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第5話

「ま・す・た・あ」  金子が身体をぐにゃぐにゃさせながら近づいてくる。 「なんだ、金子。悪いものでも食べたのか? 腹痛か?」 「違いますよう!! ますたー、今日が何月何日か、お分かりですか?」 「二月十三日だろ? それがどうした?」 「どうした? じゃないですよ、ますたー!! 明日はなんの日ですか!?」 「……もしかして、お前の誕生日で、プレゼントの催促か?」 「ちーがーいーまーすー! 明日はバレンタインデイ!! 日本全国チョコ祭りですよ!」 「……初めて聞いたぞ、そんな祭り」 「毎年、絶賛開催中ですよぅ!! ますたーだってもらったことがあるでしょ! 覚えがないとは言わせませんよ!!」  そりゃあ、俺にだって苦いバレンタインデイの思いでの一つや二つ、なくはないさ。  けど、金子がもだえる意味がわからない。 「……お前からのチョコは義理でも断る」 「ひ、ひどい、ますたー!! ……じゃなくて」  金子がぐっと顔を近づける。いやに小声でささやく。 「バレンタインデイって言ったら、恋人たちのハッピーイベントじゃないですか!」  俺はぐっと身を引く。 「そんな言葉、初めて聞いたぞ。聖バレンテイヌスさんが泣くぞ」 「そんな坊さん知りませんよ!! とにかく、明日のために、チョコをゲットしていただきます」 「はあ!?」 「愛を再確認するんですよ!! そういう伝説の日でしょ!」 「し、知らん、知らん!! そんな伝説聞いたことないって!!」 「乙女のムーンライト伝説ですから! つべこべ言わずに、さっさと来る!!」 「た、いたたたい! 耳引っ張るな、金子!!」  金子に強制連行されてやって来たのはデパートの催事場。  チョコを買うためだけに電車で30分、都会の街へ出てきた。  デパートは「ナニゴトか!?」と思うほどの人混みで、さらにチョコ売り場になっている催事場は、たしかにチョコ祭りというにふさわしい人出になっている。  女性の頭が山のように連なってチョコの姿は一片も見えない。 「金子……。ここで俺に何をしろと……?」 「もちろん、チョコレートを買っていただきます!!」 「冗談ポイだぞ、金子。ここは買い物する場所じゃない。格闘する場所だ。戦場だ」 「大丈夫ですよ! 男子がいたらみんな引きますから!!」 「よくない! ドン引きされてどうする!!」 「最近は友チョコとか自分チョコとか流行ですから、大丈夫だから、ごちゃごちゃ言わずに早く行けぇ!!」  金子に思いきり蹴り飛ばされ、行列の中に押し込まれた。  華やかな色合いのスカートの大群のなか、俺の学ランは場違いにもほどがある。  しかし、いったん飲み込まれてしまうと、二度とは戻れないバミューダトライアングルのようで、俺はただ、パステルカラーのスカートの波に溺れることしかできなかった。  しばらく流されて、ようやく自分の立ち位置を確保できるようになって見渡すと、どこも同じようなチョコレートショップだと思っていたが、それぞれに特色があるらしい。客の入りもばらばらで  長蛇の列になっているところもあれば、必死に客引きしているのに、だれも足を止めない店もある。  俺はためしに、人垣が出来ているところで立ち止まってみる。やはり、俺の学ランはガン浮きで、よもや女性の列の間に割り込む勇気などなく、背伸びして女性たちの頭の上から陳列棚をのぞきこんだ。 「あ!!」  女性たちがいっせいに振り替える。  俺はそれどころではない。  視線は、その一点に集中している。 「そのチョコ、ください!!」  