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第7話

 選抜高等学校野球、春期大会。  春樹たち茅島高校野球部は予選三回戦で敗退した。  出ると負けだったころより、ずっと強くなったとはいえ、やはり予選負けはくるものがあるようで、春樹は常になく落ち込んでいた。 「はぁ〜……」 「またため息ついてる」  春樹の部屋で並んで甲子園からの野球中継を見ながら、拓斗は苦笑いで春樹の髪をいじる。  春樹は拓斗の肩にぐったりともたれかかっている。 「俺だってあそこに行きたかったぞ〜……」 「そうだね。ベンチ入りしたしね」 「そうだとも〜……。控えと言えどピッチャーだぁ〜……」 「すごい、すごい!!」 「あのマウンドで、俺も投げたいぞ〜……」 「夏は頑張ってね」 「……おし!! 落ち込み終わり!!」  そう言って、しゃっきりと起き上がる。 「君は切り替え早くてえらいと、いつも思うよ」 「そうかあ? けっこういつまでもうじうじしてるぞ?」 「そんなことないよ。それに比べて僕は……」  拓斗はがっくりと肩を落とす。 「あー。まだ気にしてんのか。学年で17位って立派な成績だと思うぞ」 「……僕は10位以内じゃないとヤだ」 「ヤだって言われてもなあ……。答えられなかった訳じゃなくて、解答欄間違えただけなんだから、いいじゃないか」 「よくないよ! だからこそヤなんじゃないか! ああ、僕のばか!!」  拓斗は頭を抱えてぶんぶんと振る。 「あー。まあ、次がんばろ? な?」  拓斗はジト目の上目使いで春樹を軽くにらむ。 「春樹も一緒にがんばって」 「え? おれ?」 「今回、何番だったの?」 「……下から14番です……」  がばっと勢いよく春樹の手を握りしめ、拓斗が力強く宣言する。 「次のテストでは100番以内に入ろう!!」 「はあ!? 無理だよ!!」 「無理じゃない!! 僕が家庭教師するから!」 「ええ!?」  しばらくなんだかんだと言い合っていたが、結局、春樹は押しきられた。  春樹が野球部の練習から帰ってくると、春樹の家で拓斗が待ち構えていて、着替える間もなく勉強させられる。春樹がうんうん唸りながら方程式を解いていると、妹の秋美や弟の冬人も春樹の部屋にやってきて宿題を見てもらう。  春樹の部屋はにわかに個人塾の様相を呈した。 「……拓斗、お願いがあるんだけど」  連日の慣れない勉強でふらふらになった頭で春樹がつぶやく。 「なに?」  拓斗は教科書から顔をあげる。 「明後日の俺の誕生日は、休ませてください……」 「わかったよ。けど、一日だけだからね」  にっこり笑って拓斗が言う。新学期までみっちり勉強させられることは決まっているらしい。春樹はくらくらと目眩で倒れそうだった。  春樹の誕生日は祝日にあたって、野球部の練習は休みだ。  拓斗と二人で商店街のケーキ屋を目指す。 「やっぱりケーキと言えばイチゴだよな!!」  ウキウキした春樹の声に拓斗が優しく笑う。 「だよねぇ。今日は大きいのでもなんでも好きなケーキを買ってあげるからね」 「ありがとう!!」  誕生日にはなんでもわがままを聞いてやる、という長年の慣習通り、拓斗は春樹のしたいことに付き合っている。 『腹一杯ケーキを食べてみたい!!』  春樹のわがままは、それだけだ。なんともかわいいものだ、と拓斗は内心微笑む。  こんがり日焼けした野球少年一人では、気恥ずかしくてケーキ店に足を踏み入れることもできなかったのだが、今日は拓斗が一緒だ。  拓斗さえいれば、春樹はどこへだっていける気がする。  ケーキ屋を目前にひかえた時、春樹の腹の虫が鳴った。 「ああ……腹へったな」 「春樹のおなかはいつも豪快な音をたてるよね」 「朝から食ってないんだよ。ケーキのために」 「じゃ、早く買って帰ろうか」  くすくす笑う拓斗に背を押され、ケーキ屋へ突入する。 「いらっしゃいませ」  かわいい女子店員が満面の笑みで二人を出迎える。春樹は「うっ」とうめいて視線をさまよわせたが、拓斗がすかさず春樹の腕をとり、ショーウィンドウに並ぶケーキの前まで連れていく。 「ほら、どのケーキにするの?」  春樹はやっとの思いでショーケースを覗き込む。  モンブラン、チーズケーキ、シュークリーム……。春樹の目は真剣にケーキたちの上を行ったり来たりする。そうして数分悩んだ末、そうっと拓斗を振り返った。 「一番おおきないちごのケーキでもいいですか……?」  拓斗はふふっと笑顔でうなずく。 「もちろん。