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第36話

 ところはロンドン。時刻は現地時間16時。ようよう帰りついた寄宿舎のベッドにつっぷす俺。耳からthatやbutやbatやbananaが飛び出しそうだ。 Banana's are sticking out of my ears. 「春樹、だいじょうぶ?」  拓斗が心配そうに俺の背中をなでる。 「俺はもうだめだ……。俺の屍をこえていけ……」  ばたりと顔をふせた俺の頭を、拓斗がぐりぐりと撫でる。 「もう、またそんな事言って。語学研修、今日で終わりだよ? 明日から観光だってば」  部屋の向こうから伊達と安西が明るい声を上げる。 「おーー! 明日は英語を詰め込まなくてすむぞ!」 「もう Please be quiet. は聞かなくてすむんだあああ!」  雄たけびを上げ両の拳を突き上げる二人を、拓斗は苦笑しながら見つめた。 「二人とも、よっぽど語学研修がつらかったんだね」 「あたりまえだろ!」 「平気なのは宮城くらいだ!!」 「見ろ! 牟田なんか大英博物館のミイラそのものだ!」  揶揄された俺はまさに死体同然に寝床に伏したままピクリとも動けない。 「もう、みんな冗談ばっかり。レクチャーの間生き生きしてたじゃない」  伊達が悲壮な声を上げる。 「そんなの Miss.Smith のご機嫌取りにきまっているだろう!」  安西がおののく。 「まさか宮城、貴様の天真爛漫さは素だったというのか!!」  俺はよろよろと身を起こして言う。 「拓斗に社交辞令はありえない。こいつはいつでも真っ正直だ……」 「ありえねーー!!」 「宮城、さては天使だな!?」   俺たち三人はぎゃーぎゃーゴロゴロと寝台の上を転がる。 「もう、みんな遊びすぎだってば。いい加減、制服ぬいだら?」  茅島高校の修学旅行は例年、イギリスでの英語力アップ研修だ。  海外からイギリスへの留学者を対象にした語学学校が、留学生が進学してしまう9月から次の学生の募集までの一週間、俺たち日本人を受け入れて短期集中講座を開いてくれる。なんともありがたい話だ。  が。英語が全く喋れない留学生に一年で大学英語を叩きこむ学校だけあって、講義のスピードは速く、講師はスパルタだった。とくに俺たちのクラスの Miss.Smith は古き良き時代のイングランドの歴史を体現したような人物で、手に持ったムチを振るわないのがせめてもの救いだった。 「でもさ、なんとなく観光で英語使うのが怖くなくなったような気がするんだ、俺」  安西の呟きに伊達がうなずく。 「修学旅行らしく集団行動が無いのも語学研修の一環なのかもしれんな」 「安西と伊達は自由行動誰と回るんだ?」  二人は顔を見合わせてにやりと笑う。 「国語の黒田先生と回る」  にやりとニヒルにつぶやいた伊達の言葉に拓斗が首をかしげる。 「なんで先生と一緒なの? あんまり自由な感じしないんじゃない?」 「なに言ってんだ!? 宮城、お前、黒田先生の威力を知らんのか!?」  安西も同調する。 「黒田先生の周りにはなあ、女子が集団でついてくるんだよ!」 「ああ、そういう……」  国語担当の黒田先生はその端正な顔立ちとやわらかな立ち居振る舞いで、女子から莫大な人気を得ている。桐生先生が赴任してきてからは女子からの人気は二分されたようだが、今回の旅行には桐生先生は来ていない。黒田先生の独壇場だ。黒田先生ファンの女子が集団で一緒に行動するのだと金子が言っていた。  と、その時、ドアをノックする音がした。古式ゆかしいこの寄宿舎に相応しい重厚な音がする。 「ますたー、た……宮城君、こんにちは」  ドアを開けて、金子が入ってきた。