帰りの電車のなか、俺と金子は並んでほくほくしていた。  俺の手には小さな紙袋。  金子の手にはチョコがぎっしり入った巨大な紙袋。 「なんだよ、金子。自分が買いたいなら、そう言えよな〜」 「違いますよ、今日はますたーにチョコを買っていただくためのお供ですから」 「それにしても、バレンタインのチョコ売り場になんて行くもんじゃないな」 「そうですねぇ。死にかけましたよね、私たち」  しばし、宙を見上げ、呆ける。  人波に揉まれた感覚が残り、足元がふわふわする。  足を地面に引っ掛けないように気をつけて電車に乗り、つり革に捕まってもまだふわふわとしていた。 「金子は、そのチョコ誰にやるんだ?」 「やだ、ますたー。誰にもあげませんよぅ。ぜんぶ、自分チョコです」 「ぜんぶ!? それぜんぶ、一人で食うのか!?」 「もちろんです」  金子は嬉しそうにチョコレートショップの名前をあげていく。ジャンポールだとかアレクサンドルだとかの人名が多い。金子に聞いてみると 「ショコラティエの名前ですよ!!」  と説明になってるのかなってないのかわからない説明をされた。  そんなチョコレート行脚を終え、俺と金子は駅で別れた。  金子は何度も振り返り、大きく手を振って去っていく。よし、尾行はないな。    俺は今日の獲物を確認して思わずニンマリしてしまう。  あわてて手で口をふさぎ、周囲を見渡し、誰にも見られてないか気にしつつ家路をいそいだ。  翌日、通学鞄に小さな紙袋を忍ばせて登校した。  席につくと、金子がにんまりとイヤらしい笑顔で机を寄せてきた。 「ますたー。忘れずに持ってきましたかあ?」 「ぉ、おう」  なにやら凄みのある金子の声に、俺は引きぎみになる。 「手渡しの場所は、ぜひとも屋上で……」 「いやだよ!!」  漫画同好会の部室から、ひいては金子の目から丸見えな場所になど、金輪際、足を運ぶつもりはない。 「じゃあ、いつ渡すんですかあ?どこで?」 「教えるわけないだろ!!」  教えたら絶対のぞきにくる!  しかし、金子は一日、俺につきまとった。  トイレにいけば、廊下で行き合う。  購買に行くと隣で消ゴムを買う。  野球部に行こうとすると渡り廊下で待ち伏せしていた。 「いい加減にしろ!! 金子!!」 「いい加減にするのはますたーですよ! いつ渡すんですかあ? 待ちくたびれたですよ!!」 「お前には関係ない!!」 「冷たいですよ!! ますたーと私の仲じゃないですかあ!!」 「どんな仲だよ!!」 「僕も知りたいなあ」  突然、背後からかけられた声にぎくりと振り返る。  にっこりと笑う拓斗がたたずんでいた。 「たく……と?」  その笑顔はいつもの拓斗の笑みで。けれど、なぜだか凄みを帯びて。 「ねえ。どういう仲なの?」  拓斗が一歩近づく。  金子が一歩下がる。 「あ、あはははは〜。私、用事を思い出しちゃったなあ〜」  変な笑い声を残し、金子がそろりそろりと後ずさる。 「さよなら、金子さん」  拓斗の声が、絶対零度の冷たさを含む。  金子が後も見ず、走り去る。  俺は金子の後ろ姿に、思わず手を伸ばしそうになる。 「聞きたいことがあるんだけど?」  俺はデジャ・ヴを感じて目眩がした。 「二人でデートしてたんだってね」  拓斗に連れられてやって来たのは科学準備室。天文部の部室である。 「で、でーとぉ?」 「隣街のデパートでなかよくショッピングしてたって噂になってるよ」 「う、噂って、なんで!?」 「金子さん、綺麗だからね。注目されるよね」 「けど、変態だぞ!!」 「関係ないんじゃない?女の子は綺麗なだけでいいって言う人もたくさんいるし」 「俺は違うぞ!!」 