今日はなんでも春樹の好きなようにしてあげるからね」  拓斗はにこやかに「これください」と店員にむかって20センチほどのケーキを指差す。 「メッセージいりのチョコプレートはつけますか?」 「お願いします。おたんじょうびおめでとう、で」 「ろうそくは何本つけますか?」 「16本お願いします」  春樹はそのやり取りを、顔を赤くしてうつむいて聞いていた。 「なんで照れてるの?」 「だって……。なんかいたたまれない。自作自演、みたいな」 「僕の作だよ。君はこのステージの主人公。堂々として」  拓斗ににっこり笑いかけられ、春樹はひくつく頬を笑顔の形にむりやり引き上げる。拓斗はぷぷっ、と小さく吹きだす。 「なっ! 笑うなよ!」 「ごめん、だって……。ひょっとこみたいだったんだもん」 「ひょっとこお!?」  ショーケースの前で暴れる二人に、ケーキ屋の店員は苦笑しながら大きな包みを渡してくれた。拓斗が受け取り会計をすませる。 「ありがとうございましたー!」  明るい声に送り出されて二人は店を出る。  店内の暖かさから放り出されると、外気はひどく冷たくて、拓斗は首をすくめてマフラーを巻く。 「ううう。春とはいっても寒いねえ」 「この季節はまだ冬だろ」 「なに言ってるの、今日生まれの君は春樹って名前でしょ。思いっきり春春してるじゃない」 「なんだよ、春春って」 「うーん。青春、とか?」 「字面は似てるけどな」  馬鹿なことを言いあいながらぶらぶらと歩く。 「ほら、手、つなご?」  ケーキの箱を持っていないほうの手を、拓斗は春樹に差し出す。春樹は一瞬躊躇したが、そっとその手をとった。 「なんだか、幼稚園の時みたいだねえ」 「そうだな。あのころはいっつも手をつないで帰ってたよな」 「春樹はいっつもどこかに絆創膏貼られてたよね」 「いまでも貼られてるけどな」 「え、どこどこ?」  のぞきこむ拓斗に、春樹は足首を出して見せる。 「ここ。タンスの角ですりむいた」 「……野球で怪我したんじゃないところが、春樹らしいよね」 「なんだよ、それ。その通りだけどさ」  ぶらりぶらり、二人はゆっくりと歩く。 「どうする? 春樹のとこで食べる?」 「まさか!! うちでケーキなんか広げたら、秋美に狩り尽くされる!!」  拓斗は苦笑して春樹の頭を撫でる。 「じゃ、僕の部屋で食べようか。紅茶淹れるから」 「おう。おじゃまします!」  いつものように拓斗の家の玄関をくぐると、いつもとは違い、台所で美夜子が立ち働いていた。 「こんにちは、美夜子さん」  春樹が声をかけると、美夜子はにっこりと振り返る。 「いらっしゃーい。たんじょうびおめでとー!」 「ありがとうございます。美夜子さん、カレーですか?」  台所に充満するカレー臭に春樹が鼻をヒク突かせながら聞くと、美夜子が、ふふんと笑う。 「いえす、カレー。しかし、のーカレー、です」 「意味がわかりません、美夜子さん」  美夜子は、さらにふふん、と笑って胸を反らせる。 「カレーでTシャツを煮ています!」 「…………意味がわかりません、美夜子さん」  それからしばらく、美夜子と春樹は無駄な押し問答を続け、カレーは食べるものだの、カレーは偉大だだの、カレーはカレーはかれーは……と不毛な言葉が飛び交い続け。 「つまり、カレーの染みがついたTシャツをカレー色に染めている、と」 「そのとおり! さすが拓斗!」  拓斗の評定で決着がついた。 「じゃあ、紅茶はせっかくだから、チャイにしようか」  拓斗の提案に春樹が首をかしげる。 「チャイってなんだ?」 「インドの飲み物だよ。スパイスを入れて煮だすミルクティー」 「うん。なんだかわからんが、うまいやつでお願いします」 「はい。了解しました。先に部屋行って待っててね」  春樹がおう、などと言って拓斗の部屋に引っ込むと、美夜子が拓斗に耳打ちした。 「あんたたち、あいかわらずイチャイチャしてんのね」 「おかげさまで」  拓斗は澄まして鍋にポットの湯を入れる。 「で、二人はどこまでいってるのかな? お母様に包み隠さず教えなさい」 「商店街まで行って来たけど?」 「あら、やだこの子ったらしらばっくれて。そういうことじゃないってわかるでしょ?」 「そう言うことじゃないならどういうことかな?」  沸騰した湯に紅茶の葉とスパイス色々を投入する。 「だーかーらー。君たちはちゅーくらいしたのかね? ん?」 「ちゅーは幼稚園の時にしたよ」 「なんだってー! なんてマセガキなんでしょ! 親の顔が見たいわ!」 「鏡なら洗面所にあるよね」  煮立った紅茶に牛乳を注ぎこむ。 