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第17話

 母ちゃんが同窓会に出席する。三十年ぶりの同窓会らしい。  温泉で一泊。同窓生一同で大宴会する予定だそうだ。  中学生ぶりだと、みんな顔も分かんないだろうな。……と言うと、母ちゃんの機嫌が急降下した。触れてほしくない話題だったらしい。ちなみに三十年前というと俺は卵ですらない。なんかSFな話を聞いてるみたいだけど。 母ちゃんは十年前のものだというスーツを引っ張り出して試着して。それ以来、うちの食事はダイエット指向になった。 肉が恋しい、白米がいとおしい。 そんな日を十日過ごし、母ちゃんは件のスーツを着て出掛けていった。  とにもかくにも。母ちゃんがいないということは家事をする人間がいないということで、掃除洗濯炊事、すべてが俺ら子供にかかってくるかと思いきや 「掃除と洗濯は私がしていくから、ごはんだけは自分たちでやりなさい」  という至上命令が出た。  ちなみに、雪人はまだ炊事などできない、調理実習も始まっていない。 妹の秋美は爪が荒れるとかで水仕事はしない。  姉の夏生は県外で自立中。もちろん家にはいない。  残る俺は、不器用で料理などしたことがない。  インスタントラーメンでお茶を濁そうと思ったのに「そんなまずいもの食べるくらいなら飢え死にした方がまし」と言う秋美の台詞で、料理せざるをえなくなった。しかし、俺は料理ができない。  と、いうことでもちろん、ここは拓斗の出番だ。 「うん、いいよ」  二つ返事で拓斗はわが家のにわかシェフに相成った。  放課後、いつものように一緒に帰る。最近はもう、俺達は一緒にいるのが普通になって、待ち合わせすらしていない。拓斗は金子と仲良くいつもの渡り廊下で談笑している。すこし妬ける。 「よ、お待たせ」 「ますたー、お疲れ様です。では、私はこれで」 「うん。金子さん、また明日」 「気を付けて帰れよ、金子」  最近は金子のストーキングも穏やかになった。というか「金子は牟田春樹の正妻である」という噂をかさに着ている節がある。いつか拓斗の氷の笑みにさらされるのではないかと少し不憫に思っている。 「いこ?」  拓斗に促され俺たちは校外に向かう。今日は家に帰るまで一緒だと思うと、なにやら胸の奥から笑いがこみあげてきた。 「なに?  なにかおかしい?」 「いや、拓斗がメシ作ってくれるのが嬉しいだけ」 「僕は作らないよ」 「え!? じゃあどうするんだ? 出前?」 拓斗は微苦笑を返す。 「それじゃあ僕が行く意味ないじゃない。教えてあげるから、春樹がつくるの」  俺は立ち止まり、さらに固まる。 「……俺、不器用だぞ」 「知ってるよ」 「ぜったい包丁で指切るぞ」 「そしたら僕が舐めて治してあげるよ」  そう言って拓斗は艶然と笑う。俺はその笑みに逆らえない。大人しくこっくりとうなずいた。 「じゃあ、買い物して帰ろうか」 「はい!! 先生!」 「なに、その先生って?」 「今日は勉強させていただきます、先生!」 「まあ、いいけどね。じゃ、このへんで一番安いスーパーに行きます」 「お供します先生!」  俺たちは並んで夕暮れの道を歩いた。  俺は「一番安い」という言葉を甘く見ていた。 「一番安い」ということは「一番競争が激しい」ということだった。さらに今の時間は夕暮れのタイムセールとかで主婦の方々の殺気が物凄い。  俺は主婦の猛攻にあらがえず、店外に押し出されたが、拓斗は軽々その波をくぐり抜け、目当てのものを勝ち取ったらしい。 「やっぱり、料理初心者ならカレーだよね」 「おお。それなら俺にもなんとかできそうな気がするぞ」  拓斗が抱えた買い物袋の中身は、にんじん、玉ねぎ、じゃがいも、鶏肉、カレールー。 「安上がりだから、チキンカレーにしようと思って」 「肉!! 鶏肉!!」 「うわ! なに!? どうしたの!?」  とつぜん踊りだした俺を拓斗は、ずざっと後ずさり珍獣を見るような目で見る。でもいいんだ。今晩はカレーだ! 肉だ! 白米だ! 「ありがとうございます、先生!」 「その先生っていうの、いい加減やめない?」  拓斗が苦笑いしている。俺としては学習させてもらう立場なんだからと敬意をはらっているつもりだったのだが。まあいい。