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第12話 憧憬

夢を見る。 いつも彼の夢を。 彼の柔らかな髪を。 机に向かう真剣な目を。 その芳しいうなじを。 夢の中で彼は私だけを見つめる。 彼の両手は私に向かってさしのばされる。 私はその手をとり、抱き寄せる。 けして叶わぬ夢。 叶えてはならない夢。 今、目の前に、手に入れることができない存在がいる。私を信頼し、背中を見せている。  宮城拓斗は優秀な生徒だ。私が教えることはほとんどない。本来なら家庭教師などいらないのだ。  私は彼に問題を与え、解答に丸をつける。それだけのために、ここにいるようなものだ。  ぼうっとしていた意識を彼の手元、与えたプリントに集中させる。そこには半分ほどしか答えが書き込まれていなかった。時間は十分に与えていたのだが。 「どこかわかりませんか?」  肩越しに話しかけると、彼はピクリと肩をふるわせ振り返った。 「あ……、すみません。ぼんやりしてました」  はにかんだ笑みを浮かべる彼の口元に視線が吸い付けられる。ふっくらとつややかな唇。そこには私の邪な願望をいさめる美しさがある。 「なにか、考え事でも?」 「いえ……。そんなんじゃないんです」 「私でよければ相談にのりますから、いつでも言ってくださいね」  彼は視線を落とし小首をかしげ考えていたが、ぽつりと口を開いた。 「先生は、好きな人はいますか?」  心臓が跳ねた。その答えを彼にだけは知られるわけにはいかないというのに。 「……恋の悩み、ですか」  彼は顔を真っ赤にして視線をさ迷わせる。私は胸に棘が刺さったような痛みを感じる。 「こ、恋っていうか……」  言葉をつまらせ口ごもる。私は会話を続けたいがためだけに、質問を継ぐ。 「好きな人が、いるのですか」  彼は黙ったまま、こくりと頷いた。私の胸の棘がさらに深いところまで潜り込む。 「……その人はあなたの気持ちを知っているのですか?」  ふるふると首を横にふり、彼は話しだした。 「僕の気持ちは知らない。伝えられないんです。僕たちは友達だから。この気持ちを知られたら、今のままではいられない。だけど僕は……」  うつむき加減に寂しそうに微笑んだ彼を抱き締めたくてたまらなくなる。けれど、私はその思いをぐっと飲み込んだ。 「僕たちは友達だから……」  結局、私は彼の力にもなれず、自分の曖昧な愛情を吐露することもできず、宮城家の門を出た。そこへ、よく陽に焼けた少年が駆けてきて、今しがた私が出てきた扉を叩いた。 「おーい、拓斗!」  私はその少年が呼ばわる先、その扉を見つめる。そこから現れるであろう彼の姿を一目でも見たくて。 果たして彼は扉を開き顔をだした。  その瞳は太陽を見つめるかのごとく細められ、私が見たこともないほど、きらめくような笑顔を湛えていた。  ああ、そうか。  彼が好きだという友達とは、この少年なのか。 「春樹、どうしたの?」  春樹と呼ばれた少年は彼と共に扉をくぐった。 「春樹……」  私は身の内にどす黒い感情が渦巻きだしたのを感じた。 「先日、家を出たところで、かわいらしい少年を見かけました。あなたの友達のようでしたが」  私は笑顔で語りかける。彼ははにかんで、少しだけ顔を赤らめる。 「えっと、たぶん春樹だと思います。幼なじみなんです」 「ほう。ずいぶん仲良さそうにしていましたね」  彼は顔を曇らせうつむいてしまった。 「そんなこと……、そんなことないんです」  私は彼の肩に優しく触れる。指先から幸福が忍び込んでくる。彼は私を見上げると弱々しく微笑んだ。 ぞくり、と電気が走ったような衝撃を受けた。  この笑みは私だけのもの。春樹という少年も知らないだろう。いや、思われ人だからこそ知らないだろう。  彼の表情をもっと見たい。  誰も知らない表情を。 「春樹くん、か。本当にとてもかわいらしかったなあ。私の好みのタイプですよ」  彼の視線が険しくなる。軽く私を睨む。 「今度あったらデートにでも誘ってみましょうか」 「だめです。春樹には彼女がいますから」 「そうですか。それは残念ですね」  彼は私を警戒するような危ぶむような視線を送ってくる。  ああ、ぞくぞくする。  もっと、もっと、もっと知りたい。あなたのことを。その隠された表情を。  彼の父親が死んだ。  私の又従兄弟にあたる男性だ。登山中の事故だという。  大学で教職課程を選択した私に、家庭教師の経験をさせてくれた恩人だ。少なからず衝撃は受けた。  だが、私はそれ以上に喜びを覚えた。  彼が、泣きじゃくっていたのだ。  その涙は透明にきらめく甘露のようだった。口にすれば、どれほど甘いかわからない。  けれど、私にはそうする権利はないのだ。  彼の隣には、あの春樹という少年がいて、彼の背中を撫でつづけている。  