「じゃあ、その先はしたのかね? ん?」  拓斗はくるりと美夜子の方に向き直ると、真顔で言う。 「そんな事より、母さん。伊勢谷さんとのことはどうなってるの?」  美夜子はぐうっとのどの奥からよくわからない呻きを漏らす。 「あんまり待たせてると、他の人に取られちゃうかもしれないよ」  煮たったミルクティーをカップに注ぐ。大きめのフォークと共に盆に乗せて運ぶ。 「もう! かわいげがない子ね!!」  拓斗は振り返ると、にっこりと笑った。 「あなたの息子ですからね」  拓斗が部屋のドアを開けると、春樹がにこにこと満面に笑みをたたえ、こたつにあたりながらケーキの箱をいじっていた。 「あれ、まだ開けてなかったの」 「うん。拓斗と一緒に開けようと思って」  拓斗の頬がゆるむ。 「お待たせしました。じゃあ、開けようか」 「おう!」  春樹はいそいそと箱からケーキを取り出す。いかにも微笑ましい、といった表情で拓斗は春樹を見つめる。  ケーキはショーケースの中で見るよりも、ずっと大きくどっしりとしていた。 「えっと……。これ、食いきれるかな」 「好きなだけ食べて、残ったら冷蔵保存したらいいよ」 「そうだな。そうだよな! うん。なあ、食べていいか?」 「どうぞ、ぜーんぶ春樹のだよ」  拓斗は笑顔で春樹にフォークを渡す。春樹はフォークを受け取るとさっそく、がつんとケーキにフォークを突き立ておおきくえぐった。 「いただきます!」  宣誓して大口を開け、ケーキを頬張る。いちごの乗った鋭角を飲み込む。うっとりと眼を細め、次のピースをフォークでえぐる。  拓斗はにこにことその様子を見つめていた。    ぐぐぐーっとチャイを一気飲みして、春樹のケーキタイムは終焉を迎えた。  いちごのケーキはあとかたもなく春樹のお腹に消えていった。それでも春樹は名残惜しそうにケーキの箱を見つめている。 「まだ食べたかった?」  拓斗の問いに、春樹は寂しそうに首を横に振る。 「いや、いいんだ。これ以上食べて、食べ飽きたら、せっかくのケーキを嫌いになっちまうかもしれないからな。これくらいがちょうどいいんだ」  拓斗は眉根を寄せて苦笑を浮かべる。 「君は結構ネガティブなわりに、ポジティブだよね」 「ええ? なんだそれ?」 「君のそういうところ、好きだよ」  拓斗は春樹の口の脇についた生クリームをぺろりと舐めとる。春樹は顔を真っ赤にしてうつむく。 「ね、他には? 他に僕は君になにをしてあげたらいい?」 「ほかにって……」 「なんでも言って?」  拓斗は春樹の唇を舌でなぞる。バニラの香りが二人を包む。 「あの……」 「ん? なに?」  春樹はほとんど聞こえないくらいか細い声でぽそぽそとつぶやく。 「……今日、古文の宿題が……わからないんだけど……」  拓斗は春樹の頭をぐりぐりと撫でた。   「じゃあ、やろうか」 「拓斗先生、おねがいします!」 「おねがいします! 「おねがいします!」  春樹の部屋で秋美と冬人も混ざって拓斗の個人塾が開校した。春樹は古文。秋美は数学と日本史。冬人は算数。それぞれに拓斗に教えを請う。広くもない春樹の部屋に四人も集まっていると、暖房が必要ないくらいの熱気がこもる。その熱気が勉学にも向いているのか、はたまた拓斗の指導がいいのか、三人の勉強はすいすいと進んでいく。 「拓斗くんが毎日、勉強教えてくれたら、私学年トップになれると思うなあ」 「俺も赤点がなくなると思う」 「ぼくも、百点取れると思う」  兄弟それぞれ口々に褒めそやすと、拓斗は照れて頭を掻いた。 「そんなことないよ。みんな優秀な生徒だから……」 「そう言えば」  春樹がふと拓斗を見上げて言う。 「お前、中学の頃、家庭教師きてたろ? いつやめたんだ?」  拓斗の動きがぴたりと止まる。頬にひきつった笑いが浮かぶ。 「……かていきょうし……」 「ああ。なんか大学生のかっこよさげな……」 「父さんが」  拓斗の言葉に、春樹が口をつぐむ。 「父さんが亡くなったときにごたごたしたからさ。そのころに……」  拓斗がうつむく。あわてる春樹の脇腹を秋美が肘でつつく。 「ごめん、拓斗! おやじさんのこと思い出させるつもりじゃなかったんだ!」  拓斗は青ざめた顔で首を振る。 「ううん、平気。なんでもないんだ。なんでもないんだよ」  そういって春樹の手を握る拓斗の手は、ふるふると震えて冷たくて。春樹は拓斗の肩をそっと抱いた。

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