拓斗が嫌ならしょうがない。残念だが。しかし俺は生涯、この肉の恩を忘れることはないだろう。  帰宅途中、料理のあらましを聞く。 「まず、野菜と鶏肉を一口サイズに切って、それを炒めて、水を入れて煮こむ。基本はそれだけだよ」 「おお。それなら俺にもできそうだな」 「包丁は使った事あるの?」 「小学生の調理実習の時にキュウリを切ったな」 「……まあ、なんとかなるでしょ」  中途半端な笑顔を浮かべて、拓斗はため息をついた。俺の先行きに不安があるというのだろうか? 無駄にドキドキしてきた。 「いらっしゃい! 拓斗くん!」 「こら、くんとか言うな」 「こんにちは秋美ちゃん」  拓斗が来ると、家の玄関は賑やかになる。皆が我先にと拓斗の顔を見に来るのだ。 秋美などは俺が帰っても「おかえり」の一つも言わないが、拓斗が来ると知ると、わざわざ玄関近くで待っている。  じーちゃんもばーちゃんも顔をのぞかせてにこにこしている。 「にいちゃん、お腹すいた」 「うおう! びっくりした……。冬人、頼むから忍びよらないで」 「普通に歩いて来たよ?」 「お兄ちゃん、ごはん早く作ってよ! 私もお腹すいたー!!」 「わかったわかった。すぐやるから待て」  弟妹のためにと拓斗が買ってくれていたヨーグルトを小腹用に渡して、俺と拓斗は台所に立った。 「じゃあ、まずは手を洗おう」 「え、そこから?」 「当り前でしょ、料理するんだから」  拓斗に促され、シャツの袖を捲りあげ手首まで手を洗う。指の間もきれいに洗わされた。こんなに真面目に手を洗ったのは生まれて始めてかもしれない。 「つぎに野菜を洗うよ。とくにじゃがいもは念入りに。土がついてるからね」  じゃがいもは洗ってみると、すぐに水が茶色になるくらい土がついていた。 「じゃがいもって、ほんとに畑で採れるんだな」 「そりゃそうでしょ。工場で作るほどSFな感じには、まだなっていないと思うよ」  拓斗は本なら何でも読むが、SFはとくに好きらしい。小学生のころ星新一という作家の本を勧められたが、俺にはなにが書いてあるのかさっぱりわからなかった。 「野菜を洗い終わったら、皮を向きます。ピーラーを使おうね」 「ピーラーってなんだ?」 「皮むき器だよ。包丁で皮をむくのはちょっと難しいからね。にんじんもじゃがいももこれでやっちゃって」  拓斗はピーラーの使い方を実演してくれた後、俺に手渡した。今見た通りにピーラーを動かしてみた……つもりなのだが、にんじんの皮は硬い木材のようで、ちっとも削れてくれない。 「力を入れすぎると身まで削ごうとしちゃうんだ。かるく、かるーくね」  なるほど、力を抜いて軽く引くと、面白いようにするするとにんじんの皮がむけていく。 「おおおおお。魔法のようだ」 「大げさだなあ。にんじんが終わったら、じゃがいももね」  意気揚々とじゃがいもを手に取る。  ピーラーをあて、すいっとひく。皮はむけた。むけたが、たった1センチほど。  まっすぐなにんじんと違って、じゃがいもはでこぼこしているのだと初めて気づいた。  あっちの皮を削ぎ、こっちの皮をむき、あーだこーだとこねくりまわしたが、どうやっても窪んだところの皮がむけない。 「……拓斗、……俺には無理だ……」 「もう、そんな悲壮な声を出さなくても大丈夫だよ。ほら、貸して」 言うと、拓斗は包丁で鮮やかにじゃがいもを丸裸にしていく。 「手品か……?」 「だから、大げさだって」  拓斗が苦笑いするが、俺には本当にどうしてあんなに華麗にじゃがいもを捌けるのか見当もつかない。 「玉ねぎは手で剥くだけだから、簡単だよ」 「あの……これ、どこまでが皮?」 「茶色の薄皮の一枚下まで剥いてみようか。そう、そこまで」 皮を剥かれた野菜たちがまな板の上に転がっている様は、死屍累々という形容が相応しい。俺の耐久力も一緒にまな板の上で剥かれていくみたいだ。 「じゃ、切りましょう」 「……俺はもうだめだ……俺の屍を超えていけ……」 「ほらほら、疲れている場合じゃないよ、ちゃっちゃとやらないと、お腹すかせた秋美ちゃんに噛み付かれるよ」  俺は丸めていた背中をぐいっと伸ばす。秋美なら俺の骨までしゃぶるにちがいない。  包丁を手に取り、それでも俺は逡巡した。いったいこの刃物をどう動かせば野菜を切れるのかと心細くなった。 「もう。