安西と伊達がバッと立ち上がり居住まいを正す。俺はごろごろしたまま金子の方に顔を向けた。 「おお、金子。もう着替えてんのか」  金子はジーンズ姿で、よくわからないキャラクターの描いてあるロングTシャツを着て、三つ編みという出で立ちで立っている。 「セーラー服はじつは肩がこるんですよ、ますたー」 「おばちゃんみたいなこと言うんだな」 「金子さん!! ようこそ! どうぞ中へ!」  安西が嬉々として金子を招き入れる。 「どうぞどうぞ! さ、座って座って!」  伊達が椅子を差し出す。 「じゃあ、遠慮なく。ぐふふ」  金子は気味の悪い笑いを浮かべてきょろきょろと室内を見回す。 「どうした、金子。寄宿舎がめずらしいのか?」 「そうですとも! ますたー! イギリスの寄宿舎ですよ! これが興奮せずにいられましょうか!」 「いや、しらねーよ」 「とくに最上階のこの部屋はいい!! 屋根裏で斜めになった天上! 一室だけ特別な四人部屋! 歴史の中でどんな人間ドラマが展開されていたのかと思うと、もう、もう……」 「人間ドラマっていうか、耽美な系統の話だよね」  金子はきらきらした瞳で拓斗を見返る。 「さすが拓斗ちゃま! わかっていらっしゃる!」 「ちゃまはやめてね」  安西達が会話に入りたくてそわそわうずうずしている。俺は仕方なく、二人に話を振ってやる。 「金子、お前確か黒田先生たちと観光するんだったよな。安西と伊達もそうらしいぞ」  金子はくるん、と二人に顔を向ける。 「そうなんだよ、金子さん! 俺たち一緒だね!」 「明日からよろしく」 「お二人は黒田先生のふぁんですか!?」  金子が噛みつかんばかりの勢いで聞く。 「ファンっていうか、じょしが……」  なにか言いかけた安西の口を、伊達が枕で押さえつけ塞ぐ。 「そうなんだよ! 俺たち黒田先生と観光できるのが嬉しくてさ!」 「そうでしたか! やはり黒田先生の魅力をわかってくれる男子はいたのですね! あのアンニュイな物腰、細く長い指、白皙の横顔! 隣を歩くのは男子こそふさわしい!」 「そうだとも金子さん! 明日は俺たち黒田先生の隣を歩くから、金子さん一緒に歩いてくれよ!」 「本当ですか!? 金子、楽しみにしています!」  二人ときゃいきゃいと明日の約束をして、金子は上機嫌で帰っていった。 「牟田! 金子さんと友達でいてくれてありがとう!」 「……期待されているのは耽美系な事なんだけどな……」  安西の言葉に俺はそっと呟いた。  翌日。  よく晴れた青空の下、陽気に手を振って安西と伊達は出かけていった。 「じゃあ、僕たちも行こうか」 「おう」  俺たちは徒歩で行けるコヴェントガーデンへ行って腹ごしらえ。朝食は寄宿舎で出るのだが、今日は観光メシを楽しみに控えめにすませていたのだ。 「コヴェントガーデンって『マイフェア・レディ』のロケ地だったんだって」 「へえ。その映画見た事ないや」 「古い映画だからね」 「だれが出てるの?」 「 Audrey Hepburn」 「おお。クイーンズイングリッシュでくるか」 「Yes,I can」 「Me too」  比較的空いているカフェを選んで俺は念願のフィッシュ&チップス。拓斗はなぜかコロッケを食べている。 「なぜにコロッケ?」 「croquette」 「croquette。それってフランス発祥じゃなかった?」 「うん。ケバブにしようか迷ったんだけどね」 「国際的だな」 「国際都市ロンドン的でしょ」  国際色豊かな食事を堪能して、一日分の交通手段としてトラベルカードを買って、地下鉄・チューブに乗る。目的地はベイカー街221B。 「わー。楽しみだねえ、シャーロック・ホームズの家」 「なあ、結局、ホームズって実在なの? フィクションなの?」 