「どうだろうね」  拓斗は腕を組んでそっぽを向く。眉間に薄く皺を寄せ斜に構えた拓斗は、アンニュイでぞくりとする色気を醸し出している。  俺はしばし見惚れてしまう。 「デートしてたんだ?」 「してねーよ!!」 「じゃあ、何してたの」  俺はぐっと言葉につまる。 「それは……あの……」  手が通学鞄にのびかけて止まる。 「なに?」  冷たい拓斗の声に顔を上げる。  見たことのない、表情だった。  俺の知らない、誰かみたいだった。  俺は……俺は……  ふ、と拓斗が床を見て笑う。 「うそ、うそ。ごめん、うそだよ。ちょっと意地悪しただけ」 そのまま、拓斗は部屋を出ていこうとする。 「拓斗!!」 「なに?」 拓斗が肩越しに言葉を返す。 俺は鞄から小さな包みを取り出す。 「これ!」 拓斗が振り返る。 「これ! あの……チョコ……」  そっと拓斗が手をのばす。俺の手に拓斗の手が触れる。 「……僕に?」 「……ほかに誰がいるんだよ」  顔が熱い。俺は拓斗の足元しか見れない。 「ほんとに、僕がもらっていいの?」 「だから! 他に誰がいるんだよ!」 「開けていい?」 「……ああ」  拓斗が包みを解く音だけが室内に響く。  リボンを取り去り、紙包みを開き、箱を開ける。真っ青な。丸いチョコレートの上に真っ青な水の惑星の模様が精緻に描かれている。海と、雲と、大陸と。 「うわあ……」  横目でちらりと拓斗の顔を見上げる。  満面の笑み。  それは赤ん坊が母親を見るような全開の笑顔だった。  俺はその笑顔に惹かれるように顔を上げる。 「地球だ……」 「おう」 「すごいね、これ、チョコレートだよね」 「おう」 「これ、僕に?」 「だから、他に誰がいるんだよ」  拓斗が俺に抱きつく。 「ありがとう!! すごい、生きてて良かった!!」  俺は拓斗を抱きとめながら思わず噴き出してしまう。 「大袈裟だな」 「全然、大袈裟なんかじゃないよ! だって僕……」  拓斗の目からぽろぽろと涙がこぼれる。 「僕……、ほんとに君が好きだ」 「うん」  俺は拓斗の涙を拭ってやる。 「まさか、君からチョコレートをもらえるなんて思ってもみなかったんだ」 「うん」 「地球のチョコレート、見つけてくれてありがとう」 「うん」  拭っても拭っても、拓斗の涙はぽろぽろこぼれ続ける。  俺は拓斗の肩を抱く。 「わかったから、泣くなよ。な」 「うん。うん」  子供のように泣く拓斗の背中を、俺はいつまでも撫で続けた。  鼻の頭を赤くしたまま拓斗が言う。 「そっか、金子さんがチョコレートを買いに連れていってくれたんだ」 「そういうこと」 「ね、このチョコレート、半分こしよ」 「お前のなんだから全部食えよ」 「僕のなんだから、半分こしたいんだ」 「わかったよ」  ほんとに今日の拓斗は子供みたいだな、と思っていると、チョコレートの端、太平洋側を口にくわえ、 「あい」  と俺の方にチョコをつきだした。 「あい……って、え、このまま、食えって?」  拓斗がこくりとうなずき、口をつき出す。そのまま詰め寄られ、俺は仕方なく、地球の大西洋側をちょっとだけ口にくわえた。拓斗は地球をぐいぐいと俺の口の中に押し入れる。  10㎝ほどの板状のチョコは口の脇にべたべたとくっつきながら、押し込まれてくる。  そうして日本の真上で俺と拓斗の唇が合わさり、  チョコと一緒に拓斗の舌が入り込む。  まだ完全に溶けきらないチョコを俺の口に、拓斗の口に、ころころと転がす。  俺の舌で、拓斗の舌で、その熱でチョコは次第にとろけていく。  どちらが自分の舌でどちらが拓斗の舌かもうわからない。  何もわからなくなるくらい、甘かった。  