ほら、こうしたらできるかな?」  拓斗が俺の背に負いかぶさり包丁を持った俺の手を包み込むように握る。まるで二人羽織だ。 「ってか、拓斗、また背伸びてないか?」  俺の肩に、拓斗の顎が乗っている。もしかして20センチくらい差を広げられたのではないだろうか。 「えー。どうだろ。春の身体測定から測ってないからわからないよ」  さらっと言うその口がうらめしい。あと1センチで170に届く俺はほぼ毎日身長を測っていると言うのに……。 「ま、それは置いておいて。切ろうか」  二人羽織の拓斗はすいすいと手を動かし、きれいに野菜を切っていく。どの切片も違う形なのに、どれも同じくらいの大きさに切り分けられていく。 「すげえ、定規で測ったみたいだ」 「測らないよ。春樹も慣れたらできるよ」  へえ、と感心して手元を見ていると、拓斗がすいっと両手を離した。 「はい、見本終わり。あとは一人でやってみて」 「ええ! 無理だよ! どうしたらいいの」 俺が狼狽する姿を、拓斗がクスクスと笑う。 「いま見てたでしょ。怖がらなくてもいいよ。多少歪んでも、多少大きさが不揃いでもカレーなら美味しくできるから」 「ホントだな!? 絶対だな!?」 「ほんと、ほんと、大丈夫だったら」  拓斗に背中を押され、俺は包丁をそっとにんじんにあてる。そっとそっと包丁を引いていく。にんじんに薄く切れ目が入る。 「き、きれてる?」 「きれてる、きれてる。大丈夫」  拓斗に背中を叩いてもらって、俺は次のにんじんに向かう。  包丁をそっとにんじんにあてる。そっとそっと包丁を引いていく。にんじんに薄く切れ目が入る。 「き、きれてる?」 「もう、かわいいなあ」  拓斗が後ろから俺に負い被さりうなじにキスをする。 「ちょ、やめ、やめて! 手元が狂う!」 「手元なんかはじめから狂いっぱなしじゃない」  なんてことを言うんだ。一生懸命に包丁を握る俺に対する謀反だな。 「頑張ってるんです!」  俺は精一杯の抗弁をした。拓斗はクスッと俺の耳元で笑うと、俺の顎に手をかけ唇を合わせようとして…… 「にいちゃん……」 「どぅわ!!」  俺のシャツの裾を冬人がつんつんと引っ張っている。 「ど、どうした、冬人?」 「おなかすいたよう」  どうやら、小腹満たしのヨーグルトの効力が切れたらしい。 「まってな、すぐできるからな」 「うん」  素直にうなずいて冬人は居間に戻っていった。 「……」 「……じゃ、真面目に作ろうか」  言って、拓斗はスッと俺から体を離した。なんだか妙に背中が寂しい。  が、俺は野菜切りに精魂をかけた。ジャガイモをブツりと切り、玉ねぎをガシャリと切った。 「……まあね、食べられれば、それでいいよね」  拓斗の微妙なコメントは、たぶん俺の調理作品への高尚なオマージュだったのだと思うことにする。 「やっと野菜が終わったね」 「……お手数をおかけして面目次第もございません」 「なに言ってるの。ほら、次は君の好きなお肉だよ」  肉。  何より甘美なその響き。たとえ鶏肉だとしても、ここ数日のダイエット食にくらべたら、天上の食べ物だと言える。 「肉はあれだよな! でかければでかいほどうまいよな!」 「うーーーーーん。期待されるほど大量のお肉は買ってないんだ」  申し訳なさそうに言う拓斗が差し出したパックには「鶏胸肉400g」と書いてある。 「400g……。多いのか少ないのかわからん」 「カレーのルーのレシピ通りなら適量だね」 「うん。ならおっけーだ」  拓斗の手から鶏のパックを受け取り、切っていく。 「あ、あーあーあー。ちょっ……と大きいかなあ」 「食えないくらい?」 「いや、そこまではないよね」 「じゃあ、いいんじゃない?」  俺がずばずばと鶏の肉を千切るように切っている後ろで拓斗がぼそりと呟く。 「先にお肉から切れば良かったよね」 「ん? なんか言ったか?」  拓斗は綺麗な笑顔でこちらを向いて小首をかしげる。 「ううん、なんでもないよ。春樹は包丁捌きがきれいになったなーって言っただけ」 「え、そうか? そうかな。 えへへへへ」  鼻の頭をぽりぽりとかくと、なんとなく鶏肉の臭いがした。  拓斗の指導で手を洗わされる。深鍋に油を投入して火にかける。 「油が温まったら、固い具材からいためていくよ」 「固いって……じゃがいもかな」 「うーん。