30 / 68

第30話

 選抜高校野球大会 夏の大会が始まった。   「よお、どうしたどうした、声が出てないぞう」  橋詰に横っ腹をど突かれた。 「うぐほ! やめろ、お、お、お前こそ真面目に応援、しろよ」 「してるよ。てか、お前まわり見えてないだろ」 「み、見てるよ!!」  先攻のウチは、すでに三回の表だというのに得点がない。  の、に。  すでに三点とられている。  俺のせいだ。 「おら! また見てないじゃねーか。お前まだあと二回投げるんだからな。ピッチャーなんだぞ、しっかりしろよ!」  橋詰にまた腹をどつかれる。力が入らない。手が冷たい。 「牟田君、大丈夫ですか?」  振り返ると桐生先生が俺の顔をのぞきこんできた。思わず腰がひける。 「だ、だ、大丈夫です!」 「顔が青いですよ」  桐生先生の手が、俺の肩にかかる。俺は思わず立ち上がって飛びすさった。 「牟田君?」 「春樹、どうした?」 「やっ、なっ、なんでも……」 「おい、春樹」  桐生先生の背中越しに、松田先輩の声が飛んできた。 「お前はなんも考えなくていいんだよ。何点とられても俺がとりかえす」  松田先輩が拳をつきだす。 「せんぱい……」 「思いっきり投げてこいよ!! ほら、行け」 「は……、はい」  グラウンドに駆け出す。しかし、心はついてこない。  夏大会、予選第一試合、先発はなんと俺だった。  肩をいためてから、復帰したばかりの松田先輩をできるだけ休ませるため、なのだが。  俺はぱかぱか打たれ、四球を出し、打席にたてば三振だった。先輩を休ませるどころか、負担を増やすばかりだ。  マウンドに立ち、キャッチャーの原先輩からボールを受けとる。 「っ……」  ボールがとてつもなく重く感じる。  相手チームのバッターが打席に立つ。俺の右手の中のボールはますます重くなる。  耳のなか、ドクドクと脈の音だけがする。目の前が暗くなる。キャッチャーのサインが見えない。 「―――!」  声が、耳に飛び込んできた。 「春樹―! いけー!」  松田先輩の声だ。先輩が俺の後ろにいる。先輩がいたら大丈夫。ぜったい、大丈夫だ。  俺はぎゅっとボールを握り、大きく振りかぶった。 「まあ、そんなに落ち込まないで」 「はあ」  桐生先生に背中をぽんと叩かれる。俺は力なくうなずく。  あれから俺の投球はやや安定し、失点は一点だけだった。五回からは松田先輩と交代した。 「まかせとけ」  そう言って俺の肩をたたいた先輩は、無失点、六打点。  試合は二点差でウチの学校が勝った。  嬉しい。  もちろん、嬉しい。  けど……。 「おら、勝ったのに湿ったツラしてんじゃねー」  松田先輩に背中をどつかれた。 「せ、せんぱい、すんません、俺……」 「だぁから! 勝ったんだから嬉しがれっつの」 「けど俺、四点もとられて……」 「だあから!」  がば、と首を抱き込まれ、頭をぐりぐりと撫でられた。 「俺がとりかえすって、いつも言ってるだろ!! 俺を信じろ!!」  首がしまって息が苦しい。 「……はぃぃ」  かろうじて返事をすると、松田先輩はやっと離してくれた。 「春樹―!」  拓斗がぶんぶんと手を振りながら走ってくる。 「お。お前の嫁が来たぞ、春樹」 「嫁じゃないっす」 「なんだ、お前の方が嫁なの」 「よ、嫁じゃないっす!!」 「春樹!」  拓斗が桐生先生を大きく迂回して俺のもとに走ってきた。 「おめでとう!! 勝ったね」 「おい、宮城。功労賞の俺に挨拶はなしか」 「あ、おめでとうございます、松田先輩」  拓斗はにこりともせず松田先輩を横目で見る。 「かわいげねーなー、相変わらずお前はよ。春樹、なんとか言ってやれ」 「え、えっと……。あ、先輩!! もう移動みたいっす!!」 「お。命拾いしたな春樹。先行ってる。お前もいちゃつくのはいいかげんにして、早く来いよ」 「い、いちゃつきません!」  松田先輩はひらひらと手を振り行ってしまった。 「春樹、かっこよかった!!」  拓斗が俺の両手を握って言う。俺はうつむき目をそらす。 「かっこよくねえよ。投げるのも打つのも、ぼろぼろだったろ」 「うん。ぼろぼろだった」 「おまっ……!」  顔をあげると、拓斗は真っ直ぐに俺の目を見つめた。 「でも、あきらめなかった」 「……うん」  下を向く。顔を上げられない。目が潤んでいる。 「さ、みんな待ってるよ。行きなよ」 「うん」  汗を拭くふりをして涙をぬぐう。 「あとで学校でね」 「おう」  拓斗に見送られ、チームメイトのもとへ走った。  学校に戻るマイクロバスの中、騒ぎ疲れた部員たちは次々と撃沈していき、起きているのは俺と松田先輩だけみたいだった。 「春樹」  先輩が小声で俺にささやく。 