「ついたらわかるって」  と、言われてついたベーカーストリート駅は、どこもかしこもシャーロック・ホームズだらけ。壁にはホームズの横顔が描いてあり、ホームズ帽子をかぶった子供が歩いていたりする。  地上に出て221B番地にやってきてやっとわかった。ここはホームズの作品に出てくるホームズの家を再現してある博物館だった。 「見て見て、石炭入れの中に葉巻が入ってるよ」 「それは本に出てきたのか?」 「そう。それに部屋の散らかり具合も本当っぽい。すごいなあ。愛があるよね」 「ここにいる客がみんなホームズファンなんだな」 「シャーロキアンって言うんだって、熱狂的なシャーロック・ホームズファンのこと」 「へえ。固有名詞まであるのか」  ホームズの書斎や陳列されたパイプ、陶製の綺麗なトイレを見たり、本の登場人物の蝋人形の前で写真を撮ったりして午前中いっぱいホームズ博物館を堪能した。出がけにギフトショップものぞいてみる。 「あ! アヒル隊長!」  拓斗に袖を引っ張られ見ると、シャーロック・ホームズの仮装をしたアヒルのおもちゃが陳列されていた。 「おお。本当だ。イギリスにもいるんだな、アヒル隊長」 「出身はもしかしたら英国だったのかな?」 「そうかもしれないな。なんか紳士っぽいもんな」  ホームズハットとコートを着てパイプをくわえたそのアヒル隊長を拓斗は三つ買った。 「三つもどうするんだ?」 「一つは僕ので、二つは冬人と秋美ちゃんにおみやげ」 「そうだった、俺も何か買わなきゃ」  無難にボールペンなど買ってベーカー街を後にする。コンビニで買ったサンドイッチをかじりながら、今度もチューブでタワー・ヒル駅へ。 「さあ、さあ、さあ、さあ! やってきました、ロンドン塔!」 「そんなに楽しみだったのか?」 「うん! すっごく楽しみ! ねえ、ヨーマン・ウォーダー・ツアーに参加しよう!」 「ヨーマン・ウォーダー・ツアーって何?」 「ヨーマン・ウォーダーっていう役職の人がお城の中を案内してくれるんだよ。オリジナルの解説付きで!」 「解説って英語だよな。聞きとれる自信がない……」 「大丈夫だって! わからないところは僕が翻訳してあげるから! ほら、行こう」  ツアーは30分おきに出発しているそうで、待ち時間もほとんどなく参加することができた。ヨーマン・ウォーダーは黒地に赤で装飾が入った古式ゆかしい衣装に身を包み、おそろいのハットをかぶったおじいさんだった。ヨーマン・ウォーダーは何人もいて、みな同じ衣装、同じような年齢。なにやらみんな退役軍人の再就職で名誉職なのだ、というようなことを言っていたように思う。たぶん。クイーンズイングリッシュで。  おじいさんは陽気に喋り、外国人にもわかりやすい発音で、俺も楽しく聞くことができた。途中までは。   「……なあ、今、ここは牢獄だった部屋だって言わなかった?」 「……なあ、今、ここは処刑場だった広場だって言わなかった?」 「……なあ、今、ここは拷問部屋だって言わなかった? ってか、あれ、あからさまに拷問道具だよな!!」  俺の叫びに拓斗は一々笑顔で「そうだよ」と答える。俺は赤黒く錆びた鉄板に何に使ったか想像もしたくないパイプがついた代物から目を背けようとしたが、拓斗が俺の顔を両手ではさみ、むりやり拷問具の方へ向けようとする。 「や、やめろよ!」 「大丈夫だって。今は血なんかついてないって」 「当たり前だろ!」 「でもあのサビは血痕のせいかもね~」 「やめろよ!」 「今も拷問された人の無念が残ってるかも……」 「わー! わー! わー!」  耳をふさいで叫ぶ俺の手を拓斗がむりやり外そうとしてくる。俺は必死で抵抗する。騒いでいると、ヨーマン・ウォーダーに紳士的に叱られた。  