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第48話

「拓斗、お願いがあるんだ」  放課後の教室、帰り仕度でざわつくなか、俺は拓斗の袖を引いた。 「なに?」  拓斗は思いっきりの、良い笑顔で俺を振り返る。 「今日、天体観測したいんだ。それが俺の誕生日のお願い」  拓斗は俺の顔をじっと見つめるとうなずいた。 「じゃあ、野球部が終わったら、春日公園に行こう」  天気がよく暖かく、俺のピッチングはかなり上達し。気持ちよく投げ、気持ちよく走った。  最近は陽が長くなってきて野球部の練習時間も伸びた。その分、拓斗を待たせる時間が伸びるのが申し訳ない。拓斗は「その分本が読めるよ」と苦にもしないのだが。 「お待たせ」  部室から出て拓斗と落ち合う。拓斗は俺の手をきゅっと握って軽く振る。 「楽しみだなあ、君と天体観測なんて」 「観測って言っても、俺はただ見るだけだけどな」 「見るだけでも価値があるよ。三年ぶりの皆既月食。こんなに晴れて雲一つないなんて」 「夜に、晴れてっていうの、なんか新鮮だな」 「そお?天文部では普通に使うよ」  空には真ん丸な月が浮かんでいる。今はまだ黄色のいつもの月だ。ウサギが餅をついている。 「皆既月食って月が全部欠けるのか?」 「欠けるって言うのかなあ。まあ、見たらわかるよ」  拓斗はネタバレ厳禁派だ。映画や漫画のオチを先に話したら烈火のごとく怒り、推理小説に至ってはあらすじさえ伏せたがる。  春日公園は広々と、月明かりで明るかった。水銀灯がぽつりぽつりとあるのだが、いっそ灯りがなくて月明かりだけの方が歩きやすいのではないだろうか。 「月蝕は何時からだっけ」 「八時半ごろから三十分間くらいだね。芝生広場で見ようか」  芝生広場でごろりと寝転がる。夜露で草が湿って少し冷たい。けれど拓斗と並んで空を見上げると冷たさなんか気にならなくて、俺たちは手を繋いで月蝕を待った。 「ギリシャ神話では月の女神はセレネっていうんだよ」 「へえ。女神様なのか」 「そう。彼女はエンデュミオンという人間に恋をした。けれど人間は老いて死んでしまう。それに耐えられなかった彼女はエンデュミオンを永遠の眠りにつかせたんだ」 「え? 殺したのか?」 「ううん、文字通り、永遠に目が覚めないだけ。その分、年もとらないし死にもしない」  拓斗が口を閉じ、しんとした夜気が俺の胸に落ちてくる。それは何か孤独に似ていて。 「なんか、俺わかるよ。エンデュミオンの気持ちが」  拓斗は俺の顔を見つめる。 「そんなに愛されたら、きっと今までの自分じゃいられないんだ」  俺は拓斗を見つめる。拓斗は俺の手に口づける。 「きっと、変わってしまう」  俺はそれを知っている。    ぼんやりと空を見ていると、月の端が暗くなり、少しずつ影が広がりだした。 「始まった」  拓斗がそっと呟く。 「俺たち、地球の影を見てるんだな」  皆既月食というのは月が真っ黒になるのかと思っていたが、月は赤黒くなっていった。まがまがしいと言えるほどの赤。こんな日なら悪い魔女が魔法をかけに来てもおかしくない。俺は拓斗の手を強く握った。 「恐い?」  俺は微笑んで首を横に振る。拓斗がそばにいてくれるから。 「星が眩しいな」 「いつもは月の光に隠されているけど、今日は月の方が隠されているからね」 「なんだか神話の続きみたいだな。隠された月なんて」  月はもう全て地球の影に入り、赤黒く真ん丸な姿は知らない星のようで、どこか落ち着かない。辺りは先程まで満月に照らされ、明るすぎるほどだったのに、今は真っ暗で足の先も見えない。  顔を横に向けても拓斗の輪郭が見えるだけで表情が見えない。俺はころころと転がって行って拓斗の胸に頭を乗せた。拓斗の胸に耳をつけるとトクトクと鼓動が聞こえた。  ここに拓斗がいるという証。  拓斗は俺の髪を撫でてくれた。俺たちはぴたりとくっついて月を見上げつづけた。  月が地球の影から完全に抜けるまで、俺たちは空を見ていた。満月は徐徐に輝きを取り戻し、世界はまた明るくなった。 「帰ろうか」  拓斗が立ち上がり俺の手を引き起こしてくれる。夜気で体はすっかり冷え、俺たちはしばらく抱きあって暖めあった。 「なあ、拓斗」 「うん? なに?」 「俺が永遠の眠りについたら、どうする?」  拓斗は俺にキスをする。 「絶対に目覚めさせてみせるよ」 「神様の呪いでも?」 「神を敵にまわしても勝ってみせるよ」  拓斗はもう一度俺にキスをした。  公園の出口までやってくると門扉が閉まっていた。 「ここ、門なんかあったんだね」 「全然気づかなかったな」  俺たちは顔を見合わせる。 「どうする?」 「乗り越えるしかないでしょ」  俺がもたもたと胸の高さほどの門に乗り上げている間に、拓斗はひらりと門を乗り越えた。月の光に照らされ、拓斗の髪が金に輝く。門の向こうとこちらに別れた俺たちは、別の星の生き物みたいに遠く感じた。 「ほら、おいで」  拓斗が両手を差しのべる。俺は拓斗の胸に吸い込まれるように飛び降りる。拓斗はしっかりと俺を抱き留めると頬にキスをした。 「近くにいて」  俺は拓斗に懇願する。 「いつもそばにいるよ」  拓斗は俺を抱きしめ耳元でささやいた。月の光が俺の上に拓斗の上に舞い落ちる。二人の影は一つになって長く伸びた。やっと安心した俺は拓斗の胸に頬をすりよせた。 「ありがとう、春樹」  拓斗の声に俺は顔を上げる。 「ありがとうって、なにが?」 「産まれてきてくれて。僕のものになってくれて。一緒に暮らしてくれて。月蝕を見せてくれて。春樹が春樹でいてくれて、ありがとう」  俺はくすぐったくて下を向く。 「僕を見て」  拓斗の手が俺の顎にかかり上向かせる。 「君が、好きだ」  優しいキスが降ってくる。何度も、何度も。俺は産まれてきたことに感謝する。拓斗といられることに。拓斗に愛されていることに。拓斗と生きていけることに。この世のすべてのものに感謝する。 「誕生日おめでとう、春樹」  拓斗が俺を抱きしめる。 「ありがとう」  俺が拓斗を抱きしめる。  生まれかわった月の光が俺たちを明るく照らす。次の月蝕も一緒に見よう。次の誕生日も一緒にいよう。そのためなら俺はなんでもするよ、拓斗。

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