「はい?」  俺も声をひそめて返事する。 「お前ら、どこまでいってんの」 「お前ら、って……」 「宮城だよ。もうやったのか?」 「やっ……! な、なんですか!!」 「声がでけーよ。で、やっぱお前がやられる方なわけ?」  俺は返す言葉がなくパクパクと口を開け閉めした。けれど、首まで真っ赤になった俺を見て、松田先輩はなにか納得してしまったようだった。 「ふうん。やっぱりか」  松田先輩は視線をそらすと呟いた。 「お前、かわいいもんな」  俺はやっぱりパクパクと何も言えずにいた。先輩はすぐに目をつぶって眠ってしまったようだった。  学校につくと、軽いミーティングだけで、すぐに解散になった。  部室へ向かっていると、拓斗を見つけた。金子と、天文部の新人斉藤も一緒にいる。なにやらもめているようだ。 「……だから! あんたはすっこんでなさいよ!」 「すっこめません! 天文部に桐生先生なんて絶対ダメです!!」  拓斗がため息をついたところに割って入る。 「まーた、もめてるのか」  金子が勢いよく俺の腕を掴み揺する。 「ますたーからも言ってやってください!」 「二人とも諦めろよ。桐生先生は野球部の顧問なんだから」 「諦めないわよ!!」 「そうですよ!! なんとしても桐生を野球部からひっぺがします!」  俺はため息をつく。 「なんだ。夫婦喧嘩か」  いつやって来たのか、松田先輩が俺と拓斗の間に割って入った。 「夫婦じゃありません」 「喧嘩しません」  俺と拓斗の台詞は鼻で笑われた。 「見りゃわかるよ。で? 女子二人はまた不毛な桐生争いか。桐生狙いは競争率高いぞ」 「不毛じゃないもん!」 「桐生狙いじゃありませんですよ!」 「はいはい。おら、行くぞ春樹」  松田先輩が俺の腕をとり引っ張る。俺は引かれるまま歩き出し、拓斗は眉をひそめた。 「お前ら、同棲してるんだってな」  人気のないところまで歩いて、松田先輩は手を離した。  俺はバスの中での会話を思い出してしまって、先輩の顔を見ることができない。 「……否定しないんだな」 「ど、同居です」 「おせーんだよ」  先輩は軽く俺の頬にジャブをくり出す。 「……幸せか?」  俺は首まで真っ赤になったのだろう。 「正直なやつ。まあ、幸せならいいんじゃねーの」 「いい、ですか」 「いいだろうよ。けど、不幸せだって思ったら」  先輩がくるりと振り返り俺の肩に手をおく。ぐっと顔が近づく。 「俺のところに来い」  それだけ言うと、先輩は俺を置いて行ってしまった。俺は呆然として松田先輩の後ろ姿を見送った。  着替えて部室を出ると拓斗が待っていた。 「お疲れ様」 「おう」  二人並んで歩き出す。西陽がまぶしい。 「ねえ、松田先輩ってどんな人?」  俺は一瞬かたまった。 「な、なんで?」  拓斗はうつむいたまま首を振る。 「なんとなく。でも……。なんでもないんだ。忘れて」  そう言って顔をあげた拓斗の目は暗かった。  二回戦はそれから二日後。  松田先輩の調子が戻っていたため俺はベンチウォーマーになっている。今日は腹の底から声が出た。  得点は一点差で負けている。  ランナー一、二塁。バッターボックスには松田先輩。 「かっせー!」  投手の左腕から繰り出されたのはスライダー。  松田先輩のバットがボールを叩き、 「うおおおお!!」  大歓声が湧き上がった。  ボールは美しい放物線を描き、外野席まで飛んだ。松田先輩は悠々と走りホームベースを踏む。応援席から校歌が聞こえてきた。 「おら、見たか!!」  戻ってきた松田先輩に肩をどつかれた。 「見てました! かっこよかったです!!」  松田先輩は一瞬、不可思議な顔をしたが、すぐに破顔した。 「だろ?」  それから松田先輩はみんなにもみくちゃにされていた。  試合はトントン拍子に進み、俺たちは勝ち上がった。 「もう一度、春樹に投げさせてください」  翌日の朝、ミーティングで松田先輩が言った。  みんなギョッとした顔をしたが、一番驚いたのは俺だ。 「松田、どこか悪いのか」  監督が心配げにたずねる。 「絶好調っす。けど、春樹に場数を踏ませたいんす」 「それはそうだが、なにもこんな時期に……」 「こいつはバケます」  俺は松田先輩を仰ぎ見る。先輩はまっすぐな目で俺の視線を捕らえた。俺の胸がどくりと音を立てた。 「春樹、やれるか?」  監督に問われたとき、俺は思わず大きくうなずいた。 「はい!」  次の試合、俺はまた先発でマウンドに立った。  俺が投げられるのは二回まで。その後は松田先輩が押さえてくれる。俺は俺のできることを精一杯やればいい。  後ろに松田先輩がいると思うだけで落ち着ける。何があっても先輩なら大丈夫だ。