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第15話
「先生」
「なんですか? 牟田君」
部活あがり、日が暮れて真っ暗なグラウンド。俺は立ち去ろうとしている桐生先生を呼び止めた。ワイシャツ姿でいつもよりラフに見える先生は笑顔で振り返った。きっと、今ならどんな言葉でも受け入れてくれるだろう。けれどその明るい表情を見て俺は言葉につまってしまった。
『拓斗の秘密を知っていますか?』
聞きたいのは、それだけだ。けれど、口にしようとすると言葉は喉につまり出てこなかった。
「牟田君? なにか悩み事でも?」
「いや……、悩みっていうか……」
桐生先生は笑顔を崩さず俺の方へ近づいてきた。
「言いにくい話なら、場所をあらためましょうか?」
「え?」
「そうですね、今の時間なら科学室が使えますよ」
科学室……。
そうだ。すべては科学室から始まったんだ。そして今も秘密はそこにある。そこなら、俺の聞きたいことが聞けるのではないか……。なんとなくそう思い、俺は先生の後についていった。
無人の科学室はいやにヒンヤリとしていた。H2Oの科学模型がひややかに、月光に青く光っている。先生は明かりをつけず手近な椅子に腰を下ろした。
「……」
俺は口を開けかけたが、言葉は出てこない。
「なんでも話してくれていいのですよ」
そう言った桐生先生の笑顔は昼間見るものとは違うように思えた。そう、作り物のように冷たい。屍蝋というものは、案外こんな質感なのかもしれない。俺の視線は先生の足元をさ迷う。そんな俺にお構いなく、先生が口を開いた。
「たとえば、そう、宮城拓斗のことなどね」
俺は打たれたように顔をあげた。桐生先生は変わらぬ笑顔で俺の目を見つめる。それは「見つめる」というより「睨んでいる」?
「私は君のことを知っていましたよ。この学校にやってくる前から」
「え?」
「私が宮城拓斗の家庭教師だったことを君は覚えていましたね」
「は、はい……」
先生は俺を値踏みするかのようにじろじろと俺の体の上に視線を這わせる。
「その時に私は知ったんですよ」
言葉を切って先生は窓の外、月を見上げた。
「君が宮城拓斗の想い人だということを」
俺は思わず息を飲んだ。先生はそんなことは気にも留めず話し続ける。
「彼には長い片想いだったようですね。君はそんな気持ちにまったく気づかぬまま、彼のそばにいた」
「それは……」
非難めいた気配を漂わせる先生の言葉に、俺は言い訳をすることもできない。ただ、唇を噛んでうつむいた。
「なにも君を責めようという訳じゃないですよ」
そう言うと先生は立ち上がり、大股に俺に近づく。俺の腰に右手を回すと、左手で俺の顎を上向かせた。
「私は君がきらいですよ」
噛みつくように俺の唇に覆いかぶさる。
俺は必死に先生の胸を押し返そうとするが、びくともしない。その間にも先生の舌が口中に侵入してきた。
ヒヤリとした感触がぬめりを帯びて俺の歯列をなぞる。ぞわりと鳥肌がたつ。それを逆撫でするかのように先生の右手が背骨をたどり上っていく。
必死に歯を食い縛る。目尻に涙が溜まっていくのがわかる。
「春樹!!」
先生の唇が離れて俺を戒めていた手が離れていく。
拓斗の声。
そちらを見なくてもわかる。拓斗の声だ。
「どうしたんですか? 宮城君。そんなに慌てて」
「桐生……」
低い、低い声で拓斗が桐生を威嚇する。触れば火が出るのではないかと思うほどの視線で桐生を睨む。
つかつかと桐生に近づくと、その胸ぐらを掴み、殴り付けた。
「春樹に触れるな」
低く静かに拓斗は宣告する。何が起きたか理解できない俺の手を掴み、拓斗は科学室を出ていく。
最後の一歩、振り返ると、桐生は拓斗に殴られた頬を押さえ、笑っていた。心底、楽しそうに。
俺は拓斗に、俺たちのクラスまで引っ張ってこられた。拓斗はピタリと足を止めると、振り向きざま、俺の体を抱きしめた。あたたかい。あたたかい柔らかさに、俺の目に再び涙が浮かぶ。さっきの涙とは違う、心の底から湧いてきた涙だった。
「ごめん、春樹」
ああ、拓斗だ。本当に拓斗だ。俺はそっと拓斗を抱き締め返す。
「なんで……、あやまるんだ?」
「ごめん、ごめん……」
拓斗は何度も何度も繰り返しつぶやく。俺は背中を優しく撫でてやる。