拓斗が俺をぎゅっと抱きしめる。  その腕の感触も甘くて、俺はとろとろに溶けていた。  どれくらいそうしていただろう。  口中のチョコは姿を消し、けれどほんのり甘い味だけは残り、俺たちは唇を離せずにいた。  拓斗の手が優しく俺の頭を撫でる。俺は拓斗の背を抱く。  いつまでもこうしていたい……。  がらり、とドアが開く音がした。  あわてて身体を離す。開いたのは隣の化学室のドアで、俺はほっと肩を撫で下ろした。  準備室のドアの隙間から、隣の部屋を覗いてみると、天文部の部長と副部長が向かい合っていた。  副部長の手には小さな包み。真っ赤になってうつむいている。  これは……。  俺と拓斗は足音を立てないように、そっと準備室の反対側のドアから廊下に出た。  そのまま、化学室とは逆の方、屋上へ向かう階段の方へ歩いていった。 「ちょ!ダメだって!拓斗!!」 「なんでだめなの?」  屋上で寒風にさらされ、寒がりの拓斗が抱きついてきたまではいい。  問題は「さっきの続きしよ」という発言だ。 「こんなとこで……、か、風邪引くよ!!」 「やだなぁ。キスだけだよ」 「だ、ダメだって、絶対、金子がのぞいてる」 「いいじゃない。ご褒美あげても。ほら、口の脇にチョコレートついてるよ」  拓斗は俺の両腕を掴んで封じてしまうと、俺の口をぺろりと舐めた。 「……!!」  俺は歯を食いしばって拓斗の手から逃れようとしたが、拓斗はますます強く俺を縛り付ける。  拓斗は俺の口の周りをぐるりと舐めあげ、チョコをきれいに舐めとってしまった。 「ね、僕もチョコレートついてる?」  にっこりと笑う拓斗の右頬にチョコの線がついている。  俺の目線で、拓斗はその事を知っただろう。  しかし、黙って笑うだけで、何も言わない。  俺は惹きよせられるように拓斗の頬に唇をよせ、舌で舐めとる。 「ふふ、くすぐったいね」  俺はもう引き返すことができなくて、拓斗の頭を抱きかかえむしゃぶりついた。  夢中で拓斗にしがみつく俺の背を、拓斗は優しく撫でつづけてくれた。 「もう! 昨日はますたーたちを探して、学校中走り回っちゃいましたよ!!」 「もうって、言われてもな」  朝から金子に噛みつかれ、俺はうんざりと首を振る。 「いったいどこでいちゃラブしてたんですかあ? 教えてくださいよぅ」 「してない、してない」 「あ、ますたー口のところ、チョコついてますよ」  ばっと口を押さえる。顔に血が上る。金子がぶすくれた顔で俺を見る。 「いいです。もうますたーの弟子はやめます」  弟子だったのかよ!! という叫びはかろうじて飲み込んだ。 「あー……、拓斗がな」 「はい?」 「拓斗が金子に礼を言ってくれってさ」 「礼? なんのでしょう」 「チョコの。俺を連れていってくれて、ありがとな」 金子はぱっと笑顔になる。人目を引く美少女の笑みに、周りの男子の視線が集まる。 「私なんかでお役に立てるなら、なんなりとご下命ください、ますたー!!」  尻尾を振らんばかりのその献身をやめていただけないものか……。  その笑顔が誤解をうむんだ……。 「またいちゃラブしてくださいね!!」  目眩がする。  これ以上、拓斗に誤解されないように、なんとか金子との縁を切れないものか……。 「私、ますたーの隣の席になれてほんとうに良かったです!!」  席替えはもう、今学期が終わるまでない。  ああ、こうやって、今日も小気味良く新しい誤解が生まれていくんだな……。  俺は諦念を瞳ににじませて遠くを見ていた。

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