嫉妬を、感じた。 「大丈夫ですか?」  葬儀から二週間。なんとか日常に戻ろうとしている宮城家に、足を運んだ。仕事で留守をする彼の母親から、彼の様子を見るように頼まれたのだ。  彼は弱々しく笑ってみせた。 「はい、もう落ち着きました」  違う。私が見たいのはそんな表情じゃない。私が聞きたいのはそんな言葉じゃない。私に、私だけに向けられる特別な……。 「あなたの幼なじみ。春樹くん。葬儀の時に参列していましたね」  葬儀、という言葉に反応したのだろうか。悲しそうな、苦しそうな苦渋を滲ませた顔。  それだ。その顔は私のもの。 「……春樹が、どうかしましたか?」  いぶかしむ声。 「いえ、制服姿だったのが新鮮で。いいですね、あなた方くらいの年齢の少年は」 「先生?」 「滅茶苦茶にしたくなる」  彼の背に腕を回し抱きしめる。驚き身をすくめた彼の唇を奪う。それは、信じられないほどに甘く、経験したことがないほど柔らかだった。  彼は弱々しく私の胸を押し、抵抗してみせる。私は構わず彼の体をまさぐり、唇を割り、口腔を舐めあげる。とても敏感なようで、私の指が肌を擦るたびにピクリピクリと体が震える。 「やっ……。先生、やめて」  唇を離すと彼は荒い息と共に制止の言葉を吐き出した。困惑と、わずかばかりの嫌悪。  私は彼を押し倒し、馬乗りになり、服を剥ぎ取る。彼は私の手を止めようと抵抗したが、力の差がありすぎた。なんなく上半身を露出させた。  真っ白な。雲のように真っ白な肌。ただ、見惚れた。  私の下から這い出ようと暴れる彼の両手を掴み、床に押し付ける。唇を喉に落とす。彼の体がびくりと跳ねる。 「いや、いやだ!!」  足をじたばたと動かしているが、なんの役にもたたない。涙を目にためて、恐れを浮かべた表情。もっとその顔を見ていたくて、私は彼の衣服をすべて剥ぎ取った。  彼は両手で体を抱き、身を縮こまらせじりじりと私から逃げようとする。私はちょっと腕を伸ばすだけで彼の肩を掴める。けれど脅えて退く姿がいとおしくて、じわじわと部屋の隅へ追い込んだ。  きっと肉食獣が獲物を追い詰める時、こんな気持ちなのだろう。  もっともっともっと。ああ、もっと、貪りたい。  あなたのすべてを食らいつくして、なぶりつくしたい。  あなたの苦痛を私のものにするために、私はいきなり体内に侵入した。 「いやあっ!!」  あなたの悲鳴、あなたの涙。 「やめて!!」  あなたの痛み、その苦痛を。  貪りたい。  事が終わったとき、彼はぐったりと身を横たえ表情が消えた顔には大量の涙が流れた跡を残していた。  私はその顔から目が離せない。もっと涙を流して欲しかった。 「あなたもなかなかでしたが、あの少年はもっと良さそうですねえ」  彼の目に火が点る。怒りの炎が。 「春樹に手を出したら許さない」 「許さない? あなたは私に手も足も出ないのに?」  悔しさに唇を噛む彼の姿に、私は再び欲情する。 「まあ、いいでしょう。あなたが私のいうことをきいて大人しくするなら、春樹君に手は出しませんよ」 「……絶対だな?」 「ええ。約束しますよ」  私とあなたの。二人だけの、契約。  身の内から溢れる喜びで、私はくらくらと目眩を感じた。  私にとって天上のような時間が過ぎた。  しかしそれは長くは続かなかった。家庭教師という立場を、私はなくしてしまった。  彼の母親が、私と彼の間にある何かに気づいたのかもしれない。あるいはただ単に、私の学業のことを心配してくれたのかもしれない。  最後の日、私は彼に丁寧な愛撫を与え、どこまでも優しく触れ続けた。彼は今まで見せたことがないほどに乱れ、喘いだ。 「かわいいですよ」  つい口をついて出た言葉に、彼は目を見開く。その顔をもっと見たくて、私は言葉をついだ。 「あなたの思い人も、きっとかわいく啼きますよ」 「春樹には……」 「手を出しませんよ、私はね。けれど、この先はどうでしょうね? 誰かがあなたから彼をさらっていくかもしれない」  私の動きに翻弄されながらも、険しい思案顔をする。そっと頬を撫でてあげる。 「急ぎなさい」  耳元に唇を寄せ、ささやく。 「誰かに奪われないうちに」  その後、私は彼と過ごした想い出だけを抱いて、生きていくつもりだった。  けれど、教師になった私の赴任先に、彼はいた。春樹と言う少年と寄りそうように。  彼は私が教えたことを忠実に守ったようだった。私の身の内に、嫉妬と共に喜びが沸き起こる。  私たちは共犯者だ。  彼が春樹を抱く時、その後ろには私の影がまとわりついているのだ。  私はこみ上げる笑みを抑えられなかった。  拓斗、拓斗。  君の表情を見せて。  私にだけひそやかに。

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