9 / 68

第9話 駘蕩

「助かったわあ、桐生先生が来て下さって」 「岬先生のお役にたてて良かったですよ」  岬は臨月のお腹を幸せそうに撫でる。桐生はその様子をにこにこと微笑ましそうに眺める。  産休に入る岬のかわりの代用教員として桐生は茅島高校へやってきた。担当は科学。岬が携わっていた野球部顧問も同時に引き継ぐことになった。 「私は野球なんて全然わからなかったけど、桐生先生は野球経験がおありなら安心だわ。みんなを甲子園に連れていってあげてね!」  両のこぶしを握って身を乗り出し、岬は熱い口調で話す。 「できる限り力になりますよ」  メガネの位置をなおしながら喋る桐生の声は、どことなく冷たさを帯びていた。  始業式が終わり教室へ戻ると、拓斗は無言で席についたまま下を向いてぼんやりと何かを考えているようだった。 「拓斗、おい、拓斗!」 「え、なに?」 「どうしたんだよ、さっきからずっとぼうっとして。どこか具合でも悪いのか?」 「ううん、僕は大丈夫だよ。気にしないで」  それだけ言うと、拓斗は春樹から顔をそむけ、机を見つめて黙ってしまった。  春樹は心配顔をしながらも、かける言葉を見つけられずにいた。  結局そのまま拓斗と話すことができないまま、春樹は野球部の部室へ向かった。新学期早々から野球部の練習は通常体勢で行われる。 「よお、春樹」  振り返ると、橋詰が走って追いついてきた。 「よお」 「いやあ、俺たちめでたくクラスわかれたな!」 「なんだよ、めでたくって」 「元香ちゃんとお前を引き離すことができて、俺はうれしい!」  橋詰は腕で顔をかくし、泣き真似をしてみせた。 「俺と元香はなんでもないって。それに橋詰、元香と付き合ってるんだろ?」 「ばっか……! なに言ってんだよ! そんな、そんな、うれしいこと言ってくれてんじゃねえよ~」  橋詰は顔を真っ赤にして走っていってしまった。春樹はそれを笑って見つめ、部室へと歩いて行った。 「……というわけで、今日から桐生先生が顧問になってくださいました」 「よろしくおねがいします、みなさん」  桐生は丁寧に頭をさげる。長い前髪がさらりと顔にかかった。 「はい!よろしくお願いします!」  部員の腹から出る元気のいい声に、桐生は笑ってみせる。ミーティングの間もずっとやわらかな雰囲気の桐生に、部員たちはすぐに馴染んでいった。春樹もいつも以上に和やかなチームメイトたちに混じって、無邪気にはしゃいでいた。  翌日から二日間、休み明けのテストが行われる。生徒達から「宿題テスト」と呼ばれるこのテストで、春樹は良い点をとったことがない。というより、普段から良い点などとったことはないのだが。  今回も赤点をいくつかとったため、野球部の練習は謹慎、補習講義を受ける事になった。 「じゃあ、一緒に帰ろうよ。天文部、今は僕一人だからさ、時間はあわせられるよ」 「……おう。じゃあ、二時間したら終わるから……」  力なく肩を落として春樹はぼつぼつと喋る。 「もう、そんなに落ち込まないでよ。二日間だけじゃない。がんばって」 「……おう。じゃあ、行って来ます……」  とぼとぼと歩いて行く春樹の背中を、ため息をつきながら見送って、拓斗は科学準備室へ向かった。  部長と副部長が三年になり部活を引退して、拓斗は一人きりの天文部員になっていた。一人で観測をし、一人で軌道観測の演習をしたり。大好きな天文に携わりながらも、寂しさを感じる。早く新入部員を見つけなきゃな、と思ってはいるが、なかなか天体好きはいないようだった。    からりと音がして振り返ると、そこに桐生が立っていた。 「お久しぶりです、拓斗くん」  呼び掛けられ、拓斗はビクリと身を震わす。 「……桐生」 「おや。私のことは、もう『桐生先生』とは呼んでくれないのですか?」 「っ!……だれが!」  桐生は人差し指でメガネを押し上げ、にっこりと笑う。人を安心させるような優しい笑み。けれどどこか薄っぺらく見える。 「いえ、気にしないでください。どう呼んでいただいても結構。あなたが私の教えを受け継いでいること、理解していますから」 「教え……?」 「牟田春樹」  拓斗は目を見開き桐生を見る。 「良かったですね、想いを遂げられて。私も教えた甲斐がありました」 「……だまれ」 「あなたのためになって良かった。私が手取り足取りあなたの体に刻んだものが、あなたの役にたつなんて」 「やめろ!!」  拓斗は両手を握りしめ、桐生を睨みつける。 「……春樹に指一本ふれるな」 「それは貴方次第ですよ、拓斗くん」 「……?」 「貴方が私のおもちゃになってくれるなら、私の退屈も紛れるのですが……。いかがですか?」  にっこりと笑って拓斗の方へと腕を伸ばす。拓斗にはもうその手を取ることしかできる事はなかった。  待ち合わせの時間になっても拓斗が来ない。  春樹は頭に詰め込まれた数式で意識朦朧となりながら、科学室へ向かった。 「あ、桐生先生!」  科学室のドアを開け、桐生が出てきたところだった。 「ああ、牟田君」 「どうしたんですか、先生、科学室なんかで」  桐生は可笑しそうに笑う。 「私は科学の教師ですよ? 科学室が私の巣です」 「あ、それはそうか。……あ!思い出した!」 「なにをですか?」 「桐生先生、拓斗の家庭教師の先生でしたよね!」 「ああ、君は宮城君の幼馴染みの。そうでしたね、お久しぶりです」  軽く頭を下げる桐生に、春樹はあわてて90度のお辞儀を返す。 「科学準備室に拓斗、いましたか?」 「さあ。私は準備室には入らなかったので……。ではそろそろ私は行きますね」 「はい、失礼します」  春樹はしばらく去っていく桐生の後ろ姿を眺めていた。すらりとした長身に広い肩幅はスポーツで鍛えたたくましさというより、なにか線の細い棘のような感じを与える。春樹は首をかしげて科学室のドアを開けた。 「拓斗ー?」  呼びかけると、準備室からガタガタと言う音が聞こえた。  準備室に顔を出すと、拓斗がこちらを向いて立っていた。ひきつった表情、青白い顔。春樹はあわてて拓斗に駆け寄る。 「おい、どこか具合がわるいのか!?」 「……どこもなんともない」 「けど、顔色わるいぞ」 「平気だって!」  拓斗はシャツの胸のあたりを握りしめて怒鳴る。春樹は思わず、一歩下がった。 「……ごめん」  春樹を押しのけ、拓斗は部屋を出ようとする。 「拓斗! おい拓斗! どうしたんだよ、何があった?」 「君には関係ない!」  振り返り、春樹をにらむ。 「僕に近寄らないで」  そう言って走り去る拓斗を、春樹は呆然と見つめていた。

ともだちにシェアしよう!