それよりにんじんが先かな? どっちでもいい気もするけど」 「じゃあ、一緒に入れちまうか」  俺は拓斗の返事も待たずに野菜を鍋にぶち込んだ。 「うわっち!!」 「大丈夫!?」  拓斗が俺の手をとり覗き込む。 「だ、だいじょうぶ、だ、と思う。ちょっと熱かったけど」  俺の手をしげしげ見ていた拓斗が、その手をぺろりと舐める。俺の背筋に稲妻が走る。 「もう。気をつけてよ。油はすごくはねるんだから。火傷しちゃうよ」  何事もなかったように俺から離れた場所に立った拓斗に、俺はSOSを発した。 「せ、先生、ギブアップです……」 「え? もう?」 「もう、俺、だめです」 「思ったより早かったなあ。僕の予想では鶏肉を投入して大量の油撥ねを経験してからだと思ってたんだけど……」 「拓斗、いいから!! はやく! 野菜がこげる!」 「はいはい」  俺が手にしていた木ベラを受け取り、拓斗は鍋に歩み寄る。油撥ねを恐れもせず、ざくざくと野菜を炒めていく。 「おおおおー」 「感心するほどのことじゃないよ。春樹だってやろうと思えばできるんだよ」 「いや、俺のやる気は他の時にとっておきたい」 「他の時って?」  拓斗が鍋に鶏肉を投入しながらたずねる。鍋がじゅーーーっと熱そうな音をたて、油がバチバチ撥ねる。拓斗はそんなこと気にもしないそぶりで鶏肉をごろごろと炒めていく。 「ほかのときって……ほら、野球の時とかだよ」 「それは普段からやるき満々じゃない。今更言うことじゃないよね」 「え、そうかあ?」 「そうだよ。他にないの?」 「うーーーーん。じゃあ、勉強する時?」  木ベラでぐわしぐわしと鍋の中身を転がしながら、拓斗が渋い顔をする。 「本気で言ってる?」 「……ごめん、嘘気です」  そんなバカ話をしながらも拓斗の手はとまらず、鍋に水を投入し、灰汁をとり、火を弱めてことこと煮込む体勢にはいった。 「これでしばらく煮込んで、ルーを入れたらできあがり」 「おお。もうできますか」 「春樹が思ったより具材を小さく切ってくれたから、早く煮上がるよ」 「お、俺が役に立ったな」 「そうとも言える」 「いや、そうと言ってよ」  そうこう言っているうちに「しばらく」は過ぎたようで、拓斗はカレーのルーを鍋に投入してぐるぐるとかき混ぜた。あたりにカレーのいいニオイが漂う。 「腹減ってきたな」 「すぐできるからね。秋美ちゃんたちを呼んで来てよ」  俺は至上命令を胸に居間に向かった。そこには、秋美と冬人がポテチを食い荒らす姿があった。 「お前たち、夕飯前にポテチなんか食って……」 「ポテチは別腹」 「にいちゃん、おなかすいたよう」  俺は何も言い返すことができず、すごすごと二人をダイニングに招きいれた。  じいちゃん、ばあちゃんもそろって、みんなで食卓を囲む。結局カレーは拓斗が作ったようなものだけど、ばあちゃんはしきりに 「春樹が切ったにんじんはおいしいねえ」  と誉めそやした。俺はこそばゆさと共に妙な達成感を覚えた。  食後の片づけを終え、俺と拓斗は俺の部屋に引っ込んだ。案の定秋美がついてこようとしたが、俺が「や」と言っただけで逃げていった。妹よ、そこまで逃げられると兄ちゃんは傷つくぞ。  ぱたんと扉が閉まると、拓斗が俺の唇にむしゃぶりついてきた。突然の抱擁に俺は面食らって動くこともできない。そんな俺の心を知ってか知らずか拓斗は俺の口中を蹂躙する。俺はそっと拓斗の背に腕を回した。  息が苦しくなったころ、拓斗はやっと唇を離した。しかし体は離れることなくぎゅっと俺を掻き抱いた。 「春樹……。ごめん」 「なんだよ、なにあやまってるんだよ」  拓斗は俺の肩から頭を上げると、額をこつんとあわせて微笑んだ。 「僕、君がいないと生きていけないみたいだ。君が僕から逃げたくても、きっと僕は君を離しはしない」  俺は拓斗の瞳を覗き込む。そこには何か仄暗い光が宿っているように見える。けれどその暗がりは俺を恐れさせはしない。俺は両手で拓斗の頬をはさみ、軽いキスをする。 「離さないで」  俺はその暗がりを知っている。それは俺のなかにもたしかにあるもので。  俺はそれを見抜かれないように、拓斗の肩に額をつけた。

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