俺の肩にあたたかな拓斗の涙が落ちる。
俺たちは泣きながら抱き合い続けた。
泣きつかれ、やっと落ちついた拓斗が俺から身を離した。拓斗の手が俺の頬の涙を拭う。
「ごめん、君を泣かせた」
「なんだよ、それ」
なんだか可笑しくて、ふと笑顔が浮かぶ。拓斗の頬を撫でてやる。
拓斗は俺の手を取ると手のひらに口づけた。
「苦しかったんだ、春樹がいないと、僕は駄目になる」
「拓斗……」
「全部、話すよ。昔のことも」
拓斗はふるふると肩を震わせ、顔色は青白くなったように見える。
「いいよ」
俺の声を追うように拓斗の視線が俺の口元に落ちる。わかってる。拓斗はまだ俺の目を見られないんだ。
「いいよ、なにも話さなくて。俺はお前がそばにいてくれたら、それだけでいい」
拓斗の肩に手を回し、その唇に触れる。あたたかい。やわらかい。俺の体から、緊張が融けて流れ出した。残ったのは深い深い安心感。
「なにがあっても、俺のそばにいて、拓斗」
俺たちは無言のまま並んで歩いた。
月の光でできた影が道の先まで伸びていく。俺たちは影を踏みしめるように、影に侵されるように歩く。
拓斗は俺の家の前までついてきた。
「春樹……」
「ん?」
「春樹……」
「うん」
俺は拓斗を抱きしめてやる。
「また、明日、な」
そう言って体を離す。拓斗は弱々しく微笑む。
「うん、また、明日」
帰っていく拓斗の背中を俺はいつまでも見つめた。拓斗の影が、道の向こうに消えるまで。
翌朝、野球部の朝練に桐生先生の姿はなかった。
「三年生の補習が始まったらしいぞ」
橋詰の言葉に、俺はほっと胸を撫で下ろした。
「ますたー……」
朝練が終わり教室へ向かおうとした渡り廊下。いつものごとく金子が待ち伏せていた。
「おお、金子。朝からどうした?」
「しばしこちらへ」
がさがさと音をたてて茂みの中に入っていく。俺はなんとなく素直についていった。
少しひらけたツツジの群生の後ろ、校舎の影に金子はしゃがみこみ、俺を軽くにらみながら口を開いた。
「だから、桐生を信用しないでって言ったじゃないですか」
「!! お前!?」
「まったく。ますたーは油断しすぎですよ。金子が拓斗ちゃまをお呼びしなかったら、どうなっていたことか」
昨夜の悪寒が背中を這い上がる。今にも桐生の手が俺に触れるかのごとく。俺はおののいた。けれど、目の前には金子がいて、常とかわらず拓斗のことを「拓斗ちゃま」と呼んでくれる。
「……また、のぞいてたのか?」
俺の言葉に、金子はビクリと身をすくめる。視線をそらしながら俺の問いに答える。
「そ、そ、それがどうしたですか?」
「……ありがとな。拓斗を呼んで来てくれて」
ぺこりと頭を下げる。
「や、や、あ、そんな、頭あげてください、ますたー!! 金子は当然のことをしただけですから! ますたーのところに拓斗ちゃまが行っただけですから!」
ふ、と笑いがこみあげる。金子にとって、俺のそばに拓斗がいるのは、当然のことなんだと思うと、なんだか嬉しくなった。
「ますたー、しあわせになってくださいね」
金子が真面目な顔で言う。
「ああ、まかせとけ」
俺は金子の肩を、拳で軽くついた。金子も同じしぐさで、俺にエールをくれた。
「おはよう、春樹」
拓斗が満面の笑みで俺を迎えてくれる。俺はなんだか面映ゆくてそっぽを向いた。
「はよ」
「どうしたの? 黒板になにか書いてある?」
「いや……、べ、べつに」
だめだ。なんだか久しぶりすぎて、どんな顔していいのかわからない。
「へんな春樹」
拓斗がくすくす笑う。
俺はそれが嬉しくて、拓斗に笑い返した。
「へんじゃない、拓斗」
拓斗が首をかしげる。
「なんでもない。……なんでもないんだ」
拓斗は首をかしげたままにっこりとほほ笑む。
俺は胸の底からあふれる幸せに満たされ、手足の先まで血がめぐるのを感じた。思わず、拓斗の頭を抱きしめた。
拓斗は一度身震いしたが、すぐに俺の体をぎゅっと抱きしめ返した。
クラスのやつらが「どうしたんだ!?」って騒いだけど、そんなこと、もうどうでもいいんだ。
俺には拓斗がいる。それだけでいいんだ。
それだけで、いいんだ。
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