返る。その音に振り返ったのだろう。
「大丈夫!?」
拓斗が駆け寄って来た。
金子はいつのまにか廊下から消えている。忍者か!?
「どうしたの、こんなところでこけて。体調でも悪いの?」
「いや、ちょっと足がもつれただけ。俺のことはいいから、ほら、行けよ」
「???? え、どこに行くの?」
「帰るんだろ? 早く行けよ」
「なに言ってんの? 君こそ帰るんなら早くしたら? 一緒に帰ろうよ」
俺はまじまじと拓斗の顔を見上げた。拓斗は「?」という顔をして俺を見下ろす。廊下の先を見ると、南原はさっさと行ってしまったらしく、人影はなかった。
「……ああ、そうだな。一緒に帰ろう」
拓斗が差し出した手をにぎり、立ち上がった。どこかで金子が身もだえしているような気が、そこはかとなくした。
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