15 / 25

第15話

 古文の和田先生はいわゆるオールドミスだ。  水泳部の顧問兼コーチとして、水泳部を国体に導いた功績は今でも学内でたたえられている。和田先生は学生時代ずっと水泳で鍛えていたためか見事な逆三角形の体型だ。その肩をいかして学生指導を長年受け持っている。  礼儀作法にうるさく、生徒に対する指導も熱血である。生徒の中には和田先生に関しての不文律がある。  曰く「和田先生を怒らせるな」。  先生は怒ると猛牛のように突進してくる。  そして今回、その肩に撥ね飛ばされたのが、この俺である。  よりにもよって和田先生の古文の時間に居眠りをしてしまったのだ。  野球部の朝錬に一ヶ月半ぶりに参加して、朝から疲れ果てていたこと。  前日からの気温の上昇により睡眠不足だった事。  隣の席の金子から目を逸らそうとして窓ガラスを見つめていたこと。  そうだ。金子だ。  昨日、髪をなんとかして来いと言ったのは、確かに俺だ。しかし、しかしだ。  前髪を上げてポニーテールにしただけで、絶世の美少女になるなんて、どんな漫画設定だよ! と俺は心の中で突っ込みつつ、  にっこりと笑いかけられることに深く動揺し、そのまぶしい頬笑みから逃げるように顔を背け、同時に黒板にも顔を背けることになり。ついつい居眠りをしてしまったというわけなのだ。 「えええええ。和田先生の授業でいねむり!?」  帰宅の道すがら、拓斗が叫ぶ。 「居眠り致しましたとも。お陰で俺は部活謹慎ですとも。大量の宿題もいただきましたとも。それに何より……」 「なにより、なに?」  俺は腹の底から、はあ~~っとため息をついた。 「今学期最後の日のプール掃除を言い渡されました」 「プール掃除?」 「いえす」 「一人で?」 「いえす」 「たいへんじゃない」 「そうなんですよ。一週間後にはその苛酷な日がやって来てしまうんですよ」 「まあまあ。そう落ち込まないでよ。そうだ、美夜子さんが貰って来たクッキーがいっぱいあるよ。うち寄って行きなよ」 「……おじゃまします」  くだらない話で恐縮だが、俺はクッキーが大好きだ。どれぐらい好きかと言うと、生まれ変わったらクッキーモンスターになりたいほどに好きだ。最近はクッキーモンスターも他のもの(野菜や肉や)を食べると聞いたのだが、食育の波になんか負けないくらい、俺はクッキーが好きだ。  クッキー好きになった理由は美夜子さんだ。  拓斗の家に遊びに行くと、いつもなにかハイカラなおやつが出てきた。うちででてくるおやつは煎餅とか饅頭とか、せいぜい頑張ってタイ焼きくらい。爺様と婆様がえらんだおやつだから仕方なかったのだろうとは思う。  それに引き換え、宮城家のおやつ事情はすばらしかった。  ケーキにチョコレートにアイスにカルピスにりんごジュースに、そして焼き立てのクッキー。  美夜子さんはアイシングクッキーの達人だ。  プレーンなクッキー生地の上を色とりどりの砂糖菓子で絵付けして、華やかなクッキーに仕立て上げる。そんなアイシングクッキーに、幼い俺のハートはいちころだった。  それ以来、アイシングクッキーはもちろん、プレーンなのからチョコチップ入り、ハーブ入りからソフトタイプまで、とにかく俺の好物はクッキーになった。  ホワイトデーのお返しがクッキーだと知って、俺は女に生まれなかったことを心の底から恨んだものだった。  拓斗の家の台所で、直径40センチはある巨大な缶を開け、その中にぎっしりとクッキーが詰まった様を見せられた俺の感激を、どうしたら伝えられるだろう。  クッキーモンスターならこう叫んでしまいだ。「I LOVE COOKIES!」  しかし俺は一応人間としての矜持がある。そこでこう言っておいた。 「美夜子さん! ありがとう!」 「ははは。帰って来たら伝えておくよ」  拓斗が淹れてくれた紅茶を飲みながら、クッキーをむさぼる。