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第16話

 どうやら俺たちのことが噂になっているらしい。  いわく「牟田春樹には金子芙美という正妻と宮城拓斗という側室がいるらしい」と。正妻に側室って、俺はどこの殿様だ!?と突っ込みをいれてみた。けれど拓斗は無邪気に笑っている。 「側室って言われたら、なんだか下剋上しなきゃいけない気になるね」    それを聞いた金子が真っ青な顔色になっていたことは、一応、拓斗には伝えておいた。  あれから拓斗はいつも俺にベッタリとくっついてまわるようになった。朝早くの登校から夜遅くの下校までずっと俺のそばにいる。  理由はわかっている。俺を守ってくれているのだ。  情けないことだが、どうやら俺には腕っぷしというものが欠如しているらしい。  拓斗はなにも言わずにいてくれるが、俺が密かに落ち込んでいることに気づいているらしい。拓斗の部屋に行ったときに、そっとダンベルを手渡された。 「お前、こんなんで鍛えてるのか!?」 「ううん、それ、美夜子さんのだよ」  さもありなん。  その後、桐生先生と近づく機会はなく、至極平穏に生活している。  科学の授業のたびにヒヤリとするが、先生は特段気にしたそぶりもなくクールに教壇に立っている。 『私は君が嫌いですよ』  あれは、どういう意味だったのだろう。  あの暴力的なキスを思い出すたび、先生の憎悪を感じるようで背筋に寒気が走る。  拓斗と先生の間に何があったのだろう。  ……いや。もう考えない。俺は拓斗がそばにいてくれれば。拓斗がいるだけでいいって決めたから。  野球部の練習が終わり拓斗と合流しようと歩いて行くと、今日も今日とて金子が渡り廊下で待ち伏せていた。なぜか拓斗も一緒で、苦笑を浮かべて金子の話を聞いている。 「お二人が仲良くされている姿を見られて、金子はとてもしあわせです。だけど……」  二人のそばまで歩いていって、会話に参加する。 「だけど、なに?」 「お二人のラブいちゃは金子だけの楽しみなのに〜! なのに学校中のみんなが知ってるなんて〜」 「いや、みんなは知らないだろ」  金子が俺の腕をつかみガクガクと振りまわす。金子を見ている拓斗の視線に零下の冷たさが宿る。いや、こわいから。 「知ってますよ!! 司書の無卯先生にも『うわさのらぶらぶカップルは何組?』って聞かれたですよ!!」 「なんで無卯先生が出てくるんだよ」 「先生は男子同士のラブいちゃが三度の飯より好物ですよ! そんなの図書室のジョーシキですよ!」 「いや、しらねーよ……」  拓斗が苦笑を取り戻し、金子の頭をよしよしと撫でてやる。ちょっとムッとする光景だ。 「春樹は図書室に行かないもんね。僕は無卯先生に自己紹介させられたよ」 「まじかよ……。俺、図書室行くのやめよ」 「ますたーも図書室に来てくれなきゃ困ります!! 金子がくびり殺されてしまいます!」 「いや、しらねーよ……」  わあわあと喋りたくっていると、後ろから声を掛けられた。 「牟田君」  瞬間、体が硬くなる。血の気が下がる。かすかに足が震える。俺はごくりと生唾を飲み込む。視界の端、拓斗が俺を背にかばうように移動したのが辛うじて見えた。 「桐生!」 「おや、宮城君も一緒でしたか。どうしたのですか? そんなに睨んで」 「春樹に、近づくな」  桐生が馬鹿にするように、ふっと笑う。 「近づかないわけにはいかないでしょう? 私は牟田君のコーチですよ」  桐生は拓斗を無視すると俺に近づき、貼り付けたような笑顔で親切気に話しかけてきた。 「どうですか、牟田君、新しい投球フォームは。もう身につきましたか?」  ぐらり、と体が傾いだ。思わずたたらを踏む。投球フォーム。桐生に腕を掴まれて教えられたその感触が蘇り、科学室で抱きすくめられた感触と交じり、俺の背を冷やした。 「まだ体に染み込んでいないようなら、もう一度、教えましょうか?」  俺は呼吸が苦しくなって、胸を押さえた。拓斗が一歩踏み出し、桐生と対峙する。 「春樹にはもう、お前のコーチなんか必要ない」 「おや、それを決めるのは君ではありませんよ。牟田君も、嫌だと言ってもフォームが悪いようなら私が手を出さないわけにはいかないですねえ」  拓斗が俺の手を握ってくれる。その手の温かさが俺の震えを止めてくれた。俺は視線を上げ、桐生を睨みつける。 「おや、牟田君。なにか言いたいことがありますか?」 「……もう、先生のコーチはうけません」  桐生は楽しそうに相好を崩した。 「ふふふ。冗談ですよ。私はもう野球部のコーチじゃありませんから」 「え……?」 「三年生の補習を受け持ちましたからね。時間がありません。では皆さん、気をつけてお帰りなさい。ああ、そうそう」  桐生はメガネの位置をくいっと戻すと、拓斗の耳元に顔を近づけ、何事か囁いた。すぐに体を離すと踵を返し去っていった。拓斗は、と見ると唇を噛み締め桐生の去った方を睨みつけていた。 「拓斗?」  拓斗の手をぎゅっと握って軽く引っぱる。拓斗はハッとした様子で、俺に笑顔を向けた。 「どうしたんだ、拓斗。桐生になに言われたんだ?」 「なんでもないよ。さ、帰ろっか」  拓斗は茂みの中に身をひそめていた金子に向かって声をかける。 「金子さんも、もう帰りなよ。気をつけてね」 「……はい拓斗ちゃ、宮城君、さよなら。ますたー」  がさがさと音を立て金子が茂みから出てきた。 「ますたー、ごきげんよう。明日も元気に学校に来て下さいね」  俺はふっと笑う。肩の力が抜け、今まで緊張していたことに気付いた。 「なんだよ、元気に学校来いって。来るよ。明日も」  金子はにっこり笑うと、俺たちに手を振り、茂みの中へ戻っていく。 「ごきげんよう、ますたー、宮城君。また明日」 「おい、金子、どこ行くんだよ」 「こちらにカバンを隠しておりますもので。では、失礼します」  呆気にとられた俺たちはぽかんと口を開け、しばし金子の後ろ姿を見送った。  拓斗の方を見ると、拓斗は微笑を浮かべ、俺を見つめ返してきた。 「じゃ、僕達も帰ろうか」  手をつないで校門をくぐる。  田んぼから蛙の声がうるさいくらいに響いてくる。むっとした熱が地面から立ち上る。 「拓斗、ありがとな」 「うん?」 「そばにいてくれて」 「うん。明日もそばにいるよ。明後日も。ずっと一緒にいるよ」 「……ありがとう」 「僕の方こそ、ありがとう」 「え?」  拓斗は俺の手を口元に寄せ、キスをした。 「そばにいさせてくれて。僕を嫌いにならないでくれて」  俺は拓斗が何を言っているのかよく分からなくて、握っている手に力を込めた。拓斗は俺の顔を見つめて、軽いキスをくれる。 「行こうか」  暗い道、蛙の合唱、落ちてきそうな満天の星。きっと明日も晴れるだろう。晴れなくても、雨が降っても、拓斗は俺のそばにいてくれる。俺は無性にうれしくなって、拓斗とつないだ手を大きく振った。

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