それからも拓斗はことあるごとに 「ほら、この石壁、囚人が逃げられないように高くなってるんだよ」  とか 「この部屋に住んでいたアン・ブリーマンが処刑された時の様子はねえ……」  とか、はっきり聞きとれる日本語で解説してくる。 「お前、ヨーマン・ウォーダーより詳しい説明してんじゃねえよ!」  と俺が叫ぶと、拓斗はにやにやしながら「翻訳サービスだよ」といい加減な事を言った。  後半は城の歴史を紹介した博物館スペースで、そこでは明るい照明の下、明るい展示物が観光客を迎えている。  しかし俺は、ぴかぴか輝く甲冑に血がついていないかと恐れ、歴代の王の顔だけの彫刻が、ずらりと並んだ生首に見え、拓斗の腕をつかんでびくびくしながら進んだ。 「ほら、春樹。世界一大きなダイヤモンドだって」 「うるさい! 石なんかどうでもいい! もうこの城いやだ!」  俺が涙目でうったえると、拓斗はにやにやをさらに、にやにやさせて俺の手を取った。 「ではお姫様、僕が苦渋の城から助け出してあげましょう」 「お前が連れ込んだんじゃないか!!」 「あははははは」  ほがらかに笑う拓斗に手を引かれ、俺は血に濡れたロンドン塔から脱出した。 「ほらほら、春樹」 「な、なんだよ!」  また怖い話を聞かされるのかとびくびくした俺を、拓斗が楽しそうに笑う。 「あれ、あそこタワーブリッジ、開きそうだよ」  指差されたところにあるのは、華麗な装飾をほどこされたお城のような塔が二つ。その間にかかっている橋が、ゆっくりと開いているところだった。 「おお。すごい。あんなにでっかい橋なのに開くんだ」 「ね。通る船もでっかいね」  俺たちはたっぷり二十分はかかる開閉をじっくりと堪能した。 「そう言えば、ロンドン橋って歌があるじゃない? あの橋もすぐそばらしいよ」 「へえ、行ってみるか」 「ロンドン橋って嵐で何度も流されたから、人柱を沈めて……」 「わー! わー! わー!」  怖い話を始めた拓斗を黙らせて、俺たちはその場を後にした。  その後、拓斗がホテルのラウンジでアフタヌーンティをおごってくれたけれど、正直、味はほとんどわからなかった……。  俺は疲れてボロボロの状態で、拓斗は嬉しそうに意気揚々と、宿舎に戻ってみると安西と伊達がどんよりとベッドに倒れ伏していた。 「あれ? お前ら早かったんだな」 「……もう、やってられねえよ」 「何かあったの?」  伊達ががば! っと跳ね起き天をあおいだ。 「もう俺は女なんか信じない!」 「そうだそうだ……」  安西が力なく同意する。 「女なんてみんな、お花の皮をかぶった鬼だ! 悪魔だ! サタンの手下だ!」 「そうだそうだ……」 「いったい何があったんだよ。金子といっしょだったんじゃなかったっけ?」 「金子さんは俺たちと一緒だったわけじゃない! 黒田先生といっしょにいて、俺たちはそこにくっついていた金魚のフンだ!」 「そうだ……。俺たちなんか金魚のフン程度の価値しかないんだ……」 「女の戦いはこええよ。俺には黒田先生をとりまくどろどろした黒い執念が見えたよ」 「俺にも見えた」 「けど金子がそんな普通の女子みたいなことするなんて思えないけどな」  俺がぼそりというと、二人はぎろりと俺を睨んだ。 「そんなこと、金子さんに好かれてるから言えるんだ」 「俺たちなんか邪険にされて女子に靴は踏まれるわ、面と向かって邪魔! って怒鳴られるわ、荷物を押し付けられるわ……」 「ああ、なんというか、その……。おつかれ」  拓斗と目を合わせ、苦笑するしかなかった。  寄宿舎のカフェテリアでの最後の夕食、安西と伊達はやけになったようでグリーンピースを山のように盛り、怒涛の勢いでたいらげていた。

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