クッキーは素晴らしい。世の煩雑なもろもろを解決してくれる。  クッキーを食べる俺をニコニコと見ていた拓斗が口を開いた。 「これで少しは元気出たかな?」 「出た出た! すんごい出た!」 「じゃあ、プール掃除も大丈夫だね」  俺のテンションは一気に地下深くまで下がってしまった。  その日はとうとうやってきた。  和田女史の言うことにゃ「たった一人ですべてをやり遂げた時に、人は本当の感動を得るのです!」。  俺は感動より過重労働を伴わない安らぎが欲しいよ。  プールのカギを受け取って、屋外プールへ。主に夏の授業に使われるこのプールは築年数が30年を超え、ペンキがはげ終わり、むき出しのコンクリートの箱のような見た目をしている。  プール開きの前には水泳部員による大掃除が行われ、ヤゴやゲンゴロウ、ヒルなどの駆除が欠かせないという。  ひと夏の間、カルキで消毒され続けたプールに虫はいない。けれど、ひと月半の間の汚れは並大抵のものではないだろう。  俺はひとくさり愚痴をこぼすと、ジャージのすそをたくしあげてデッキブラシ片手にプールへと乗り込んだ。  と、なぜかそこに金子の姿があった。 「な、なにしてるんだ、お前!?」 「いえす、まいますたー! 私、応援をさせていただこうと……」 「一人でやらなきゃいけないんだよ! 邪魔すんな!」 「邪魔はしません! 応援だけ……」 「それが邪魔だって言ってるんだよ! 消えて失せろ!」  ぴゅうっと逃げ出す金子の姿を確認してから、俺はクレンザーをプールの底にだばだばとまき散らした。 「づぁぁぁーー。づかれた……」  俺がデッキブラシから手を離したのは、東の空に満月が浮かんできたころだった。  プールサイドに寝転がって月を眺める。  濃紺の空に薄黄色の月がかがやいている姿が、俺の心の波を静めてくれたみたいだった。ぼんやり、月を見つめ続けた。 「どうしたの?」  拓斗の顔が俺の顔の前に現れた時、俺はうつらうつらと居眠りをしていた。月を背に俺に微笑みかける拓斗は、天女のようにはかなげだった。  俺は手を伸ばすと、拓斗の頬にふれた。やわらかくあたたかく、俺の手は拓斗の肌に吸いついた。拓斗は俺の手の上に手を重ね、頬ずりする。 「……拓斗」  俺は伸ばした手で拓斗の首をとらえると、ぐいっと引き、唇を重ねた。  やわらかく、暖かい。  そのなめらかな丘の間からもっとなめらかなものが這い出て来て、俺の口中に侵入する。  やわらかに、俺たちは舌を絡める。  吸いつくすのではなく、押し付けるのでもなく、ただやわやわとなぐさめあう。  拓斗の手はゆっくりと俺の両手を撫でてくれていた。そこから次第に肩へと伸びていき、そこから首へ、胸へ、腹へと下りていく。その感触もあまりにやさしくて、本当のこととは思えなくて、俺は拓斗の体をぎゅっと抱きしめた。拓斗は俺の頭をふわりと撫でてくれて、俺の体をぎゅっと抱きしめてくれた。  どうしてだろう。拓斗はいつも俺が欲しいものをくれる。  拓斗の手はするりと俺の背に回され、背骨の辺りを腰から肩へ撫で上げる。 「ふぁっあん……」  鼻にかかった声が漏れる。まるで子供が甘えているみたいな。  拓斗は俺をあやすように、二度、三度と背中を撫で上げる。 「っあっあっんん」  喉にひやりとした感触を受ける。そのすぐ後にぬめりと暖かいものが舐め上げる。 「っひぃ!」  短く悲鳴が出る。拓斗の手が腰から下へ向かう。俺の脚を、ぐいっと持ち上げる。足首にキスをして、そこから上へと唇を這わす。 「っだめ、拓斗……。よごれてるからぁ……」 「いいよ。それも味わいたいんだ。君の全てを」  拓斗の手が腰にかかったと思うと、ジャージを引きずり降ろされる。ずりずりと引き抜かれ、俺の脚が外気にさらされる。拓斗は俺の上着も脱がせてしまう。 「きれいだ」  月の光だけに照らされた俺の体を、拓斗が隅々まで見尽くす。