先輩がそう言ってくれた。  俺は大きく息を吸い、ボールを投げた。  ヒットを四本打たれ、1対1のまま、先輩と交代した。 「よくやった。あとは俺にまかせろ」  そう言ってマウンドに出ていく先輩の背中は大きくて、俺の肩からこわばっていた力が抜けるのを感じた。 「お疲れ様でした、牟田君」  ベンチに座ると桐生先生から声をかけられた。  びくっとすくんでしまったが、なんとか取り繕って半笑いを浮かべる。 「ど、どうもっす」 「松田君は君をずいぶん買っているようですね」  桐生先生は真顔で言う。なんだかやけに真剣だ。 「そう……、ですかね?」 「君が来年はエースだからというだけではなさそうだ。そう思いませんか?」 「え……?」 「それ以上の親密さがあるように思えるのですよ」 『不幸せだと思ったら、俺のところへ来い』  あの台詞を思い出す。  桐生先生は俺の顔をじっと見ていたが、ふいっと目をそらした。 「その話はいずれまた。今は試合に集中しましょうか」 「はい……」  俺もグラウンドに目を戻した。松田先輩の真剣な姿が映る。  先輩はなんであんなことを言ったんだろう……。  その日も次の試合も勝ち越して、俺たちは決勝まで進んだ。  さすがにそこでは俺の出番はなくて、松田先輩がすべて投げた。  途中、凡ミスで一点とられ、その一点で俺たちは負けた。  三年の先輩たちが涙を流す中、松田先輩だけは無表情に球場をあとにした。  それからすぐ合宿が始まった。俺たちは秋に、春に、来年の夏に向けて動き出す。 「おいこら、春樹」  合宿所の炊事場で松田先輩に尻を蹴られた。結構本気だった。 「ってー……」 「お前、芋の皮を剥けって言ってんだろ。芋を削るな」  俺と松田先輩は今日の炊事当番で、今日のメニューは肉じゃがだ。 「むりっす、先輩。俺にはこれ以上できません」  よそ見したとたん、包丁がサクッと俺の皮膚を切った。 「いってぇ……」 「大丈夫か」  俺の手を取り、先輩がぺろりと舐めた。  俺は驚いて固まってしまい、先輩は俺の指先から玉になって溢れる血をぺろりぺろりと舐め続ける。 「せ、せんぱい……」 「なあ、俺が前言ったこと、覚えてるか」 「前って……」 「不幸せだと思ったら来いって言ったけど」  先輩は俺の手をぎゅっと握りしめた。 「今すぐ来い」  そう言うと、俺の背をぐいっと引き、唇をあわせた。 「!!」  俺はもがいて先輩を突き飛ばし逃げ出した。 「春樹!」  先輩の声が追いかけてきたけど足を止めることはできなかった。    合宿所の裏まで走って息を整える。  何が起きたかわからなかった。  先輩が、俺を……?  結局、俺は炊事場に戻ることができず、養護室へ逃げ込んだ。 「! ……桐生先生」  机に向かっていた桐生先生は俺の方にちらりと一瞥くれると、興味なさげに目を机に戻した。 「牟田君。どこか具合でも?」 「いえ、あの、大丈夫です」  先生はふと思い付いたというように顔を上げ、椅子を回して振り向いた。 「松田君と何かありましたか」  俺は目をそらし下を向いた。 「愛の告白でもされましたか」 「あ、あいって……」 「違いましたか? ではいきなり押し倒された、とか?」 「そ、そんなこと松田先輩はしない!」 「私とは違って?」  黙りこんだ俺を桐生先生は可笑しそうに笑う。俺は緊張して手を握りしめた。 「そんなに固くならなくても、こんなところで何もしませんよ。それより早く調理に戻ったらいかがです」 「……もどれません」  先生はやれやれ、というように首をふり、椅子をくるりと回して俺に背を向けた。 「逃げ場なんてここにはありませんよ」  逃げて……。  俺は先輩から逃げていいのか? 「……失礼しました」  からりと扉を引き、廊下に出る。この廊下の突き当たりに先輩はいる。  俺は覚悟を決めて炊事場に戻った。 「遅いぞ、春樹! サボってんじゃねーよ」  俺の意気込みは、松田先輩のセリフで掻き消えた。先輩はいつもの調子で俺の尻を蹴る。結構本気だ。 「おら、食器の準備してろ」 「は、はい!!」  鍋からは肉じゃがの良い匂いがしていて、米がたける湯気がたちのぼり、のどかな夕景を描いている。  さっきのことは夢かなにかだったみたいだ。先輩の背中を盗み見る。何事もなかったように立ち働いている。  俺はほっと胸をなでおろした。 「あきらめたわけじゃねーからな」  食後に皿を洗っていると、先輩が顔を寄せて囁いた。 「え……!」 「油断してたら、かっさらうぞ」  俺は手にしていた湯飲みを取り落とし、先輩はそれを華麗にキャッチして、にやりと笑ってみせた。  俺は目を見開いたまま、何も言い返せずにいた。

ともだちにシェアしよう!