隠れられる場所はない。俺はすべてを拓斗に委ねる。  拓斗は服を脱ぎ捨てると俺の胸に胸を寄せた。とくんとくんと早い鼓動を感じる。そのまま拓斗は腰を俺に擦りつけ、ぐいぐいと動き出した。 「っはあ! あっはぁ! あっあっ」  強い刺激が股間に集中し、俺は快感に朦朧とする。拓斗は俺の唇を吸い、両手で俺の頭から顔、肩、腕と撫でおろす。  両手を、捕えられる。  指をからめ、口づけを深くし、腰を抉る。  俺はたまらず、精を吐いた。  荒い息が整わぬまま、拓斗は俺の精を指ですくうと、俺の後ろに塗り込めた。両脚を抱え上げ、侵入してくる。にゅちゅ、ずちゅ、と湿った音がなる。 「ふぁ、あん、あああ……」    なぜか、泣き声がでてしまう。 「泣かないで」  拓斗が俺の目じりをなめる。ゆっくり動きだす。 「っあああ! ああ……あん……」  急に突かれ、ゆっくり抜かれ、横壁をこすられ、そこを抉られる。  ぬるりとした感触が熱いるつぼの中へと沈み、体を引きずりだすかのようにまきあげ、跳ねあげる。   「ふぁぁぁっ!」  拓斗に足指を舐められる。一本一本、たんねんに。経験した事のない感触。むず痒さに似た悦楽。  十本すべて舐められ終わった時には、俺の腰はとろとろに溶けきっていた。    俺の腰を高く掲げて上からねじ込むように拓斗が打ちおろす。  あまりに深いところまで届いて、俺はもう声も出せずに喘ぐ息だけがハアハアとうるさかった。  一際はげしく深く拓斗が動いたと思うと、俺の中に熱いものが注ぎ込まれた。 「…………ねえ」 「………ねえ、起きてよ」 「ねえってば!」  耳のそばで聞こえた大声に飛び起きる。俺の耳を摘まんだ拓斗がいる。 「やっと起きた。もう、こんなとこで寝ちゃったら危ないよ」  言われて周囲を見回してみると、どうやら俺は掃除を終わらせてプールサイドで眠ってしまったようだった。 「いつまでたっても出て来ないから心配したよ。掃除、終わったなら一緒に帰ろう」  拓斗が俺に手を差し伸べる。その手は月明かりに照らされて、ぼんやり光っているように見える。 「ほら」  言われて、俺は拓斗の手を取る。その手はしっかりと力強く、俺の手を握ってくれた。 「マスター……。ひどいです。私のいないところで拓斗ちゃまとらぶらぶしていたなんて」 「らぶらぶなんてしてねえよ!」  俺にすがりつく金子の腕を払いながら歩く。 「らぶらぶしてないなら、なんでプール清掃終了の報告に、二人揃っていったんですかあ?」 「金子には関係ないだろ」 「男子二人揃った世界に、金子の関係ないことなどありません!」 「意味分かんねー」 「とにかくう! マスターがラブラブなさった内容を金子に教えてくださあい!」 「そんな義理はない!」  いや、義理云々の話ではないのだ。本当に、昨日、俺たちはなにもなかった。それは間違いない。なのに……。  俺の腰には甘いしびれが残り、拓斗の姿を見るだけでなぜか涙がうるんでしまう。  昨夜見たものは……昨夜感じたものは……はたして本当に夢だったのだろうか?  それが夢でも現実でも、俺の中の拓斗が大きく大きくなり過ぎて、今にも破裂しそうなのだ。そう感じる。 「マスター。聞かせて下さいよう。拓斗ちゃまと何があったんですかあ」  俺と拓斗の間に、いったい何があったんだろう。  どうして俺たちは、こんなに変わってしまったんだろう。  どうして昔のままではいけなかったのだろう。  いや、もしかしたら、昔から?そうだったのか?  俺たちは何かを見逃し続けていただけなのかもしれない。 「ねー。マスター」 「なんだよ」 「マスター、幸せになって下さいね」 「はあ?」 「金子はハッピーエンディング同盟員ですから!」 「なんだそりゃ」  でも、いいな。  二人でハッピーエンドになれたら、本当にいいのにな。  なあ、拓斗。

ともだちにシェアしよう!